29 楽園①
(ふりだしに戻ったのか……)
白けた陽光から現れたのは、「森のトンネル」につづく「獣道」だった。
(どっちに進んだって、結果は同じじゃない……)
何も考えずにもう一度、前に進めというのか。
フルートは滑稽に思った。
けれども、グーシャと歩いたその獣道は、あのときと違って様子がずいぶん異なっていた。
獣道のまわりは邪魔な雑草や低木が刈られ、地面にはところどころ、きれいに石が敷き詰められている。このモリヤマには、あきらかに生活者がいる。
地面にへたりこんでいたフルートは、ゆっくり立ち上がった。
彼女は、その変わってしまった獣道の中へ入ると、ひんやりと心地よい感触を肌で感じた。
雨が降ったあとだった。踏みつけた石の縁に水は染み、あたりの落葉樹林が雫をしたたらす。
獣道は、緩やかな石段をのぼるように、じょじょに上へと坂道をつくる。
途中、薄い青色の花の群生があった。
その道の脇をとおり抜けると、両側を石垣で高く積まれた切通しが現れる。
両側の石垣の上には、数軒の家があった。
しかし、どの家も、屋根から壁からだいぶ傷んでおり、庭も雑草だらけで空き家のようだった。
人気のない切通しを越え、道は大きく左に折れた。
だんだんと落葉樹が、杉やヒノキの針葉樹へと姿を変えていく。
川か沢のせせらぎが聞こえる。
道は尾根に沿って、のぼって下った。短い丸太の橋が見えた。
(川だ)
フルートは橋を渡って日なたに出た。
朝靄の光を受け、色とりどりの果樹畑が段々に、下へと向かって全開していた。
同時に、キーンと、頭のてっぺんに響く、聞いたこともない音が反芻した。
どこから聞こえてくるのか。
首をふりつづけて探していると、甲高く唸る音は、下の方向からやってくるのがわかった。
胸が高鳴りだす。
フルートは、全速力で果樹畑を川に沿って下っていった。
やがて、横たわるように伸びる、砂利の舗装された道路に面した。
そこは彼女のよく知った風景だった。
目下には、懐かしい麦畑が、水をはった水田と並んである。
その先に木造の「隠れ家」はあった。
フルートは息を飲んだ。
ただ、すべてが同じというわけではない。
すぐうしろの斜面には、見知らぬ川が岩場を駆け落ち、清らかな音を漱がせる。
隣の斜面にはまた、段々になった色とりどりの果樹畑がある。
水田では、「何もの」かが、馬車のような不思議な乗り物を、馬もなしで動かしている。
乗り物は、うしろにオルゴールの円筒のようなものを引かせ、黙々と土を耕していた。
ゆっくり近づくと、見たこともない変てこな、おそらく生命魂であろうものが、その乗り物を器用に操っていた。
そいつは顔なのか身体なのか、大きなツギハギでできた彩色の缶詰みたいな寸胴に、黄色い星形の目を2つつけ、服のボタンのような口を1つつける。
頭には、赤い大きな三角帽子をかぶり、ピエロみたいな風貌をする。
その両脇には、手か腕なのか、大きさの非対称なスパナのようなものをたずさえる。
下半身は骨盤も、腿や膝すらもなく、ワニの顔のように見える大きな木靴を履くというよりか、例の寸胴に直接くっついている様子だ。
おまけに、背中からは細長い煙突のような筒がのぞく。
まるで「太ったブリキの人形」だ。
ブリキのそいつは御者のように、乗り物の席にどっかり座って、何をするでもなく、星型の目をぴかぴかさせる。
ただ、乗り物はなぜか、勝手に動きまわり、例のでこぼこの円筒で田を耕しつづけている。
ようやくフルートに気づくと、そいつは、目の星をくるくる回転させ、乗り物を止めたようだった。
あたりは、風が麦穂の隙間をくぐり抜け、長閑になった。
「……コンニチハ……」
ブリキの人形は、フルートを見るなり、律儀にあいさつをしてきた。
ずいぶんとかすれた変に高い声で、片言なしゃべりをする。
「こ、こんにちは……」
まさか、目前のそいつがしゃべるとは思わず、フルートはおろおろした。
「オキャク、サマ……?」
「あ、え、えぇ。ここの家に用事が……」
するとブリキの人形は、ふるーとをのぞきこみ、やがて星型の目をハートにして回転させ、
「OK!! ヨウコソ、ヨウコソ! ナカヘ、ドウゾ!」
と言って、ピンク色に発光させた。
どうやら喜んでいるようだ。
彼はやる気が出たのか、背中の煙突から白い煙を吐くと、ふたたび、あの甲高い唸り音を響かせ、残りの作業にとりかかった。
フルートは、そのブリキの人形のような生命魂に、不格好なお辞儀をした。
彼女は不思議に思いながら、彼を横目にとおり過ぎ、隠れ家の正面へと向かった。
隠れ家は、よく手入れの行き届いた佇まいをしていた。
誰かがここに住んでいることは明らかだった。
縁側の窓はあけられ、網戸が敷かれていた。
離れの工房もまた、焼けた跡が一つもなく、昔の雰囲気のままであった。
まるで、山火事で焼けたことが嘘であったかのように、家は修復されていた。
フルートは玄関の鈴を鳴らし、おずおずと口を開いた。
「ごめん……ください……?」
しばらく黙って様子をうかがっていると、奥から返事が聞こえてきた。
「はぁい? 誰か、そこにいらっしゃるの?」
歳を重ねた品のある女性の声だった。
フルートはもう一度、声をかけた。
「あら? お客さまなんてめずらしい。ちょっと待ってらして……」
老年らしき女性はそう言うと、ゆっくりと扉を押しあけた。
「あら? あなた……」
老年らしき女性は上品に口を押え、フルートを驚いたようにのぞきこんだ。
フルートもまた口を押え、目を丸くしていた。
それもそのはず。
そこにいたのは、青色区で出会った、あの「老婆」だった。
「おばあちゃん?! どうして?」
「ンフフフッ! それは、こっちのセリフよ!」
老婆は独特な笑いで、フルートを出迎えると、すぐに中へと招き入れてくれた。
家の中は、フルートの知っている、隠れ家の間取りとはまったく違っていた。
玄関を入ってすぐ、足下は灰色っぽい土で固められ、家の床と大きな段差がある。
中に入るには、靴を脱がなければならなかった。
床に上がると、リビングがすぐ目の前に広がる。
そこには、父が最期に使っていた簡易ベッドもなければ、ソファーもない。
中央には、煮炊きをする四角い炉があり、それを囲うように平べったいクッションが床に敷かれていた。
ほかにも、見たこともない古めかしい道具が多く目立つ。
「あれから、どうしたかしらって。ずっと、あなたのこと気にしてたのよ?」
足が少し悪い老婆は、杖をたどたどしくつきながら、麦茶をお盆に乗せて持ってきた。
「あーッ!! おばあちゃん! 手伝うよ!」
フルートは慌てて立ち上がって、お盆を受け取りに出向く。
板床の上に藍色の布のコースター。
淡い緑色の水玉模様の小さな丸いグラス。
ガラスを浸す薄い麦色から、麦の香ばしいにおいがした。
「そういえば鞄。持ち主は見つかった?」
いつか触れられるとは思っていたが、いざとなるとフルートは困窮した。
「えぇと……何とか……持ち主の知りあいというかたがいて……」
「それはよかった! きっと喜んでいるでしょうね!」
フルートは、それとなく相槌を打ってごまかしたが、うしろめたさでいっぱいだった。
「例のカフェは、どうだったの?」
「ええと。あのあと、無事にカフェにもありつけて……そう! 『サンドウィッチ』、おいしかったぁー! ありがとう」
「あぁ! いいの、いいの!」
老婆はお盆をさげ、台所へ向かおうとした。
すると、ちょうど作業を終えた、太ったブリキの生命魂が家に帰ってきた。
「あら、『ろぽ』! ごくろうさま! いつもありがとう」
老婆にそう呼ばれたブリキの生命魂は、星型の目をまわし、ぴかぴか光らせた。
彼はそのまま、腕のスパナをぐるぐるまわし、背中の煙突から煙を吐くと、玄関先の床に座った。
ろぽは、靴裏を見せるように寸胴の底を乗せ、動かなくなった。相変わらず、変てこなやつである。
フルートは麦茶をいっき飲みした。
喉がからからに乾いて干からびそうだった。
身体も熱く火照っていた。彼女は少し、暑そうに手で首もとを仰いでいると、どこからか心地よい風が入ってきた。窓ぎわの鈴が涼しい音を奏でる。
風の正体は「ろぽ」だった。
彼は、服のボタンのような口を風車のようにまわし、風を送っていた。
それも、足の向きと身体の向きが180度反対で、不気味な姿勢をとる。フルートは身構えた。
しかしながら、ろぽは表情一つ変えず、健気にやさしい風を送りつづけている。
「ノミモノ、オモチ、シマショウカ?」
「えっ?! えーと……じゃあ、いただこうかしら……」
「OK!!」
ろぽは、星形の目を回転させ、身体も回転させて立ち上がると、老婆のいる台所へトタトタ消えていった。
悪いやつではないようだ。
ただ、フルートが慣れるには、もう少し時間がかかりそうだ。
「今日は、朝採れた苺がたくさんあるのよ!」
老婆が、ろぽといっしょに台所から戻ってきた。
ろぽの抱える大きなお盆の上には、いっぱいのまっ赤な苺が盛られた器に、麦茶の入ったガラス瓶とミルクの入った器があった。
「三角苺」と呼ばれるその苺は、粒が大きく、不思議なことに角ばった三角錐の形をする。
尖った見た目とは裏腹に、甘くて柔らかく、ミルクにつけると香りがいっそう引き立った。
その甘い香りに引き寄せられてか、せわしく玄関の鈴を鳴らし、新たな客人が外からやってきた。




