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30 青葦の還る場所②

 目を開けると、フルートは小屋の中のベッドにいた。

 暖炉には火が燈り、ろぽが新しい薪をくべている。

 テーブルには老婆と二匹のネコが、マグカップで暖かい飲み物を飲んでいた。


 向かいには、青いパァンの笛を首にさげた旅人がいる。

 彼は相変わらず、マントを羽織り、革の帽子から銀色の髪をのぞかせ、透きとおった紫水晶の瞳を涼しげに、椅子に座っていた。


「ん? 気がついた?」


 パァンは、意識のもどったフルートに気づくと、椅子から立ち上がった。


「やれやれ。やっと見つけたと思ったら、湖で溺れかけてるんだから」


 パァンは悪戯いたずらに笑い、フルートをのぞきこんだ。

「ほんとに、どうなっちゃうかと思ったわ」


 遅れて、老婆が心配そうにフルートを見つめた。

 ろぽは星型の目をまわし、飲み物を持ってきてくれた。

 二匹のネコはフルートの肩口に、ちょこんと座って心配している。


 フルートは、ネコたちの鼻をやさしくなでてやると、抱きかかえてゆっくり起き上がった。


「ごめん……」


 小さく言って、フルートは顔をうつむかせた。


 ここは湖畔の近くにある山小屋だ。

 もともとは、近くを訪れたものたちの休憩場所、避難場所であったが、今は老婆とネコたちの別荘として扱われている。

 老婆たちは暇になると、よくここに来てくつろいでいるのだ。


 窓の外はまだ雨が降る。

 フルートは、あたたかいハーブティーを一口だけもらった。


「どうやって、ここに?」


 フルートはパァンに言った。


「『夢の淵』で門をくぐったあと、この森に迷いこんでしまってね。そこで偶然、『こいつ』を見つけて、そのまま森を彷徨さまよっていたら、君が……」


 パァンはベッドの足元のほうを指さすと、そこにはキャリーカートに乗った「鞄」が置かれていた。

 フルートは、その鞄を見るなり黙りこんでしまった。


「まだ、持ち主が見つかってなかったのね。その『旅行鞄トロリーケース』。はやく見つかるとよろしいんだけれど……」


 老婆が言うと、きゅうにパァンが笑いだした。


「いやいや! おばあさん! まだ演技するおつもりで? それとも、あれは人違いだったか? そういえば、杖もついていなかったし、もっと、若々しかったような……」

「あら、失礼ね! 今のこれは演技よ!」


 老婆は、杖を両手で胸の高さまで持ち上げると、舌を出して小さく怒った。


「……まったく……ここで再会するんだったら、わざわざ僕に、この鞄を預けなくてもよかったんじゃないですか?」

「あら? あのとき、あなたに預けたから、ここまで来られたんじゃないかしら?」

「……こっちにも、やらなきゃならない仕事があるんだけどなぁ……」


 パァンは、ため息をついて苦笑いすると両手を広げて降参した。


 結局のところ、青色区ケルレムで出会った老婆は、「とある老婆」だったのだ。

 鞄も知らない、笛吹の旅人も知らない……。

 本当はぜんぶ知っていたにもかかわらず、彼女は足の悪いふりまでして、ここまでずっとしらを切っていたのだ。


「ごめんなさいね、お嬢さん。別に、いじわるしたつもりはないのよ。ちょっと無責任だけど、そのほうがいいこともあるのかなって」


 老婆がフルートに言った。


「でも私、まさか青色区ケルレムで、青い笛を持ったあなたに会うだなんて思ってもみなかったのよ? ほんと、びっくりしたんだから! ただ……あなたが、その鞄の持ち主ではなかったのね……」


 フルートはまぶたを重たく閉ざした。


「そう……残念ね……」


 老婆はひとしきり悲しい表情を浮かべる。


「まいごになったの? 『わんわん』?」


 にゃーが、みんなの顔をのぞきこむ。


「『わんわん』なのに、まいご?」


 みゅーみゅーは旅行鞄に話しかけた。

 二匹は、その鞄の上に座って互いに悲しい目をしている。

 たしかに、鞄は捨てられた子犬のように、しっぽを元気なくしょぼくれさせているようだった。


「おばあさん? それで、この鞄はいったい? もともと、『あなたのもの』というわけではなさそうですが」


 パァンが、いじわるそうな顔で老婆にたずねた。

 老婆は何を察したのか、じとっと、重たい目つきで彼を見返し、大きく息をついた。


「……この鞄は嵐の日の夜、今私の住む、ふもとの森の家に届いたものなの。とつぜん、青白い人影が持って来てね」

「青白い人影?」

「ええ。不気味で怖かったけれど、必死に何かを訴えているようだったわ。そのとき、かすかに聞こえたのが、『青い笛を持った少女』がどうとかで……それだけ言い残して消えてしまったのよ」


 そして老婆は、ヘイルハイムに行く用事ついでに、この鞄も持って行き、どうしようか困っていたところ、「青いパァンの笛」を持った、パァンを見かけたのだった。


「ふーん。青白い……もしかして、その影は二つほどで明滅したりして?」

「え、ええ。言われてみれば、そんなだったかもしれない……あなた、何かご存じなの?」

「いや。ちょっと思いあたる節が……まぁ、たいしたことではないですよ」


 パァンは遠くを見つめてため息をつく。


「まっ! いずれ見つかりますよ。この鞄の持ち主」


 両手を頭のうしろにまわし、パァンはあっけらかんとする。

 フルートはしゃくに障った。


「……見つかりっこないわ。だって、その鞄はいらない子だもの……」


 フルートは冷めた口調でパァンに言い返した。


「……どうして?」

「……べつに……」


 フルートはパァンと視線をかわさないまま黙った。


「どうして、君にそれがわかる?」


 パァンは執拗に問い詰めた。

 いつもなら、適当に受け流す彼とは様子が違う。

 フルートはイラッとすると、いっきに髪の毛を逆立てるようにして猛烈に反抗した。


「うるさいなぁ! ああ、うるさい!! そんなの、私の鞄だからじゃない!!」


 灰になった記憶が頭の中を駆け巡り、勢いよくフルートは涙を流した。

 彼女は指で頬を軽くぬぐうと、だんだんと琥珀の瞳から生気を失っていった。


 小屋の中は静まり返る。

 雨音は屋根を冷たく叩いた。


「……一日をして、一日を否めるは『過去の奴隷』。一日をして、一日を忘れるは『今の奴隷』。どうせ死ぬこともできないんだから、後者の方がいいのかも……」


 フルートはベッドから起き上がり、鞄の前に立った。

 ネコたちはそそくさとろぽのうしろに隠れ、心配そうに顔をのぞかせる。


「どっちにしたって奴隷は奴隷。昨日を必死に忘れて何かを思いこんだところで、むなしい誰かの〈想い〉の狭間で、なくてもいい日々を繰り返すだけ。生きることに未来なんてひらけてない。結局、人は、生命魂は……生命はいつだって、過去の、記憶の奴隷じゃない……」


 そっと鞄に手を触れたかと思うと、フルートは鋭く爪を突き立て震えていた。

 小屋の中に、彼女の〈想い〉が金縛るほど張りつめた。


「今がどんなに楽しくったって! それがどんなに美しくたって! 記憶は私の目に映るものをむしばんで、今日の私を塗り変えてく。それがどんなにはじめての経験だと思っても、それは、はじめて迎える今のものじゃない! 忘れてしまった、〈いつかの過去の何か〉でしかない!」


 悲痛な叫びが、こわばった空気をぴっと切り裂いた。

 それは、今ここにいるものの身体の内側に、軽く長い切り傷をつくり、鋭い痛みをわけ与えたようだった。


 何も知らないはずのパァンの瞳は、暗く澱み、胸の笛を手で押さえて天井を見上げた。

 同じく、何も知らない老婆もまた、胸の前でたずさえた杖を両手で強く握りしめたまま、終始うつむいている。


「辛い過去を経験してよくわかったの。孤独が、私の行く先々の風景を奪ってく。いじわるな太陽は、いつも私ばかりを追いまわす。どっちに走ったって、私のまっ黒なその影は、いつも私のまん前にある。それはあたたかくて、平穏だった記憶に照らされる、孤独でみじめな私の影。記憶なんてろくなもんじゃない! 辛ければ辛いほどなおさら……未来なんて……」


 フルートの唇に血がにじむ。


(あぁ。何で生まれて来てしまったんだろう……私も、みんな……過去の産物《何か》でしかないのに)


 フルートは、もう何度となく味わってきた、どうしようもない生命の哀れな記憶を脳裏によぎらせ、いつかの母の言葉を思い出していた。

 やがて、彼女の心はふつふつと、この身体のほかにやり場のない憤りと悲しみをこみ上げさせ、まっ暗闇に牛耳られていく。


「生命魂の、人の未来なんて、永遠に〈過去の延長〉でしかない。私の未来は、可能性は……永遠に拓けることなんてない!!」


 思いもかけず、自分の言い放った残酷な言葉が、フルートを身体の奥から打ち震わさせた。

 彼女は卑怯にも、その重くぎこちない心の感覚と自らが招いた乾いた場の空気に心苛さいなまれなくなって、一人小屋を飛び出していった。


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