学園祭二日前 19:15
私は茉莉に引っ張られる形で、ぽつぽつと灯りのともる校舎3階の廊下を歩いていた。
既に女子トイレに放り込まれて、半ば無理やり顔を洗わされた後である。
濡れてしまって完全に乾ききっていない前髪が私の顔にかかって、ちょっと鬱陶しい。
「ねー茉莉、ごめんって」
「うっさい!全く佐弓はいつもいつもそうなんだから!
クラスの女子が盛り上がっててもぼんやり遠巻きに眺めているだけで輪に加わらないし、体育祭も学園祭もやることはやるけどどこか他人事だし。
これでテストの点数がいいとか美人とかなら絵にもなるけど、そうじゃないなら一匹狼気取っててハズしてるだけだからね?」
私の腕を引っ張りながら、すたすた歩きながら、ズバズバと切り込んでくる茉莉の言葉の一つ一つに、私は空いている腕で胸を押さえた。
ハズしてる一匹狼気取り。うん、その通りすぎてツラい。
別に学校生活が楽しくないとか、クール気取ってるとかそういうわけではない。ないのだが、どことなく学校の皆を醒めた目で見ている節はあった。
青春とか言ってバカみたいにはしゃいで、大人を先取りしているみたいに化粧やバイトに手を出し始めたりして、周囲の皆が生き急いでいるように見えて仕方がなかった。
皆が言う、華の十代は今しかないのだと。分かる。
分かるからこそ、もう少しゆっくり歩いていても、いいのではないだろうかと。
そう、再び思考の海に潜りそうになったところで、茉莉が不意に足を止めた。
「……?茉莉、どうしたの――」
「シッ、静かに」
茉莉が急に息をひそめ、小声になった。
私が首を傾げると、茉莉の指が廊下の向こうを指さした。
「あっちの方。なんか変な音が聞こえない?」
その言葉に、指をさされた方に意識を向けつつ、耳を澄ませてみる。
確かに夜の学校としては不自然な、カシャ、カシャという金属が不規則にこすれ合うような音が聞こえた。
「軽音部の練習の音……じゃない、よね」
「こんな夜よ?夜の練習は禁止されてるし、もう帰ってる。
第一、音楽室は4階でしょ?ここ3階よ、この先にあるのなんて視聴覚室と化学実験室……」
そこまで言って、弾かれるように窓の外を見て、茉莉の顔からサッと血の気が引いた。
窓の外を見たまま硬直する茉莉の顔を、訝しげに私は覗き込む。茉莉は小さく震えていた。
「大丈夫、具合でも悪くなった……?」
「ねぇ、佐弓さ……『となりの倉庫の鎧さん』の話、さすがに佐弓も聞いたことあるよね?」
震えた声でつぶやくように告げる茉莉の言葉に、私は小さくあっと声を漏らした。
「となりの倉庫の鎧さん」。
この伊加原女子高等学校に伝わる七不思議の一つ。
3階の視聴覚室の隣には備品や古い品々を保管している倉庫があり、その中に学校が出来た当初から収められている、剣を携えた西洋鎧がある。
その鎧は年代を経た物なのに綺麗に磨かれ、満月の夜になるとひとりでに動き出す。
そして倉庫を出て、校内に残った不良学生を一刀のもとに斬り捨てるのだと――
私は茉莉の視線を追うようにして窓の外を見た。雲一つない夜空には、見事な満月が浮かんでいる。
満月の夜、3階、視聴覚室。
「……た、ただの噂だよ……ほんとに鎧が動き出すなんて、そんなことあるわけないじゃん……」
茉莉の肩を叩いて、笑みを作ろうとする私だったが、どうにも顔が引きつっていけない。
何となくだが、肩を叩く手も小さく震えていたような気がする。
そう、ただの噂だ。この手の怪談はどこの高校にもある話だ。
現にこれまでの高校生活の一年半、鎧が動き出すチャンスはいくらでもあったはずだが、一度としてその現場に遭遇したことはない。
ましてや校舎内で刃傷沙汰など、噂に上ったことすらないのだ。
だが茉莉は目をカッと見開いたままで、首を横に振ってみせる。
「でも、こんなにハッキリと音が聞こえてるのよ……?佐弓にも聞こえてるんでしょ……?」
茉莉の告げたその言葉に、私は唇を噛み締めて頷いた。
そう、謎の金属音は私の耳にもはっきりと届いている。それも規則的な音ではない、不規則な、身じろぎするような音だ。
気が付くと私と茉莉は、音のする方へ、視聴覚室の隣の倉庫の方へと、ゆっくりゆっくり、歩を進めていた。
「ねぇ佐弓……やめようよ、五百部達待ってるよ……」
「でも茉莉……気になるじゃん……」
「何よ……そんなとこだけグイグイ行くんだからさ……マイペース女め……」
お互い声を震わせながら、身体を震わせながら、音を立てないように少しずつ、廊下を進んでいく。
怖い。
とても怖い。
もし扉の前に立った瞬間、中から鎧が飛び出して来たら。
悲鳴を上げる間もなく、鎧の持つ剣に斬られてしまったら。
どうしよう。どうしよう。
でも、気になる。
本当にあの怪談が真実なのか。本当に鎧は動き出すのか。
程なくして倉庫の扉が近づき、中から聞こえる金属音が現実に聞こえる音だと認識できるくらいになったタイミング。
倉庫の扉まであと1メートルちょっと、手を伸ばせば扉にかかるか、というタイミング。
刹那。
ガシャァァーーーン!!
ガラガラ……
倉庫の中から一際大きな、大きなものが崩れるような音が響き渡る。
その音に私と茉莉は、飛び上がらんばかりに驚いた。
気が付いたら二人して抱き合ってぶるぶる震えながら、倉庫の扉を凝視していた。
「な、なんだろうね今の音……!?」
「何って、こんな、大きな音立てて崩れるようなものなんて、この倉庫の中にはあれしか……!!」
もう茉莉は涙声だ。強気に見せておいて、意外と怖がりだったんだなぁって、どこか他人事な思考が脳内に浮かぶが、すぐに恐怖に押し流されていく。
どうにもできず、どうしようとも思いつかず、ただ硬直していた私達の耳に。
「すみませ~ん……倉庫の外、誰かいませんか~……?」
ちょっと間延びした、ゆったりした口調の……恐らくは壮年だろう、男性の声が聞こえてきた。
声は、明らかに倉庫の中から聞こえてくる。
中から聞こえた声に、私達二人は震えも忘れ、互いに顔を見合わせた。そして同時に、気が抜けたように表情が緩む。
「ほ、ほら、中に誰かいるんだよ。鎧が話しかけてくるわけないじゃん、ね?」
「そ、そうだよね。誰かのイタズラなんだよ、きっとそうだよ」
ははは、と乾いた笑いを二人して零しながら、私はいやに呆気なく、まるで自分のロッカーを開けるかのように、ガラガラと倉庫の引き戸を開けた。
果たして中には。
予想通り、剣を右手に握ったままでうつ伏せに倒れた西洋鎧。
その上に覆いかぶさるように積み上がった段ボールと、優勝カップと、革の鞄と……その他諸々雑多な品々。
それらの向こうに見える、いつも鎧が設えられているアーマースタンド。
まさしく大惨事だ。この倉庫には古い物品も収められているのではなかったか。
あまりの状況に私も茉莉も言葉が出ない。二人して立ち尽くしていると、先程の男性の声が聞こえた。
「あ~よかった~、人が来てくれた。ごめん、落っこちてきた段ボールとか、除けてもらっていいかなぁ?」
こんな状況でも変わらず間延びした声。その声の出所を探し、私は視線を動かした。
自身の足元へ――だ。
その視線の先には、コロコロと転がってきたのだろう、西洋鎧の兜だけがあった。
奥で倒れる西洋鎧の中に、人の姿は、無い。
「「出たァァァァァァァァァ!!??」」
鎧が話しかけてきた事実に直面した私と茉莉の、女子生徒二人の悲鳴が、校舎の3階に響き渡った。