第8話
「お任せ下さいご主人様! あんな命知らず、すぐに排除して見せますので、あなたはどんと構えていて下さい」
引き攣った笑顔。
手を引きながらリーゼはここまで言ってくれる。やってのけてくれている。
なのに、これだけ優しい彼女に傷を作ってしまったのは──
「……ご主人様?」
──僕だ。
まぎれもなく、誰の目から見ても、僕じゃないか。
逃げなきゃいけないのに、折角リーゼがまた護ってくれようと身を呈してくれているのに、走らなきゃならないのに、僕の足は動くのをやめてしまった。
疾駆していた身体は完全に止まり、お互いの乱れた吐息だけがその場にはあった。
顔はアスファルトを向き、リーゼの心配に濡れているであろう顔が僕を見ている気がする。
立ち止まっている暇はないのに、またリーゼに迷惑をかけてしまった。
「いかがされましたか! ハッ!? まさか、やはりどこかお怪我をされておりましたか!? 気付かずにいて誠に申し訳ありません! 傷はどこですか!? 応急処置にはなりますが、とにかく今すぐ……」
「リーゼ」
甘かった。
僕の考えはどこまでもどろどろな蜂蜜の如く甘くって、結局姉上の考えが正しかった。
何でこんななんだ、僕って奴は。信頼だけじゃ運命は変わらないはずなのに、重荷をリーゼにだけ背負わせて、僕は何をしているんだ。
いつも何とかなっていただけで、これからも何とかなる保証なんてないのが人生なのに。
例えそれが決められた死の泥の中を歩いている馬鹿でも、変わらないってのに。
「……ごめん」
「いえそんな、ご主人様は何も悪く……」
「違う、僕が悪いんだ。君を傷付けてしまった……全部、君に押し付けてしまった……」
どうしてこんな人生なのかな。
どうしてこんなにも、僕は弱いのかな。
何もかもが嫌になる。前にもこんな感情、あったっけな。
それはいつのことだっただろうか。
もう、覚えていない。思い出せそうにないし、その必要はないのだろう。
「ごめんね……いつもいつも、こんな……こんな目に遭わせて……僕にこんな力が無ければ……僕が、こんなんじゃなかったら……」
力のせいにしちゃいけない、悪いのは僕だ。
力を言い訳に逃げて、押し付けてしまった、僕が悪いんだ。
「──ご主人様」
いっそリーゼには逃げ出して欲しかった。
もうやってられるかと、こんな奴の所にはいられないと言ってもらえたなら、僕がどれだけ救われるだろうか。
「痛いのも、苦しいのも、しんどいのも、全部、全部押し付けて──ごめん……!」
「──顔をお上げ下さい!」
「ブヘッ!?」
両頬を思い切り叩かれ、そのまま無理やり顔を持ち上げられる。そこには真面目な顔でいるリーゼが居た。
痛むはずの左肩を無理して動かして、僕に前を向かせた彼女は言う。
「恐れながら申し上げます、今から大変失礼な態度を取りますが、どうかお許し下さい! 罰はいくらでも受ける覚悟です! それでは──」
「イッデェ!?」
すぅっと息を吸い込み、吐き出すように怒気に溢れた顔で思い切り頭突きをかまして来た。
目の前がちかちかと光が散り、額は腫れ上がっているのではと錯覚するように痛みが走り、熱がこもる。
「ふざけんなっ!」
そんな何もかもを吹き飛ばすには、リーゼの怒号は充分だった。
「良い!? 一度しか言わないから良く聞きなさい、このすっとこどっこい!
私が伊達や酔狂でこんなことしてると思うな!
私が! 自分の意思で! この仕事に誇りを持って日々自らを磨き続けてここに立ってんだ!
それを何ですか、僕が悪い、僕が傷付けたって……!
痛いの?
苦しいの?
しんどいの?
何でもかんでも上等よ、かかって来なさいよ!
私はそれ以上の力で捩じ伏せてあなたを護る!
命令されたから、頼まれたから護るんじゃない!
私があなたを護りたいからここにいるんだ!
そりゃあその上ではあらゆる障害があるわよ、痛いのとか苦しいのとかしんどいのとか!
けどそんなの元より覚悟の上、死と隣合わせなあなたの痛みや苦しみやしんどさに比べたら、火を浴びる方がよっぽど楽よ!
私はあなたに生きて欲しい!
運命なんかに挫けないで欲しい!
あなたは弱くなんてない、今までこれだけの死を乗り越えて来た強さがある!
その一片でも力になれるのなら!
それであなたが救われるのなら!
私はいくらでも引き金を引くし、生きてる限り運命なんてぶっ殺してあなたを生かしてみせる!」
言いたいことを言って、長距離を走り終えたスプリンターのように絶え絶えの呼吸のまますっきりした面持ちで笑みを浮かべる。
今まで見たことのないくらい安心する顔を近付け、ふと僕は思った。
「私はあなたを護りたい。ただそれだけよ」
──母さん?
全く似ても似つかないのに、どうして今はもう居ない母さんの姿を重ねるのだろうか。
「──リーゼ」
掛けた声は届いただろうか、僕から離れ太陽を目指す向日葵のように背筋を伸ばしてから、ガバッと勢い良く頭が下げられる。
「大変無礼極まりない態度、このエウスリーゼ ・エイプリルの全身全霊をかけて償わせて頂きます! 何なりと罰を申し付けて下さいませ!」
遅刻寸前の朝みたいに頭を上げたそこには、見慣れたリーゼのキリッと逞しい表情。
何も言えなくなった僕は後ずさり、迫力に押されたままでいたせいで何も言えずに立ち尽くしてしまった。
静まり返った住宅街。今何から逃げて、どうしようとしていたのかを忘れてしまう程の叱咤を受けて、息を飲む。
けれど、結局僕は何も変わらない。馬鹿で愚かな詩に縛られた存在。
覚悟を決めようとした僕の弱い心は、リーゼの胸を貫く凶弾によって遮られてしまい。
力無く倒れ込む彼女を抱き留め、心臓が痛い程高鳴った。
飛び出しそうな心臓とは裏腹に動けなくなった僕は、恐る恐る眼下に注意を向ける。
リーゼがそうしたように、僕の胸の中でまるで人形のように動かなくなった彼女の背中には、肩に空いた穴と同じ円が刻まれていて。
酩酊したかのように震える手にはこれから先僕自身から見ることになるであろう、体内を巡る赤がべったりと張り付いていて──
「りいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぜえええええええええええええええええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!」
僕は、世界にとって死ぬべき存在なのだと悟る。