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ヒトオオカミ―Canis lupus―

作者: かるめん

この作品は作者が舞氏のHP、「ARCADIA」と自分のHP「たわごと御殿」に掲載しているものを再度投稿したものです。

 閑静な田園都市で『平成の切り裂きジャック』と呼ばれる凄惨な殺人事件が起きたの三日前のこと。

 被害者は四人、いずれも女性ばかり。

 全員が鋭い刃物で頚部を切断されていた。

 警察は発表を控えていたが、遺体にはいずれも牙で齧られ、血を啜り取られたような痕跡があった。

 犯人はまだ捕まっていない……。


 そして、同じ田園都市の夜道を一人の少女が息切らしながら走り続けていた。

 天に輝く三日月の明かりは心許なく、追跡者の姿を完全に照らし出すことができない。

 黄色い一対の瞳が燐光を放ちながら、少女の後を追っていた。

 鋭い爪を持った四本足が火花を吹きそうな勢いで地面を蹴る。

 手足を動かしながら、少女は夢遊病者のようにぶつぶつと呟く。


 どうしてどうして!

 なんでなんで!

 うそうそ!

 あんなものが日本にいるわけない!


 どんな否定しても背後の足音は消えるどころか、ますます大きくなるばかり。

 ついに堪えきれなくなった少女は背後を一目見ようと振り返った。

 そして、前から飛び出した青年にぶつかりそうになった。

「急いで僕の後ろに隠れなさい!」

 一瞬迷ったが、少女は突然現れた青年の言う通りにした。

 青年は少女を背後に庇いながら、追跡者と向かい合った。

 六メートルの距離を挟んで、人と獣の瞳が見つめ合う。

 一人と一匹の間で緊張の天秤が揺れ動き、最後に一方に傾いた。


 獣は低い唸り声を漏らすと、青年たちに背を向け闇の中に姿を消した。

 獣が立ち去った後、少女はまだ震えの止まない声で聞いた。

「あの、あ、あなたは、あれは一体何なの?」

 青年は事もなげに答えた。

「僕はただの通りすがりですよ。そして、貴女を襲ったあの獣、あれはおそらく人狼でしょう」

 泣くとも笑うともつかぬ奇妙な表情が少女の顔を支配した。

「人狼って映画に出て来る狼男のこと?  満月の夜に変身して、わおーんって吠える奴……。でも、今夜はまだ満月じゃないわよ」

「ああ、それはちょっと違います。人狼が満月に変身するというのは、目の悪い狼たちが月の明るい夜によく狩りをしたことから生まれたデマです。本物の人狼なら満月だろうと、新月だろうと好きな時に自分の意志だけで変身することができますよ」

 少女は恐怖に顔を強張らせながら、獣が走り去った方向を見た。

「なら、ここを離れないと! 狼は群れで狩りをするんでしょ? あいつが仲間を連れてくる前に速く逃げなくちゃっ! この間ここで起こった通り魔事件だってきっとあいつらの仕業に違いないわ」

 青年は少女を安心させるように頭を振って微笑んだ。

 少女は安心するどころか、その笑顔に不気味なものを感じて却って震え上がった。


「僕はそうは思いませんね。本物の人狼は映画と違って臆病で大人しい生き物です。彼らが狩り以外で牙を剥くのは同類に縄張りを脅かされた時か、仲間に危険が及びそうな時だけです。普通の人狼は滅多に人間を襲ったりしません。ちなみに人狼に噛まれても彼らの仲間になる恐れはないですよ。あれも狂犬病にかかった狼や人狼が人を噛んだせいで広まったただのデマです」

 青年が笑顔を保ったまま懐に手を伸ばす。

 少女は彼の胸元が不自然に膨らんでいることに気付いていた。

「じゃあ、なんで…………」

「人狼が貴女を襲ったか、ですって? それはもちろん―――



 ―――貴女が彼女の縄張りを荒らした同類だからですよ!」



 青年の手が胸のホルスターに納められた短剣の柄を握る。

 だが、銀の刃を鞘から抜き出すよりも速く猛禽のような鈎爪を備えた指が、青年の右手首を押さえ込んだ。

 面を上げれば目の前には少女の皮を脱ぎ捨てた妖物の素顔。

 石炭色に瞳を灼熱させながら、牙を剥く。

 首筋に食らいつかれる寸前、青年は左の袖口を妖物の心臓に向けた。

 鋼のバネが弾ける音がした。

 袖箭、中国で暗殺などに使われたミニサイズのクロスボウだ。

 自動車のサスにも使われる強力バネを仕込まれた弓は、銀の鏃を寸分の狂いも妖物の心臓に送り込んだ。

 妖物は胸に刺さった矢を見つめながら、呆然と数歩後ろに下がった。


 一瞬、青年が気を抜きそうになったその時、左から走る刃風が彼の首に襲い掛かった。

 間一髪、飛びのくことに成功。

 着地した後に始めて出血と痛みに気付いた。

 敵の狙った個所をあらかじめ知っていなければ避けられない一撃だった。

 人間離れした恐るべき速さだった。

「……あら、ずいぶん勿体振るから警戒したけど、所詮この程度? 残念だったわね人間。私は吸血鬼じゃないから銀の矢なんかじゃあ死なないわよ」

 いつの間にか妖物の手に分厚い斧が握られていた。

 刃に着いた血を蜥蜴のような長く先割れした舌で舐めとる。

 すると赤茶色だった髪が燃えるような真紅に染まった。

 妖物の顔に浮かぶ恍惚の表情。


 ここに至って青年はようやく敵の正体に気付いた。

 レッドキャップ!

 斧で犠牲者の首を切り取り、傷口から血を啜って帽子や髪を染める凶暴な妖精だ。

 自分の見込み違いが口惜しい。

 半不死のレッドキャップには銀の武器は効かない。

 邪悪な妖精を倒せるのは冷たい鉄でできた武器か或いは―――。

 青年がレッドキャップに背を向けて走り出した。

 邪妖精が奇声を上げてその後を追う。

 獣なみのスピードで瞬く間に距離を詰める。

 青年が躓いて転んだ。

 妖精が斧を振りかぶった。



 ―――首が千切れた。 



 青年ではなく、レッドキャップの首が。

 司令塔を無くした体はなおも五、六メートル走って転び、死んだ鶏のようにばたばた地面を蹴った。

 倒れた妖精の背後には狼の頭を持った巨人が立っていた。

 二メートル近い長身でありながら、体全体のフォルムはスリムで腕は足と同じくらい細長い。

 鋭い爪を生やした手の中で捩切られたレッドキャップの首が、自分の惨状を問い掛けるようにきょときょと目を動かしていた。

 青年はアスファルトの地面に尻餅をつきながら、恐ろしくも美しい獣を見上げていた。

 人狼もまた疲労と出血でもう一歩も走れない青年を見下ろしていた。

 人間の百万倍、臭いによっては一億倍とも言われる嗅覚が大気中に血の臭いを嗅ぎ付ける。

 長い鼻面にシワが寄った。

 唇がめくれて長大な牙が露わになる。

 人狼はレッドキャップの生首を地面にたたき付けると、一気に青年に跳び掛かり、



「あははははは、ひゃひゃひゃひゃ、ひ、ひぃ、ちょっと、ひひひ、や、やめて!」



 ざらざらした肉食獣の舌で傷口を舐められ、悶絶するほど痛痒い。

 なんとか舐めるのをやめてもらおうと相手を押し退けようとした。

 しかし、透き通った刃物のような獣の目を見た瞬間、毛皮に埋めた指は力を失い、言葉は喉の奥へ逃げ帰った。

 人狼が口を開いた。

 ずらりと牙が並ぶその顎から飛び出したのは意外にも若い女の声だった。

 「嘘つき!」と彼女は言った。

「危ないことする、しない言った。始めの計画、わたし、獲物追い掛ける。それから逃げる振りする。あなた、獲物の気引く。最後、わたし、油断する獲物後ろから殺す。なぜ、先走った?」

「あ、うん。確かに少し危なかったけどさ……。最後には計画通り上手く行ったんだから、結果オーライって、痛だだだだだぁっっ!!」

 狼の牙は犬のものよりもはるかに長くて鋭い。

 例え甘噛みでも、噛まれる側は溜まったものではない。

 青年は潔く言い訳を諦め、

「ごめん。僕は君にあんまり危ないことをさせたくなかったんだ。たまにはお嫁さんの前でちょっと格好つけたかったしね……」

 人狼は青年の澄んだ黒い瞳を見つめながら、噛みついた口を放した。

 野生の狼がするように、顎を青年の肩に乗せる。

「今日、許す。でも、わたし、強い。もっと、わたし、信じろ」

 言葉で返事をする代わりに抱きしめ、相手のタテガミに顔を埋めた。

 相手が同じように抱き返すのを感じた。

 気が着けば体が宙に浮いていた。

 雌の人狼は傷ついたパートナーを抱きかかえながら、風のような速さで家路に向かう。

 いわゆるお姫様抱っこ、格好をつけたい男の子としてはなんとも居心地の悪い姿である。

 しかし、青年はこの屈辱はあえて受け入れることにした。

 人狼たちは臆病だけど勇敢。

 仲間思いで、唯一人の伴侶を何より大切にする。

 そんな彼女を愛したんだから、今夜一晩家で舐めまわされるぐらいは仕方がないだろう……。



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