cinéma
人は誰もが孤独に耐えられないというが、他者との軋轢が生じたり関係性そのものに嫌気がさしたりした時に、進んで孤独を選ぶこともある。孤独、といっても、僕の使うこの言葉は深遠な意味を含んだものではなく、たんに疲れを癒すためのひと時の場所や時間や、別世界への入り口を意味する。
──別世界。
その夜、仕事を終えてからまっすぐ家に帰らず、途中の立川駅を降りた。
何年ぶりだろうか。恋人と別れて以来、この街に降りたことはなかった。不思議なことに、僕の足は勝手に映画館へ向かっていた。観たい映画があるわけではなかった。最近は仕事が忙しく、映画どころか文化的な活動はほとんどできていない。
映画館の前で、掲示板一面に貼ってあるポスターを眺める。アクション、ホラー、SF、コメディ、歴史物、恋愛物……。恋愛モノだけはないな、と思う。子どもの頃から恋愛だけをテーマにしたドラマや映画が嫌いだった。とくに、不治の病と恋愛を結びつける物語には吐き気がした。でも、別れた彼女は違った。
「いいじゃない、恋愛モノが好きだって」
あの時、彼女はふくれた顔をして、僕の意見に反論した。永遠の愛、という大袈裟な言葉を使ってまで、恋愛をテーマにした映画を擁護した。世の中には女と男しかいないんだから、とも言った。
「まあ、俺の趣味を押し付けるわけじゃないけど、せめて、アクションが必要かな。百歩譲って」
僕は、バンバン、と鉄砲を撃つ真似事をして彼女を茶化した。彼女は呆れたように微笑んで、僕を肘でつついた。
「まったく、子どもなんだから」
肩までの髪が、笑うたびに小さく揺れて、頬におちる薄い影が、きれいだった。
それから互いの仕事が忙しくなって、僕らはなんとなく別れてしまった。些細な諍いがきっかけで疎遠になっていったような気がするけれど、はっきりとした原因は思い出せない。
その原因を探ることはもはや不可能なのだが……。
別れてからしばらくして、彼女が不治の病で亡くなった、と風の噂で聞いた。
──別世界への入り口。
僕がぼんやり掲示板を見上げていると、隣で大学生くらいの女性がため息をついていた。何を観たらいいか、迷っているようだった。僕はふと、思ってもいないことを口にしていた。
「やっぱり映画は、恋愛モノに限るな」
驚いた女性は、怪訝な顔で僕の顔を見た。
それから彼女は笑みを浮かべて、「先生でもそんな映画を観るんですねえっ」と言った。
「え?」
彼女は僕が講師をしている大学の学生だった。
❇︎
──別世界への入り口、としての映画。
シネマ、という言葉は、十九世紀末、リュミエール兄弟が初めてスクリーン上映をしたときに広まったという。撮影機と映写機を兼ね備えた装置は〈シネマトグラフ・リュミエール〉と名付けられ、世間の耳目を集めることになる。
僕の専門は心理学だから機械のことはよく分からないのだが、アートの手法が絵画から写真、映画へとシフトしていくことで、表現の幅が広がる一方、人間の想像力への影響はどのように変化したのか、興味があった。カラーテレビよりも白黒テレビの方が、人の想像力を掻き立てる、と誰かが言っていたのを思い出す。
「先生、そんな難しいことはいいから、あの映画にしようよ」
しようよ? いつの間にか、一緒に観ることになってしまった成り行きに、僕は呆れながらも、まあ、たまにはいいか、という気持ちになっていた。学生が選んだのは、『ジョーカー』という、暴力的で暗く哀しい映画だった。恋愛モノとはほど遠かった。
上映中、彼女はポップコーンをシャリシャリと噛み下し、つかえそうになるとコーラでそれを流し込んでいた。主人公のジョーカーが喜ぶ場面では笑顔になり、拳銃をぶっ放すシーンでは目を見張り、悲しいシーンでは涙を流していた。感情の豊かな学生なんだな、と思う。
映画を観ながら、シネマトグラフという言葉を最初に使ったのはレオン・ブーリーという「発明狂の技師」であったと、モノの本に書いてあるのを思い出した。ギリシャ語の〈動く〉と〈描く〉の合成語らしい。しかし、彼の名はほとんど歴史に残ることはなく、リュミエール兄弟という名の方が人口に膾炙することになる。そこに歴史の不思議を感じた。
映画を観終わって外に出ると、彼女は興奮したように感想を喋り続けた。街灯に照らされ、僕と彼女の二人の影が、路面に淡く伸びている。
「……、先生も、そう思いませんか? 世の中って、不条理ですよ」
「ああ、まあ、そうだね」
僕はどこかぼんやりしていて、ほとんど生返事だった。
二人は、他の勤め人や学生や酔っ払いたちと同じように、立川駅の改札の向こう側に吸い込まれていった。吸い込まれていく。
──別世界から、現実の世界へと。
反対側のホームへ向かう彼女との別れ際、僕はふと大きめの声で呼び止める。
「あのさっ。もし良かったら……、良かったらでいいんだけど、今度また、一緒に観ない? 映画」
彼女は首を傾げ、笑いながら言った。
「はは……、下手くそなナンパみたいですね! いいですよ、また観ましょう、映画。今度は、……」
「今度は恋愛モノがいいな」
彼女は吹き出して、「ないない」というふうに手を振った。そして、いつの間にか人混みに紛れて消えてしまった。
日常は、映画のような劇的な展開を見せることはしない。しかし、人生という物語は着実に進んでいく。駅のホームに入ってくる中央線の背景に、エンドロールが流れ、僕や彼女の名前が刻まれているような気がした。【了】