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31 旅行鞄の中の夢①

 「夢」。


 眠る夢のほかにもう一つは、現実に語られる夢。


 希望であふれ、実に輝いて生き生きしている。

 でも、その輝きは時の流れとともに、まっ黒に燃え尽きてしまう。


 夢を見上げて憧れるもの。

 夢の途中で情熱にかられるもの。

 夢を叶えて退屈なもの。

 夢に破れて残されたもの。


 生命はみな、大きかれ小さかれ夢の幻想的な輝きに魅了される。

 ところが、その飴玉のような花火の淡い輝きは、自分の過不足で哀れに燃え落ち、ときに他者と重なり、奪われ、掻き消され、不幸なことに、どちらも最後は幻だったことに気づく。


 夢はもろく儚い。

 それも、知らないうちに命を吸い取る悪魔のようでもある。

 これを避けようにも生命は、この宙を舞う魅惑のきらめきに心踊らされ、身体を使って大地を蹴り、跳躍するよりほかない。


 光に向かって飛びつづける小さな虫のように……


 けれども悲観しすぎなくてもいい。

 夢は命を赤く燃えあがらせ、生命を情動的に熱くさせる。

 やがてきたる純然の「死」の中で、灰色のままでいるくらいなら、赤くたぎらせた血のような命のともしびを、我がままなくらい見せつけてやったほうがいいに決まっている。


 生命とは不思議なもので、それくらいまで本気になれたとき、知らない間に生きることの醍醐だいご味が、心の底から生まれてくるものなのだ。

 本当に、本当に我がままになれたとき、不思議と大切な何かがたくさんあふれ返って見えてくる。

 一つ一つが素直にわかりだす。


 世界とは、本当におもしろくも混沌としている……



***



 冷たい雨は、あっという間にフルートをずぶ濡れにした。

 黒く長い髪は、気持ちの悪いほど顔にこびりつき、裸足の裏はじんと痛いはずだった。

 小屋を飛び出す際、とっさに引き連れてきた旅行鞄トロリーケースは、音もなく乱暴に揺れた。


 知ってのとおり、フルートには眠る夢も現実に見る夢もない。

 もう旅の地図を描く必要もなければ、父の仕事《楽器職人》を受け継ぐことも、母のように気高き女性を目指す必要もない。

 この世にいない彼らを助けることは、もう叶わないのだから。


 フルートに支えなどとっくにないのだ。

 生きる意味も見い出せなければ、そこにしがみつくいわれもない。


 自分の空虚の空虚以外に、かまう思慮も感覚も、余裕すらひとつもなかった。

 ただはやく、本当に〈終わり〉を迎えるため、フルートはぬかるんだ土の上を駆けつづけた。


 怒り、悲しみ、愛しさ、憎しみ。

 フルートには、どうにも抑えられない感情の波が何度も押し寄せ、もうからっぽの胸だというのに、鎮痛な圧迫を持って追い討ちをかける。


 せめぎあう自分の心に何も答えられないフルートは、あの青白い人影を見た湖辺に助けを求めるほかなかった。


(葦になれば、あの青葦になれれば、きっと解放される)


 フルートはそう信じた。


 雨足が強まった。

 フルートはうす暗闇の中をひたすら走っていく。

 やがて、湖岸に沿ってつづく葦原が現れた。彼女は湖に向かって声を荒げた。


「父さん!! 母さん!!」


 湖はあっという間に水量を増し、にび色に澱みはじめていた。

 フルートは、裸足で水面を蹴散らし、青白い光を探す。

 悪天候で視界不良の中、遠くを見渡しては叫んだ。


 雷が落ちた。

 目を暗ませるほどの閃光が、頭上の空を走り、いっとき聴力を奪う。

 フルートはひるまず、無理やりにでも目をこじあけて湖岸を駆けていく。

 まだ視界のぼやける中、湖をぼんやり見据えていると、青白く光る葦の一画を捉えられた。


 フルートは立ち止まり、湖の中へ入りだす。

 荒波が膝までくると、湖に鞄を投げ入れ、自らも滑るように飛びこんだ。

 彼女は、鞄を浮き輪がわりに足をばたつかせ、青葦の場所へ向かおうする。

 けれども、荒れ狂う波は険しく、あらぬ方向へ押し流されてしまった。


 気がつくと、湖岸のどこかへ流れ着いていた。浅瀬の広がる場所だった。

 じきに雨は止み、あか黒い陽光が、ちぎれた雲間から顔をのぞかせる。

 鞄はその光を受けているのに、青白く不気味な色合いをかもして瀬にかり、少し離れて横たわっていた。


 フルートは立ち上がった。

 いつのまにか、服の下から飛び出した「青いパァンの笛」が、ガランと胸の前に、空っぽな音を立ててぶらさがっている。


 身体じゅうが気だるい。

 痛い。


 すさんだ風が頬にしみるようかすめた。

 あたりは青葦の群生に囲まれ、夕陽の色と重なって薄紫に揺れていた。

 フルートはしばらく、ふらふらよろめいていると、正面の鞄を挟んで二つの人影が、湖辺みずうみべに並び立っているのに気づいた。


 フルートは顔をしわくちゃにさせ、ありったけの力をふり絞って歩いた。

 その先には、二つの思い出のままの人影。ようやくたどり着いた彼女は、その二人のあいだに顔をうずめると、恥ずかしいくらい大声で泣いた。


「フルート……」


 ベームの低い声がフルートの背中を抱いた。


「ごめんなさいね。何も言わずに行ってしまって……」


 ヴィオラのやさしい声が、フルートの頬をなでた。


「どうして? 父さんも母さんも、悪くない! 悪いのは、私や西方の奴らじゃない!」


 ベームとヴィオラは、首を静かに横にふる。


「だって! 母さんはあいつらに殺されたんだよ? 父さんだって、モリヤマのみんなだって、西方の奴らが来ておかしくなったんだ! それに私が……私があのとき自分の〈想い〉に背いたから……」


 何度も二人は首を横にふった。


「違うんだ、フルート。謝らなければならないのは、俺たちのほうなんだ」


 フルートの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。


「フルート? よく聞いて?」


 ヴィオラは、フルートのこめかみにやさしく口づけをし、その両肩を抱いて両膝をついた。

 彼女は、フルートのぐしゃぐしゃな顔を親指でぬぐって強い眼差しで見上げた。


「私は殺された。西方の不法移民たちに。くやしくないって言ったら嘘。でも、自分の生涯に後悔はしていないわ。だって、愛する夫といっしょになって、あなたが生まれて……」


 フルートは泣きじゃくって震えた。

 ヴィオラは細い指先で彼女の両肩から腕、手にやさしく触れるよう滑らせ、冷たくなった手を取り上げた。


「殺されたあの日。都心はいっぱい家族でにぎわってたわ。みーんな楽しそうに、今のフルートよりももっと小さな子供たちが、父親と母親にはさまれてぶらさがってた――」


 ヴィオラは穏やかな表情で懐かしそうに笑った。


 あの日、ヴィオラが私用で出かけた日。

 都心は休日とあって、たくさんの家族であふれていた。

 午後の昼下がり、食事を終え、次の憩いの場を探す大勢の生命魂うみきたちの前に、とつぜんあの狂者の集団がやってきたのだった。

 和やかな場は鋭利な刃物で切り裂かれ、一瞬で赤く染まっていく。


 あたりは騒然とし、みないっせいに逃げだした。

 しかし、一人逃げ遅れた小さな女の子がいた。

 その子は、倒れて動けなくなった母親を起こそうとしていたのだ。

 運悪く、狂者の一人がその子を見つけ、気勢をあげて切りかかろうとする。


「――あのとき、私が助けなかったら、あの子はどうなっていたか……」


 しだいに、フルートは奥歯をぎりぎりさせ、涙が渇くほど怒りと憎しみに震えた。

 彼女には、妙に落ち着いている母が不思議でならなかった。


「憎いか? 西方の連中が」


 朱黒い夕陽を背に、ベームが静かに言った。


「俺もそうだ……こんなかんたんに、大切な命がなくなるなんて思いもしなかったさ。山や森も、村もそう。結局は、そいつらが奪っていったようなもんだろう」


 フルートは胸を押さえ、少し顔を歪ませた。

 灰色の思い出が胸につかえてこみ上げた。


「でも、俺も後悔してない。時が変われば物事も変わる。良くも悪くも、ついていけなかったのさ。新しい時代に……。でも、自分をねじ曲げたくなかった。母さんもそうだが、この山と森に生まれて、ずっとここで生きてきたから。だから最期まであの場所とともにあろうと思ったんだ」


 ベームは沈みかける陽に向かいあった。


「それに、すべてのことが本当に西方の奴らの仕業か? それともこの国の権力者か? そいつらの誰かが、あの日、山や森に火を放ったのか?……本当のことはわからない。ただわかるのは、世の中は〈力〉でしかないこと。山や森を見ていてもよくわかる……」


 陽の光は影をつくり、かえって、あたりの鬱蒼うっそうとした森の茂みをはっきりと映し出した。

 木々は、放っておけばすぐに混みあい、雑木と雑草にも囲まれる。

 そして枝葉を張り、隣同士で傷つけあい、光を求めて上へ伸びては、水を求めて下にも根を張る。


 当然、光も水を得られない木は枯れてしまう。

 とはいえ、光にありつけた大木でさえ、茨のようなツタに絡まれ、締めつけられ、おおわれて、ついに光を失い枯れていく。


 栄枯盛衰。

 そのとき力の強いものが栄え、弱いものを淘汰する。

 けれども、そのとき強かったものも、いつか衰え、新しい強いものに取って替わり、廃れていくのである。


「……俺たちは力不足だっただけさ。でも、俺もヴィオラも懸命に生きた結果だ……」


 ベームは弱々しく言った。


「どうして? どうしてみんな、平和に生きられないの? みんなお互いに、助けあって生きてるっていうのに。みんな、みんな傷つけあって、私も誰かを傷つけて……〈想い〉が〈想い〉を……それだけじゃない!」


 フルートは、二人の胸を突き飛ばすように離れた。


「生命はみんな過去に、記憶に縛られてる。どんな命も、親から子に引き継がれ、選んでもない命に自分の意識が芽生えて、それでも、その決められた宿命さだめを懸命に生きる。それで楽しいことが、少しでもつづくならまだしも、強いものが勝手にのさばって、つらく嫌なことを弱いものに強いて、楽しいことは奪って……あぁ、私はもう疲れた」


 フルートは膝を折って座りこんだ。

 もう、身体も心も動かせそうになかった。

 ヴィオラは、そんなフルートをまたそっと抱きしめる。


「だから、私たちは、あなたに謝らないといけない。私たちは嘘をついたの。あなたが霧にのまれたのは偶然じゃない。はじめから、そうしようとしたの。大おばあちゃんの古いよしみの、あの『ガイド』にお願いして」

「……どういうこと?」


 フルートはヴィオラを見上げた。

 ヴィオラは一度、口をつぐんだ。

 かわりにベームが、重そうな口を動かす。


「あの山と森とともに、死のうと思ったんだ」

「なんでよ? 意味わかんない!? モリヤマがぜんぶ死ぬって言うの?」

「ああ……この耳で聞いたんだ!! 『風の知らせ』を……。お前が旅立つ少し前に、この山と森が、村がそう遠くないうちに、霧にのまれてなくなるって……」

「そんなの嘘!!」


 フルートの語気を掻き消すように、ベームは強く否定する。


「俺が死んで、ひと月もしないうちに霧がぜんぶ奪ったさ……。『大貿易道』も何も関係ない。もう、手遅れだったんだ!」


 ヴィオラの腕の中で、フルートはぼう然とした。


「私だって耳を疑った。でも、風の精霊は嘘なんてつかない。風はいつだって正直だから……」


 フルートの知らないところで、二人はすでに死を覚悟していたのだった。

 この長いあいだ苦楽をともにしたモリヤマとともに。


 とんだ肩透かしをくらったフルートは、いつのまにか、遠くへ置き去りになった過去の自分に疎外感と深い悲しみを覚えた。

 やがて、その悲しみの表面から、すでに渇いて張りついてしまった怒りが、パラパラとはがれ落ちていく。


「じゃあ何? 私を助けるために旅へ? そんな自分勝手……それに、村が霧に消えたって、ほかの人は? フィオはっ?! セロはっ?!……みんな無事でしょ?」


 フルートの心は大きく乱れた。

 ヴィオラは彼女をやさしく抱きしめ、わからないと首を横にふった。


「私たちに力がないばっかりに……」


 フルートは理不尽だと思った。

 どうにもならない自然の不可抗力に、どうにもできない〈想い〉が、あるいは〈欲望エゴ〉が勝手につのって錯綜さくそうし、生命をもてあそぶ。

 彼女は、この世界に悪いものなど、誰一人いないのではないかと思いはじめていた。


「お前には背負わせたくなかった……俺たちのことも、山や森に村のことも。だから、仕来りを口実に旅に出させ、あの『ガイド』に頼んで、いっそおまえが知らないうちに、霧の向こうに行ってしまえば……お互いあきらめもつくだろうって……。まさか帰ってくるなんてな……ああ! オレはバカだ! 何も知らずに、一人娘を二倍も三倍も傷つけて。おまえの気持ちも考えず……すまない」


 ベームは歳がいもなく泣いた。


「ごめんなさい、フルート。あなたの〈想い〉に気づいてあげられなくて。あなたを追いだすように旅へ行かせてしまって……。けど、あなたには自由にしがらみなく生きてほしかった! この山や森や村だけでなく、理不尽でも、この移りゆく世界も、ぜんぶ愛してほしかったから。でも、これが私たちのわがままなのよね……」


 フルートの頬が、ヴィオラの濡れた頬に触れた。


「私はただ、そばにいたかった。結局、死に別れることになっても、少しでも、ほんの少しでも長くあのモリヤマで、父さんと母さんのそばにいたかった――」


 湖面に映る暗い太陽を、静かな波が寂しい音で押し流す。

 もうじき陽は沈み、最後に山の稜線を朱に染め上げると、長い夜を迎える……。


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