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28 傍から見るもの②

 結局、ヘイルハイムもフルートと同じだったのだ。

 彼女が、よく知っているはずの自分を知らなかったように、この街も、街自身のことをよく知らない。いや、忘れたのだ。

 それも都合のいいように、「私」を神隠しにでもあわすかのように。


 この街に住む、狸人のおばさんも、人間のおじいさんも、翼人のお兄さんも、草人のお姉さんもそう。

 彼らがみんな明るく笑っているのは、本当の自分をひた隠すため。

 誰よりも先に親身に声をかけるのは、心に壁がないからではない。

 本当は見えない殻をうまく張り巡らせ、外敵の浸入をかたくなに拒んでいる。


 彼らはみなどこか、何ものかに、自分の本質が触れらるのを恐れている。

 だから、自分が与えても不利にならないものだけを率先し、にこやかに相手に提供する。

 そうすれば、相手を快く受け入れるふりをしながら、きれいな庭先で留め置くことができるのだ。

 その場所であれば、自分も、誰も傷つけずにすみ、交じりあうことのない平穏な時間だけが、ただ、ただ流れ過ぎていく。


 けれども、それだけには終わらない。


 物的幸福に恵まれたこの街で、品のない生命魂たちは、物を下品に買いあさり、売り払い、馬鹿笑いし、みっともないくらい腹が出るまで、酒池肉林に明け暮れる。

 そんな素知らぬ顔で、豪快にすごす生命魂たちは、一心に〈何か〉を〈想い〉こんで生きている。


 この不安定な「霧」の世界で、競争を勝ち抜いていく自分。

 一番好きなものは忘れ、我慢と堅実に暮らす自分。誰かや、何かのために生きる自分。

 人の成功や夢を、自分のことのように喜ぶ自分、応援する自分。

 用意された道に、先がないと知っていても、懸命に走りつづける自分……。


 彼らは、何も悪いことなどしていない。


 しかし、それは自らの意志なのか。本当の心の声なのか。

 どこか彼らは、〈本当の自分〉を知っていながら、かたくなに、その〈想い〉を遠ざけるように思える。

 そして、好んでかどうか知らないが、酒を浴びるほど飲み、酔いれ、『何かが違う』と静かに自問自答する。


 いよいよ酒癖が悪くなると、自らをそのせることのない〈想い〉で傷つける。

 もしくは誰かや何かに、その〈想い〉の不甲斐なさを転嫁し、ときにその〈想い〉のつづきを昇華し、背負わせようともする。


 なぜだろう。

 彼らはどうしてこうにも、自分を失しようとするだろうのか。


 それもそうなのか……死は時代とともに、ずいぶん遠くへ行ってはくれたが、代わりに〈変質した内面の恐怖〉だけを置き去りにしていったのだ。


 「力」……「男」と「女」……「権力」……「宗教」……「金」……「科学文明」……そして「霧」と「異界」……。

 食べ物の奪いあいから派生した、生命たちの〈欲のなれ果て〉は、この街で物的幸福を手にすると、次には見えない手で自らの心臓を止めにかかろうとした。


 なぜ、そうしたのかはわからない。

 けれども、どうしてか、そこに生きる自分たちは自分が何ものかわからなくなり、その存在意義に疑問を抱きはじめ、ふと消えてしまいたくなるのだ。


 目の前に見える相手は、自分とずいぶん姿形も違うはずなのに、同じように思える。

 自分はおそらく、その相手と似ているはずなのに、でも同じようには思えない。

 そんな幻覚まがいにりつかれて、堂々巡りがはじまる。


 かつて、人の街だったヘイルハイムは、訪れる異界のものたちを「生命魂」という知的生命の総称に、うまく溶けこませたはずだった。

 しかしながら、その内部には静かに、〈人とは違う〉という意味で、「生命魂」という別称をどこかに秘めている。


 そうした「疑問を宿す存在《生命魂》」が、霧を介して、この街に予期せぬ往来を繰り返す。

 気づかないうちに、うまく侵食し、また気づかないうちに、うまく混ざりあっていく。

 気づけば、誰しも過度な競争にさらされ、自分という自分が押しつぶされてしまう。


 まもなく不満や不安がつのり、でもどういうわけか、不思議と平和は乱れない。

 多種多様な生命魂とあっても、同じ生命は同じ生命なのか。相変わらず彼らは、気のかれあう異界の誰かと正対すると、互いの文化に触れながら〈笑い・唄い・怒り〉、〈戦い・守り・死に〉、〈悲しみ・憎しみ・絶望を乗り越えて〉は、また同じ〈三拍子ワルツ〉で大地を踏み鳴らす。


 もちろん、気の狂ったおかしな奴らは言うまでもなく、どの世界でだってそっぽを向かれる。

 気のあわないもの同士は、何をしたって喧嘩けんかの平行線だ。

 ただ、今までと少し違うのは、この厄介な「霧」のせいで、〈現実〉と〈空想〉とが、どこか曖昧あいまいに並列し、入り乱れている気がすることだ。


 それはまるで、空からのぞいた固い大地をおおう、きめ細やかな白い霧の上を、彩色の定まらない墨流しの模様が、絶えず滞留する変態的な「大理石マーヴル」――


 そうやって繰り返される無抵抗な調和が、既存の街のものにも、新しく訪れたものにとっても、どこか自分の居場所や存在が、現実と空想の狭間で、秘密裏に喪失していくのを覚えさせる。

 それが言い知れない不安となって、生命魂たちの頭をよぎり、胸を締めつけ、心臓にまとわりつく。そのまま進めば、自死へと向かう。


 しかしながら、それでもなお、生命魂たちは生きようとする。

 事実、ヘイルハイムでは、その大勢が楽しそうに生きている。

 いや、あれは本当に生きているのか。

 あれはただ、そうはかんたんに死ねない、というだけなのではないか。


 たしかに、すぐ横に座って肩を叩くだけだった「死」は、知らない間に、こちらから迎えに行くほどになってしまった。

 あいにく、こちらから迎えにあがるには、その〈置き去りの恐怖〉を乗り越える、並々ならぬ勇気が必要であったりもする。


『……いっそ、霧にでも紛れてみるか……』


 ようやく生命魂たちも、あの人間たちのように愚痴をこぼしてみるが、どうすることもできやしない。

 気まぐれな霧は、けして望んだようにはいかないのだ。


 彼らはしかたなく、鼻先を指で掻き、無臭の死をほのめかしながら、霧の向こうの、違う自分に想いをせ、また、酔いに酔いつぶれていく。

 そして、ついに酩酊すると「蛻」となる。


 ところが、みんな仲良くそこで潰れて眠ってしまうならまだしも、中には、酔いも潰れもしないものがいる。

 悲しいことに、そいつらの大半は、蛻になったすべてを巻き添えに宗教をはじめ、狂ったように心中させようとする。


 そこにはただ、そいつら宗教家の〈想い〉の力だけが、どうしようもなく乱立している。

 彼らはその根城ねじろで、散っていった他の〈想い〉の残骸を食い尽くしては、身勝手なまでに踏み台にし、ろくに正体も明かさず、自らの〈想い〉に収束させていくのだ。


【身体をないがしろにするほかなく、でも、消すこともかんたんにできない】


 残骸となった蛻の本心は、そうやって時を過ごすうち、一枚、また一枚と過去の産物の断片と化し、何重にも折り重なって、夢かうつつか区別のつかないほど、じりじりと負荷をかけられる。

 だからせめて、やり場のない心の〈想い〉を忘れようとするも、今度は言い知れない虚しさに駆られ、狂いそうになる。


 生命魂たちは、そんなどうにもならない現実を遠ざける最後のすべとして、深酒にどんどんはまっていく……。


 酒に酔うことで、蛻の殻となって生きる屍たちは、何も知らない、気づかないふりをして、ただ、笑いすごしているだけなのかもしれない。

 あの何かに妄信する、敬虔な宗教家でさえ、意志の強そうに見えるというだけで、なんらそれと変わらない。


 あの街の住民が首から下げる、色つきの住民証カードは、その象徴のようなものだ。

 赤色の労働者、青色の富裕層、橙色の……。

 各色に染まることで、とりあえずこの世界での存在を取り繕う、悲しい仮面の偶像なのである。


 それすらもろくに持てない、もしくは捨ててしまった、生きとし生けるものたちは、いったいどうするのか。


 今宵も、火曜の特別な夜を待ち侘びて、我さきにと仕込んだ密造酒を飲みに、「秘密の遊園地チューズデイ・ワンダーランド」の入場門ゲートをくぐっていく……




(――誰も報われないんだ……みんな、自分の『私』が揺らいでる……)


 じょじょに弱まりつつある、フルートの意識は、上空のの光に吸いこまれていく。

 街並みは下へ、下へ遠くなっていく。

 天に召されるような感覚だった。

 しだいに、ヘイルハイムへの同情が、彼女の暗い影を呼び起こし、意識の上に重なりだす。


(何でこんな世界があるんだろう……誰かがつくったのかな? やっぱり、神様やそんなたぐいの……)


 フルートはバチがあたったのだと思った。

 彼女が、グーシャに嘘をついたように、もし、この街も同じ、罪深き街であるならば、住民もこの世界もすべてそうなのかもしれないのだと。


(……いや……父さんと母さんは違う。何も悪くない……)


 たしかに、父ベームはモリヤマを守ろうと死しただけで、母ヴィオラにいたっては、不当なやからに殺されただけだ。

 もし、崇高な神がいるというのなら、こんなひどい仕打ちを見過ごすのだろうか。

 まさか神は、尊くないとでもいうのか。


 それとも、ほかの見えない敵か何かが……


(やっぱり神様なんていない……そうだ……『あいつら』だ……悪いのはきっと……神のふりした『あいつら』……)


 フルートは怒りをまっ赤にたぎらせる。

 けれども、その反対側では、また灰色の記憶が無力感をともなって押し寄せ、一変に色をぬり変えようとした。

 隠れ家の焼け跡が、意識のどこかへカビのように染みついていく。

 怒りと無力とで、目に映る像は震える。

 「私」と「私」の極致が、勝手にせめぎあうように、彼女は感じた。


 そのときだった。

 風が渦を巻いてとおり過ぎた。

 つむじ風か。


 渦巻く風は、フルートの意識のおでこを押して消えた。

 ボーンと鐘がなるように、意識がにじんで揺れる。

 怒りも、忌まわしい焼け跡も、セピア色に薄れて思い出せなくなっていく。


(あれ――)


 ふと意識は、風を受けた惰力にまわりだす。

 平行した淡青うすあおの空が、身体のないフルートを埋め尽くす。

 すうっと浮かぶようで、ひらひらと舞うように。


(私……『風』にでもなったのかな……)


 風はずっと、気楽なものだとばかり思っていた。

 しかし、無抵抗のまま流され、無秩序に飛ばされ、彼女はその身を自由にできるようでできない。

 どこかこの世界を覆う、あの「霧」と似ている。

 そこには無機質に、この世界の物語を傍観するしかないような虚無感が漂う。


 hyuurrr......


(……あぁ……風も悲しむんだ……)


 物憂げな風音かざねが、空の果ての光源へと向かい、フルートの意識をまっ白に上昇させていった。


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