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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

進化の秘本 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と、内容についての記録の一編。


あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。

 ああっと、やっぱり新巻は貸出予約待ちかあ。前に20人もいるし、こりゃあしばらく読めそうにないね。ハードカバーの本って値が張るし、部屋が重たくなるから置いておきたくないんだ。

 何度も読み返すほどの名著に出会える機会なんて、限られている。開かれ、読まれていない間の本は、ただの置物。無用の長物だ。

 かといって、いつでもアクセスして取り出せる電子書籍だと、「めくる」とか「たぐる」とかを味わえない。真新しい紙、年経た紙のそれぞれが持つ、独特の香りも楽しめない。抱えること、支えることの重さも感じられない。どうにも読んでいるより、流しているような感じを覚えてしまう。

 そうなると両者の折衷案せっちゅうあんとして、僕は図書館で本を借り続けるというわけだ。紙の本、無くならないで欲しいな。でも、ちょっぴり怖いなと感じる時もある。

 ――何があったかって? いやあ、それがちょっと不思議なことでさあ。


 僕が小さい頃って、入学祝いのプレゼントが図書券だったんだよね。これを使って、本を買いなさいっていう意味だったんだろうけど。当時はまだ好き勝手に使うことが許されていなくってさあ、親が率先して参考書とか、学習本とかに替えちゃったんだよ。幸い、僕は本とは相性が良かったからいいものの、一歩間違えたら大げんかだったろうね。

 それから本にハマった僕は、資金不足も手伝って、図書館の利用率も上がったというわけ。当時から、僕は文字を追う以外にも、紙の匂いも好きな、ちょっと変わった子供でね。ぺらぺらと紙をめくるだけでも、楽しかったんだ。

 特に傷んだ本や、難解な本ほど、鼻を刺激する。僕は匂いのためだけに、それらを借りることもあった。時間があれば、しょっちゅう図書館に通っていたものだから、貸出カウンターのお姉さんの何人かに、顔を覚えられてしまったらしい。「よくこんなの読めるねえ」と、時々、声を掛けられたよ。

 正直、手続きをする付き合いしかない人に、個人的好みを評されるのは、ちょっと不愉快だったから、反応しなかったけど。

 そうやって本を片っ端から漁っていた時、僕はその一冊に出会ったんだ。


 ラベル400番台。自然科学分類の本棚に、それは何食わぬ顔をしながら混じっていた。

 君はB4判の本を、読んだことがあるだろうか? 画集とかグラフが中心に載っている雑誌とかだと、このサイズのものがある。読むというより、見ることに重点を置いていて、床や机の上に広げて眺めるのが、だいたいの人のスタイルだろう。

 僕はそっとページを開いてみる。確かにところどころ絵が入っているが、写真だったり、筆者のハンドメイドによる資料だったりを、そのまま掲載したものばかりだった。

 しかし、それらは一ページの3割程度を占めるに過ぎず、きっちりと確保された余白をのぞけば、残りは文字がびっしりと張り付いている。日本語が入っているのは分かったけど、かなり難しい漢字が使われている上に、引用していると思しき部分で、何ヶ国語も入っている。中にはまだ、僕が見たことのない形の文字も。


 だが、匂いがする。まるで、紙に加工される前の木。それに茂るであろう葉っぱの香り。ページを手繰るたび、それが風となって、あたかもたんぽぽの綿毛のごとく、芳香を空に浮かばせて、僕の鼻腔へと滑り込ませていく。それが、奥底にある脳を捕らえて、離さなかった。

 残りはまだまだある。僕は即、貸出カウンターに持っていった。図書館は人がいる。誰もいない部屋の中で、じっくり見たい。そう思ったんだ。

 手続きを終えて、僕は家に帰る。ただいまのあいさつもそこそこに、手も洗わないまま、自分の部屋に飛び込んだ。早速、本を開いてさっきの続きから読もうと、僕はつい、乱暴にページをめくってしまったんだ。


 左手の親指。その表面を、何かが深くなぞった。すぐ、違和感が熱に変わり、追って痛みがやって来る。

 切った。僕は思わず指を確かめる。親指の中腹で、一筋の皮膚がめくり上がり、できた谷間から、血がぷっくりと山のように膨らんだ。僕は指を口に含みながら、本のページに目を走らせる。汚していたら、ことだからだ。

 幸い、血はついていない。僕はほっとしながら、しゃぶっていた指を出す。ぬめってはいたがそれは全部、だえき。血は残っていない。それどころか、皮膚が元に戻っているように見えた。湿ったことで、めくれた皮膚が押さえつけられたのかな、と思ったよ。


 匂いを嗅ぐのがメインとはいえ、めくったページの文字や挿絵も目には入れる。文章はほとんど分からなかったから、挿絵の方を読むのに力を入れたよ。

 どうも生物の進化過程を書いてあるもののようだった。たいていが、手書きの折れ線グラフで、左端はほぼゼロに近いところに点が打ってある。それが、右に進むにつれて、ぐんぐん尻上がりに伸びていくんだ。

 グラフの下には絵が描いてあって、左端の下にはグニャグニャとした、アメーバみたいなもの。それが中間ではイモムシに変わり、右端ではチョウになっている。両羽の中心に、ヒョウタンのような文様を持つようだ。

 横線は時間だというのは何となくわかったけど、縦線の名前は、知らない言葉で書かれていて理解できなかった。ダメもとで親に聞いてみたものの、回答はお察し。


 僕は貸出期間いっぱいを使って、存分に本を堪能した。ページの最初の方は、年季の入った木材の匂いが強いんだけど、先へ進んでいくにつれて、匂いはどんどん「紙」そのものになっていく。

 ビニールがかけられた本を取り出す時にする、あの匂い。それを何倍にも高めたようなものだ。

 例の折れ線グラフは、しばしばページにしゃしゃり出てきたよ。やはり左端には未成熟な生き物像。右に進んでいくと、進化した生き物像が描かれることは違いなさそうだ。後半に向かうにつれて、多様な生き物が出てくる。けれど、どれもこれも、グラフの始まりは、例のいびつな形のおにぎりアメーバなんだ。

 更に、後ろの方のページには、見たことのない生物が載っていた。その時の僕にはわからなかったけど、あれは神話に出てくる生き物。数々の生き物が一つに混じった身体構造を持つ、合いの子たちだったんだ。そのおぞましいタッチには、僕も苦い顔をするしかなかったよ。

 ともあれ、匂いは堪能できた。次の休みに返しにいこう。そう思った。


 いつも通りの返却手続き。貸出の時と違って、本の裏面にあるバーコードを、お姉さんがスキャナーで読み取るのを待たなくていい。次なる本を求めて、踵を返しかけた時。

 返した本の、閉じたページのすき間から、何かが飛び出して僕の頬をかすめていった。

 チョウだ。盛んに羽をはばたかせ、出入り口に向かって飛んでいく。見間違いでなければ、黄色に彩られた両羽の中心に、紫色をしたヒョウタンの形の文様があった。何人かはちらりとチョウを見やったけれど、すぐにそれまで各々が読んでいた、本や新聞に目を落とす。

 僕は、チョウにかすってから、ひりひりし続ける頬を、トイレの鏡に映してみたよ。紙で切ったように細く、赤い血の筋が浮かんでいた。


 最近まで、僕はその本とチョウのこと、記憶のかなたに追いやっていたんだけど、にわかに思い出すきっかけがあったんだ。

 学校の生物の時間で習った、生物の構造。血液成分の中に含まれているという、貪食細胞「マクロファージ」。

 その姿が、あの折れ線グラフの左端に描かれていた、アメーバらしきものに、うりふたつだったんだよ。


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