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30 青葦の還る場所①

 二匹のネコたちは、パンケーキを食べ終えると、すぐさま昼寝をはじめた。

 彼らは、湖岸の砂浜で、ひなたぼっこをする、ろぽに寄りかかり、小さなタオルを腹にかけて器用に鼻ちょうちんをつくる。


 ネコは夢を見るのだろうか。

 水辺は、午後の陽光を静かに反射していた。


 気がつくと老婆の姿がなかった。

 散歩にでも行ったのだろうか。

 老婆は足が悪いだけに、フルートはとても心配だった。

 彼女は、ろぽに留守を頼むと、とりあえず湖の畔を歩いて、老婆を探すことにした。



 水辺には、いつまでも葦の群生がつづいていた。

 初夏の葦はまだ若く、青く、上へ上へと力強く伸びていた。

 一見、弱そうに思える葦の生命力は強い。

 葦は、開けた水場や湿地に根を張り、しだいに乾燥した陸へと大きな葦原を形成する。


 湖畔をしばらく行くと、岸の砂地で日傘をさした老婆がいた。

 ちょうど陽射しが強まっていた。


「ねぇ! 水辺に、葦がいっぱい見えるでしょう!」


 老婆はフルートに気づくと、遠巻きから声をかけた。

 フルートは手で日蔭をつくる。


「うん! でも、いっぱいありすぎてよくわからない」


 遠くまで広がる湖辺の葦原は、どこからどこまでが葦なのかわからないほど、湖岸を埋めつくしていた。


「星の数ほどあるわね。生命魂うみきとどっちが多いかしら?」


 フルートは小さな返事をして、葦原を遠くまで見つめた。

 彼女の琥珀目は、近くの青々とした若い葦に、黄緑色に染められては、瞳の曲線を滑らせるように景色を見切った。

 そのたび、どこを見ていたのかよくわからなくなる。

 ここには、自分の範疇はんちゅうに収まりきるものはない。


 きゅうに、フルートの自分が小さくなっていった。

 しょせん、この大地を我がもの顔で歩く生命魂など、まだまだ、ちっぽけな存在にすぎないということである。


「『人は考える葦』だって。まだ霧のない大昔に、何かの本で見たことがあるの。今は人というよりも、『生命魂うみき』かしらね」


 老婆は、湖の葦に目を細めて言った。


「葦は弱くて、でも強いのよ。風に吹かれれば、すぐにしだれて曲がっちゃうし、枯れもするけれど、そんな葦も、風をやりすごすとまた力強く起き上がる。葦には、生き抜く知恵があるのよ」


 老婆の隣で、フルートは膝を抱えて座った。


「人も、生命魂も同じ。一見、弱そうだけれど、知恵を絞って困難をのり越える。私たちも、かつて「悪魔の冬」に晒されていた時代をのりきって、今、ここに生きているのよ」

「でも生命魂には、強くて恐ろしい「バケモノ」もいるって、よく聞く」

「ンフフフッ! そうね。私はまだ見たことないけど。でも、それは裏の返し。強くて、弱くて。でも弱くて、強くもあるのよ……。ねぇ? 「マーヴルの腕」って、聞いたことがあるかしら?」


 フルートは、膝の間に顔を埋めるようにしてうなずいた。


「あの木は赤子を大事に抱えて、守ってくれるような丈夫な木でね、それはそれは大きな木だったけれど、風雨や雷に打たれてあっけなく折れてしまうこともあったわ。それに故郷のセパンも、その木の群生に守られていたことがあったけれど、今じゃ一本も見あたらなくなってしまったわ。強くても、弱いこともあるの……生命っていうのは、みんな似たり寄ったりなのよ」

「ふーん。みんなどこか似ているのね……でも、だったら何で「葦」に例えたの? ほかのものだってよかったのに」

「そうね? 何でかしら? でも、葦は便利な植物だったから。笛もそうだけれど、小さいものはペンや釣り具、日よけ、大きなものは屋根や船までつくれちゃう。昔の人にとって、知恵を見出せる、身近なものだったからかもしれないわね」


 たしかに葦は知恵そのものだ。

 人が生活に利用するだけでなく、小さな鳥をはじめ魚や虫などは、その水辺の葦に身を隠すなどし、また、それを食べに大きな鳥や獣もその場所に現れる。

 水辺の葦は生命の集う空間となり、生命に生きる知恵やすべを与える存在なのである。


 ときの先人は、その中心にある葦に生命の本質を見つけたのかもしれない。


「ねぇ? そう言えば『パァンの笛』は、『パァンの神』が、その葦に姿を変えてしまった、愛する人をしのんでつくったものなんでしょう?」

「私の知るかぎりはね。もしかしたら、ぜんぜん違うのかもしれないけど」


 老婆は微笑みを浮かべた。


「その人は何で葦に?」

「……そうしないと、二度と彼には会えなかったんじゃない?」


 フルートは老婆を不思議そうに見上げる。

 言葉の真意がぜんぜん汲みとれなかった。

 老婆はなぜか悲しげな眼をしている。


「ンフフフッ! ごめんなさい。適当なこと言っちゃって。実は、昔に聞きかじったことでよく覚えていないの。たしか、パァンの神に、しつこく追いかけられた『精霊ニンフ』が断りきれず、水辺の葦に姿を変えたっていう話だったかしら?」

「フフッ! それって、ただの迷惑な話じゃあ。神様も勝手ね。相手の気も知らずに」


 フルートは笑いつつも、穏やかにはいられなかった。

 〈想い〉を遂げようとする奴は、パァンの神であっても傲慢にふるまう。

 彼女はパァンの神を卑しく思うと、しつこくつきまとわれた精霊を憐れに思った。


 きっと精霊は、抱えきれない影につきまとわれ、無理に大きな選択を迫られ、どうすることもできなかった。

 だから、葦になって考えることを止めたに違いない。


 フルートはゆっくり腰を上げた。湖岸の砂をブーツで鳴らして進み、水を散らした。

 湖面にはしだれて曲った若い葦。今は弱いだけの葦……


「……いっそのこと、私も、葦になりたい……」

「だったら、葦になったら?」

「え――」


 老婆はフルートの斜めうしろに立った。


「命をめいっぱい、赤く燃やしたらきっとなれる。命を燃やしつくしたものだけが、この水辺で青色に澄みわたる葦になって、やがて穏やかな水に還るの。それが『青葦』」

「嘘……」


 フルートは澱んだ琥珀こはくの瞳で、老婆の言葉を冷たく吐き捨てた。

 しかし老婆は、


「……ええ嘘よ。でも、青葦がなくなったのは、あの森で、みんなが命を燃やし尽くすことができなくなってから」


 と、あっさりフルートに突き返した。


 あたりの陽が陰りだした。


「森を奪われ、楽しみや喜びが失われ、生きることを肯定できない。よく考えれば、生きることに意味なんてないものね。でも、それじゃあ、何で生まれてきたんだろう? って。毎日、同じことを繰り返して、こんなに悲しい、苦しい想いをするくらいなら、はじめから生まれてこなければよかった……」


 肌寒く湿った風が湖面をなぞり、フルートの黒い髪をなびかせた。

 空にはにび色の雲が、今にも雨を降らせようとしている。


 老婆はあやしい雲行きに、目を落としながらも話しつづけた。


「……今、少し思ったけれど、精霊もそうやって葦に姿を変えたのかしら? そもそも、身分や立場の違う彼女は、パァンの神の愛には答えられない。それが苦しくて……やりきれなくて……」


 湖面を小さな雨粒が叩きつけた。

 ところどころ雲が波紋に崩れていく。

 陽射しが灰色になった雲間から四散し、ちらちらと照らした。

 やがて雨や冷たい風は、水面や地表の熱を奪い、蒸気となると本物の霧となった。

 体温を奪う冷たい霧だった。


 その霧がかる湖のちょうどまん中らへんに、青白く陽に晒される葦原の一画が見えた。

 なぜかそこだけは、蜃気楼のように微睡まどろみ、波のように揺れている。

 いや、揺れているのは葦だ。太く、まっすぐと上に伸びた「青葦」だ。


 フルートは胸の詰まる思いがいした。


 すると、ひとーつ。

 ふたーつ……


 青葦は、ぼうっと青白い炎のように燃え上がり、人の影を見せた。

 おぼろげな人影は一瞬、フルートに何か語りかけるように口元を動かすと、ゆらゆら消えていった。


 とつぜんフルートは水辺を駆けだす。


「ちょっと?! 危ないわっ!!」


 老婆は杖を不器用に急がせたかと思えば、うしろに乱暴に放り投げ、フルートの背中を追おうとした。

 だが、とつぜん突風が吹き荒れ、彼女の行く手をはばんだ。


 フルートは、倒れた老婆のことなど気にも止めず、夢中に水を掻きわけ、人影の消えた方向へ叫んだ。


「父さん!! 母さん!!」


 水はフルートの膝上までついている。

 それでも前へと進む。

 聞きたいことが山ほどあった。

 もっと甘えたかった。

 いっしょに連れて行ってほしかった……


(父さん!……母さん!……)


 フルートは湖の深みに足をとられ、おぼれかけた。


「『フルート』!!」


 あたりの大気を巻きこんで、四方から声が重なりあうと、突風が今度は目の前の葦原を掻きわけるように吹いた。


 風とともに大きな翡翠ひすいの瞳が目の前に現れ、フルートの琥珀こはくの瞳をさらっていった。



***




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