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31 旅行鞄の中の夢②

「――永遠なんてない。でも終わりもない――」



 遠くフルートの耳のうしろで、風のささやく穏やかな声がした。

 それは無機質でいて、でも遥か遠い道のりを乗り越えてきたような芯のある声だった。


 言葉はフルートにしみわたっていった。

 彼女は意識を自我に向け、でも焦点のあわない琥珀の瞳は、どこか遠くを見ているようだった。

 こんなにも、やり切れない言葉はないだろうと彼女は思った。


 それでもフルートは、かすかに心が洗われていく感覚がした。

 たとえ悲しく、虚しい現実をつきつけるものであっても、この報われないものたちの居場所を、その声は影から見つけだし、そっとやさしい光を照らしてくれるようだった。


「――この世界は、いや、どの世界だって、〈力〉と〈力〉だけがぶつかりあう。君の言う〈想い〉と〈想い〉が触れて重なり、多様な変化をもたらす。正しいか、正しくないかじゃない。強いものが、弱いものをはじき蹴散らし、のみこんでいく連続。当然、そこには痛み、苦しみ、怒り、悪心……嫌なことがたくさんはびこる。でも、それだけか?」


 声主は、浅い湖の瀬の上をゆっくりと歩き、フルートのまうしろで止まった。


「喜び、楽しみ、嬉しさ、開放感……君は、まだ短いこの人生の記憶に、少なくとも、心躍らせるようなことに巡り会えただろう?」


 フルートは、湖面にぼんやりと映る自分の姿を見た。

 ふと我に戻ると、彼女はヴィオラの頬に口づけをし、立ち上がった。


 そのままフルートは背中を半分返すと、そこには、横倒しになった旅行鞄のそばでたたずむ、一人の旅人の青年がいた。

 彼は濡れた銀色の髪に、紫水晶の瞳を夕陽に染め、胸の青い笛を大事そうに抱えていた。


 遅れて老婆がやって来た。

 フルートを追いかけ、小屋を急いで飛び出してきたのか、ずぶ濡れの彼女は全身で息を切らす。


「元気な老婆といい、髭の男にやさしそうな女性……つくづく今日は、不思議な一日だ」


 旅人は、眉をひそめて疲れた顔をした。


「パァン……」


 フルートは小さくつぶやいて、身体を向けなおした。

 パァンはゼエゼエする老婆を少し気にかけ、横目でフルートを見た。


「さぁ、どうするんだ? 『フルート』?」


 パァンは、はじめてフルートの名を呼んだ。


「どうするって……。どうするも何もない。もう、知ってるでしょ? 私のこと。あんなひどいこと言ったんだから」


 フルートは、ふたたびパァンに背を向けた。


「私は、父さんと母さんの願いには答えられない。誰の想いにも、私自身にも……ずるくて卑怯な子。やっぱり、記憶は消えないし、消したくもない。でも、こんなの終わりにしなきゃ……。私は、身体も心もちゃんとあるのに、根を張る故郷はもうない。そもそも、私の根なんてとっくに腐っちゃって。何にもない『根なし草』……」

「いいかげんになさい!! 『フルート』!!」


 あたりをつんざく若い女の声が、フルートの耳に痛いほど突き抜けた。

 言葉は頭の中で木霊こだますると、彼女は耳を疑った。

 聞こえてきたのは、故郷の言葉(フィノノグ語)だった。


 しかし、ふり返った先に老婆以外の女性はいない。

 彼女が故郷の言葉を使ったというのか。

 ただ、言葉はまだしも、その若々しい声やフルートを追って走ってきた行動は、いくら演技といえども、老婆になせるわざではなかった。


 そんな不思議な老婆は、険しく力強い瞳で、フルートをぎっと見据えていた。


「あなたは『フルート』! 私と同じ名前をもらっておいて、うつつなことを言ってちゃだめ!」


 フルートは困惑した。同じ名前とはどういうことか。

 それも同じ故郷の言葉を扱い、彼女を知る存在。


 老婆はいっそう眼光を鋭くさせ、彼女の琥珀目を捉えた。

 フルートはその瞳に、魔法をかけられたように釘付けになった。

 けれども、不思議とそうしていると、淡く琥珀こはく色に染まって見える老婆の瞳は、自分とどことなく似ているような気がした。


 謎めいたその瞳は、どんどんフルートを深淵へと引きこみ、セピア色に染まる記憶の断片を脳裏にかすめさせる。

 情景が思い浮かぶ。

 緩やかに揺れる視界からそそがれる瞳。

 見守っていてくれるやさしい瞳。


「そんな……もしかして、あなたが『大おばあちゃん』? でも、とっくに亡くなって……」


 老婆はやさしく顔をほころばせた。

 ほとんど記憶にないはずの笑顔は、なぜかフルートには懐かしかった。


「故郷も、大切な人も……失うことが、どれだけ辛いことなのかはよくわかる。過去はそう忘れられない。私もそうだったから……。でも、命はたった一度きり。本当のことはわからないけれど、きっと命は、あとにも先にもない。だから私は、今よりもっと世界を愛そうと思ったの。その『ラ=シルファ』を持って」


 老婆は胸を押さえ、湖辺の旅行鞄に目をやった。

 いつかモヘジが教えてくれた、彼の想いの詰まった鞄だ。


「『ラ=シルファ』は、旅行く先々でたくさん教えてくれた。楽しむこと。悲しむこと。うれしいこと。怒ること。愛すこと……。結局、私は過去を忘れられず、故郷と似た場所に根付いてしまったけれど、それでも大きく変われた。せいいっぱい、命を赤く燃やすことができた。過去は乗り越えられる。無理に忘れようとしなくていいの。あなたにもできるわ。だって、あなたは、私と同じ『フルート』なんですから! ンフフフッ!」


 陽は山の稜線を朱に染めた。

 黒い影が、空と湖や大地を挟みこむようにぬっと伸び、稜線付近で押し留まった。

 青葦は影に揺れる。


「そうさ、フルート! 君にならできる……。だって、君は根なし草なんかじゃない。君は、まだこれから芽を息吹く、綿のついた小さな種子なのさ。この広い世界を風に乗って、どこへだって飛んでいける。そして、新しい大地に根づくんだ」


 パァンは穏やかな口調で語る。フルートは彼を見つめた。


「たしかに、俺も君も、命あるすべてのものは、望んで生まれてきたわけじゃないかもしれない。知らないうちに、宿命さだめを背負って生きることにだってなる。でも考えてくれ……。〈生〉は、自ら望んで得られるもんじゃないだろ?」


 フルートは、はっとし、グーシャの言葉を思い出した。

 そして、彼女は両親に目を向け、自分の浴びせてしまったとげとげしい言葉に嫌悪した。


「それに、君は君でなく、いつも違う誰かを演じているのか? 他人の〈想い〉のためだけに生きるのか? 身体は何を求めた? 格別なスープは骨身に染みるだろう? 心は何をささやく?……胸に手をあてて目を閉じるんだ。心の声を聞くんだ。君は君を謳歌したか? せっかく生まれてきたんだ……もっと自分を謳歌しなきゃ……」


 フルートは胸の上の笛に手をあて、琥珀目を静かに閉じた。

 まるでパァンの言葉は、彼女のすべてを見ていてくれたかのようだった。


 食べる、走る、喜ぶ。

 泣く、怒る、甘える。

 笑う、叫ぶ、飛ぶ……。

 頭の中の〈大切な想い出たち〉とともに、身体の中を隈なく動詞が駆け巡る。

 手から足まで毛細血管が刺激され、むずかゆしびれて少し不安になる。


「傷つくのが怖いか? 傷つけるのも怖いか……でも、大丈夫。みんな同じ痛みをわかちあっている。その痛みを知るからやさしくもなれる。君はやさしい……だから、少しくらいわがままになったっていい。今の君なら、〈本当のわがまま〉が、どういうものなのかわかるはず。本当のわがままになるには、誰かの助けが、信頼が必要だから。君がわがままになるために、他のものに何か施しができたとき、そこに秩序が生まれる」


 暗闇をただ二分する稜線の朱。落陽は、これから出づる朝陽の前触れでもあった。


「さぁ……好奇心を掻き立てて、勇気をもって今を、未来を生きるんだ。鞄は君の生《旅》を照らす道標みちしるべ。その旅行鞄トロリーケースの中には、君の夢が待っている」


 旅行鞄は、夜明けの湖のまぶしいさざ波に何度も晒されていた。

 フルートは、鞄のそばに行ってしゃがみこみ、鞄のプレートの紋様に手を置く。

 てのひらの下から、淡い光のあたたかいのが、洩れ出でるのがわかった。

 光はたちまち、彼女を包みこむと、周囲の水しぶきを上げ、木枯らしを吹かせてみせた。彼女は、地に伏せて堪えた。


 ついに、鞄のふたがあくと、中から群がるように、大小さまざまの青葦が伸びだしてきた。

 上へ上へと、ぐねぐね伸びる青葦に、フルートは驚いて背中を湖面に打った。


 青葦は光に包まれ、次々と人のような形をつくりだしていく。

 それは青白い光の尾をともない、ベームとヴィオラを取り囲むと、彼らを引き連れて朝焼けの空に飛び立った。


 フルートは空を見上げ、言葉を失った。

 一つの青葦から、グーシャが顔をのぞかせたのだった。

 それだけではない。

 コップスにジーニ、モヘジにギタリ……他の青葦から形づくられたのは、これまで彼女の出会ってきた「大切な想い出たち」だった。

 彼らは、青葦から形を変え、空へと自由に伸び、フルートに微笑みかけた。


 身体を起こしたフルートは、彼らの残した光の尾の軌跡に触れようと手をかざした。

 薄れゆく青白い尾は手をすり抜け、心にやさしく触った。

 ぬくもりが伝う。


(あたたかい)


 余韻よいんに浸っていると、黒いネコが二匹、フルートの手を掻いくぐるようによぎった。

 いつのまにか、湖辺に来ていたにゃーとみゅーみゅーが、青白い光の尾を追っていった。

 岸では、パァンと老婆の隣で、ろぽが星形の目をまわし、白々とした光を身体いっぱいに浴びている。


 フルートは霧が晴れわたるように、心が軽くなっていくのがわかった。

 鼓動が高鳴り、好奇心に満ちあふれ、今なら何でもできる気がした。


 蓋のあいた旅行鞄には、方眼紙、円規ディバイダー方位磁石コンパス……大きなノートは、書きかけのページが風に捲れている。

 フルートは、道具を一つ一つ、大切になでた。


「ありがとう……ありがとう……」


 いくつもの夜を飛び越え、また新しい朝陽が昇りはじめた。


 しばらく老婆は、まぶしそうにフルートの背中を眺め、やがて隣のパァンに話しかけた。


「ねえ? 『風は切ってこそ風』だったかしら? 『風の旅人』さん?」


 老婆が横目で、パァンをいじわるに微笑んだ。彼は大きく息をついた。

 そして力強く、紫水晶の瞳を翡翠ひすい色に染めると、首を大きく横にふった。


「いいや……『風は吹くもの』さ!」


 パァンの声が凛と響きわたると、老婆と二匹のネコに、ろぽもまた、青白い光の尾を伸ばして空に飛び立っていった。

 その光は、同じ空を飛びかう他の青白い光の尾と合流し、螺旋状の束となって、風のようにフルートの胸へ吹き差した。

 胸の青いパァンの笛が踊り、驚いた彼女は鞄を抱えこんだ。


 風は花弁のように散ると、青白い光の粒をつくり、青葦の群生へと降りそそぐ。

 想い出たちは、夢から覚めるように光の微睡まどろみの中に飽和し、消えていった。


 驚いている間もなく、四散した風は湖面に沿って山肌へ伸び、地形を草原の丘へと変えていく。

 広がった草原は、丘陵から風の返しを受けると、地面の枯草を巻き上げ、上空のちぎれた雲を蹴散らし、やさしい陽だまりに包まれた。


 フルートは一つ一つ、胸の中の大切な想い出たちを想い、にじんだ視界から、旅立って行った葦跡をしきりに眺めつづけていた。


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