32(最終話)風の行方①
静かな丘の上。
ラクダのコブのような斜面がなだらかにつづき、ところどころ、木立が並ぶ以外、草原がただ広がる。
来たこともないし、見たこともない。
それは、フルートにもはっきりとわかる。
なのに、何だか懐かしい場所だった。
フルートが、涙をぬぐってふり返ると、そこにはパァンが一人いた。
遠くには消えたはずの黒いネコが二匹、蝶々をひらひらと追って草原を転々としている。
「あれ? どうして? さっき消えちゃったはずなのに」
「そうだったっけか?」
パァンがうしろをふり返って言った。フルートは手をふって、大声で遠くを呼ぶ。
「おーい!? にゃー!! みゅーみゅー!!」
「「はーい!!」」
聞き慣れた二匹の声を出迎えに、フルートは駆けだした。
ネコたちはフルートに飛びこみ、彼女と手をつないで輪になってまわりだす。
彼らは散々にはしゃいで満足すると、今度はパァンのほうに向かって飛んでいく。
フルートは慌てて笑いながらあとをついていく。
「ふえふきんも、いっしょー!」
「いっしょー!」
パァンはにこやかに笑い返すと革の帽子を脱ぎ、助走をつけて勢いよく空に投げた。
「それっ!!」
草原の上を、空をまわって、風に上昇していく革の帽子。
帽子は太陽と重なる頂点で、三者の視線とあわさったとき、旋回して旅行鞄の上に落ちていった。
それからフルートは、旅行鞄の中を物色するネコたちを何度も叱った。
どういうわけか、鞄を勝手にあけられるネコたちに、彼女はやきもきしていた。
「こらぁーっ!」
二匹は鞄から離れると、また同じように草原を低く飛んで逃げていく。
「なんでよ? なんであけられるのよ?! こんなんだったら、はじめから鞄をあけてくれればよかったのに!」
「ハハハッ! しかたないだろ? あけられるかどうかなんて、誰も知らなかったんだ。どうもネコたちは、その鞄に気に入られでもしたんじゃないか? だって俺にはいっさいあけられないわけだし」
パァンは適当なことを言い、草原に寝そべって帽子で顔を隠した。
フルートは面倒くさそうに、鞄の中を整理しなおす。
「パァンもあいつら注意してよーっ! 鞄には大事なものが入ってるんだから」
「注意して聞くようなやつならね……」
ちらりと帽子の隙間から顔をのぞかせるパァンに、フルートは期待をしてはいけないと思った。
草原の向こうにいる二匹のネコたちも、相変わらず呑気で、今度は小さな青いパァンの笛を吹いていじりだしていた。
いつか、フルートが二匹にあげた笛だ。
彼女はその笛をあらためて見つめ、不思議に思い返していた。
「どうした?」
パァンが帽子のつばを上げて言う。
フルートは片付けもそぞろに手もとを止め、静かに遠くを眺めていた。
「ううん。ちょっとね。あの小さな青いパァンの笛のこと」
「あぁ……君が昔から身につけてたっていう首飾り……。そうか、ネコにあげたのか」
パァンは上体を起こし、草原の向こうにクスリと笑った。
「それが私、ヘイルハイムに流れ着く前に母さんの形見の笛だけ、霧の中へ投げ捨ててしまったの……。だから、あのネコにあげた〈あの笛〉はいったい何なのかなって。誰かが、私につけてくれたんだろうけど。まさか同じ笛ってこともないだろうし……」
「それはまあ……ヘイルハイムにいる、もう一人の『大切な両親』にでも聞いてみることだね」
「……うん。そうだね……」
フルートの言葉が途切れないうちに、パァンは手を叩いて思いついたように口にする。
「まさか偶然、ネコが拾ってつけてくれたりなんてね? だって君は、あの森をずっと彷徨っていたんだろう?」
「え?……そんなわけ! そもそもあの『欲ばりちゃん』が、ちゃんと返すかも怪しいのに」
「ハハッ! でもこうやって、君に会いに来てくれるんだろう? こりゃあ君がまた、笛をどこかに投げて失くさないように管理してくれてるんだろ、きっと?」
「まーた適当なことを言う!」
カラカラ笑うパァンをよそ目に、フルートはほとほと呆れ、鞄の片付けを再開する。
そして、何気なく手にした布ケースを入れようとしたとき、中身がばらけてしまった。
《《誰か》》に、ファスナーをあけられていたらしい。
フルートは大きく落胆する。しかたなく彼女は、ばらけた道具を一つ一つ入れなおす。
最後にナイフを取り上げ、これをしまえば終わりのはずだった。
ところが、何を思ったのか。フルートはナイフを持ったまま、しばらく考えこむ。
すると次には、その長い黒髪の左側を手でぐいと束ね、迷わず一直線にそぎ落とした。
パァンは少し不安げな表情で、その光景を黙って見ていた。
「……フフッ。いいの。髪なんてすぐ伸びるから」
パァンの視線に気づいたフルートは、あっけらかんと笑って言った。
彼はどこか納得した表情で、軽やかな笑みをこぼす。
「私、決めたんだ!」
右側の髪もそぎ落とすと、フルートのざんばらと少し癖のある黒髪が、あごより少し上のラインで、内側に丸みを帯びて適当にそろった。
琥珀目は、いつになく真剣だった。
「へー? いったい何を?」
真面目な顔をするフルートに、パァンは少し驚いた様子だった。
「私は「私」を謳歌する。この旅行鞄を持って旅に出るの。あのネコたちみたく、この広い草原を駆け巡るように、私だけの地図を描いて私の旅行記を完成させる! それに……」
フルートはいっとき、虚ろになった瞳に力をこめなおし、
「探さないと……セロとフィオの二人を……。きっと、どこかで無事でいるはずだから」
と言って、ナイフを布ケースに戻し、鞄に入れて蓋を閉めた。
「よぉーしっ! そうとなると、まず『ガイド』が必要ね!」
「『ガイド』?」
「〈旅の案内と護衛をする者〉よ。いくらなんでも、女一人の霧向こうの旅なんて危険に決まってるし、さすがに不安だもの……。そういえばパァン? あなたも、何か目的があって、旅をしてるんじゃないの?」
「うーん。まぁ……」
パァンは鼻の頭を掻いた。フルートは口をあけて期待し、好奇の眼差しを彼に向ける。
「俺は……そう! 俺は『真実』を求めて旅をしてる」
「『真実』? 何の真実よ?」
「『真実』は、『真実』さ!」
「はぁ? わけわかんない……ん? あれ? そういえば私たち、さっきまで〈真実〉がどうのって競ってたはずだけど、結局、勝敗はどうなったんだろう?……」
フルートは、こめかみをひとさし指でトンと叩いた。
しかし彼女は、
「ふぅん。まあ、いいか……でも、『真実を探す旅』って、謎めいてて何かおもしろそうね! それに、あなたのまわりは、いつも不思議なことが起こりそうだし……」
と言い、わざとらしく間をおいた。
「よし! それなら決まり! 私も、その『真実』とやらが気になるし、いっそのこと、いっしょに旅しましょうよ!」
フルートはパァンを楽しそうにのぞきこむ。
彼は口もとに手をやり、眉をひそめてしばらく思案した。
「それはかまわないけど。俺は、君にあわせて旅先を決めるつもりはないよ? それでよければ」
「えっ? 二人で相談とか、たまにはあるでしょ?」
「うーん。どうかな? 俺は、いつだって俺の目的で、行きたいと思う道を選ぶだけ」
「何それ! 勝手気ままなネコじゃあるまいし……じゃあ、いいもん! それで! 途中で、ちゃんとしたガイドを見つければいいんだし」
もう少しやさしくしてくれたっていいのに。
フルートは、イ―ッ、と歯を見せると、すぐに拗ねて膨れた。
パァンはなぜか、穏やかな視線を彼女に向ける。
彼女はそれに気づくと、黙って見つめ返していた。
透きとおる、まっすぐな紫水晶の瞳を前に、しだいにフルートは気まずくなった。
彼女はいったん視線をはずし、わざとらしく周囲を見渡す。身体は変にのぼせた。
「……あれ? そういえば、ネコたちは?」
さっきまで草原の向こうで、わいわいやっていた二匹のネコたちは、いつのまにか、どこにも見あたらなくなっていた。
「まぁ、あいつらは気まぐれだから。またどっか、違うところにでも遊びに行ったんだろ? また忘れた頃に、ふらっとやってくるさ」
「あぁ……なんか、わかる気がする」
想像して、二人で笑いあった。
静かな丘の上はパァンとフルートを残し、もう誰もいない。
さっきまでの出来事が、どこか遠い昔のようだった。
フルートは、二人のほかに誰もいなくったこの場所で、あらためて感傷に浸った。
「ここは、「夢」……それとも「天国」とか……いったいどこなんだろう?」
フルートは遠くを見つめ、パァンに答えを仰ぐように言った。
「さあね……俺にもわからない……。ただ、たとえ幻だって何にしたって、今、君の目前に広がっているのは、〈紛れもない事実〉――信じるかどうかは、君が決めることだけど……」
パァンは嘘が下手だとフルートは思った。
彼はおそらくぜんぶを知っている。
「こんなによくできた嘘――ほんとによくできすぎてる」
フルートはすがすがしい気持ちで、草原の地平に想いを馳せる。
「でも、何だか気持ちが、すーっとして、目が覚めたみたいな……何だろう? 今なら、あのときよりも、もっと自由に飛べるっていうか……そんな気がする――」
「それはよかった! もう、だいぶ寝坊が過ぎたみたいだし、そろそろ飛び起きないと」
「なぁんだ……やっぱり、夢なんじゃない……」
少しがっかりするように、フルートは笑った。
「おーっと! 忘れないうちに……」
パァンは、青いパァンの笛を自分の首から外し取った。
彼はその笛を手に、フルートの胸の上の笛に重ねた。
彼の手に持つ青い笛は、みるみるうちにフルートの笛と同化していき、胸の上で一つに収まった。
「……きちんと、君のもとへ返したよ」
「こ、これ、どういうこと?」
フルートは困惑を隠せなかった。
パァンはそんな彼女の表情をさらりとかわす。
「どうとでもないさ。〈本物は一つ〉ってこと……それよりも、耳を手でふさいでごらん?」
「えっ? 耳を手で? 何でよ?」
「いいから、いいから! そして目を閉じてみて」
しぶしぶフルートは、言われたように両手で耳をふさぎ、静かに目を閉じてみた。
まぶたの裏側で感じる淡い光が、たちまち心地のよい静寂へと変わる。
「どう? 自分の〈鼓動〉が聞こえるだろ?」
耳の奥にささやいて届くような、パァンの芯のある声がした。
「え? あぁ……うん……聞こえる……たしかに聞こえる……」
鼓動は一つ一つ、たしかな音を生んでは時を刻む。
それはまさしく、フルートだけの音であり、その音の振動は寄り添おうとする彼女の呼吸にぴたりとあわさった。
ほどなくして、彼女は不思議な感覚に包みこまれ、うとうとしてきた。
「そうだ……聞きたいことが……あったんだ……」
だんだん、心地よい眠りに引きこまれていく中、フルートは言葉を想い想いに紡ぎだした。
「パァンは……『風の神様』?……それとも『精霊』?」
フルートの問いに、パァンは何も答えなかった。
「そう……私てっきり……いつもパァンが……助けてくれてたんじゃっ……て……」
一つ、間をおいてパァンが言葉を返した。
「……僕の名前はパァン。ただのパァン。風の神でも、精霊でもなければ、その使いでもない……もちろん、食べる『パン』でもありません……」
フルートは笑った。パァンがまた、悪戯に微笑んでいるのを、彼女はまぶたの裏から感じ取っていた。
パァンは本当に不思議だった。
適当で、すぐにお道化てみせて、つかみどころがなくて……でも、まじめで理知的で、ときどき怖いようでやさしくもある……それはまるで、自由に吹く風……
(私に吹いてくれた「風」……)
「フフフ……あぁ、何だか、鼓動が心地いい……」
「そう……そのまま……胸の鼓動を信じて……そのまま――」
パァンのその言葉を最後に、フルートの視界はまっ白にぼやけていく。
すると一瞬……ひとーつ。
ふたーつ。
あの青白い靄に見えた、不思議な光が映って消えた。
(あれは……そうか……パァンの――)
***




