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3 青色区(ケルレム)の老婆①


 雨の大嫌いな少女は、すぐに屋根のある「バザール」に避難していた。

 目の前の旅行鞄トロリーケースを放置するわけにもいかず、しかたなくいっしょに引き連れてきた。

 鞄は思いのほか軽く、車輪は力強く滑らかに動いた。


(不思議な鞄……)


 何度も修理されたふうな鞄とは違い、キャリーカートのほうは、わりときれいに磨かれ、新品のようだった。

 おまけにカートの柄は伸縮し、手もとの部分には、ストッパーを解除できるレバーのほか、握りこんでまわすダイヤルがついている。

 ダイヤルは手を返すようにひねると、カチカチとギアを変えた。


 少女が適当にギアをいじっていると、4つの小さな車輪のついた風車かざぐるまのようなものが、花開くように大きく広がった。

 4つの車輪は、後輪の直径よりも外にはみ出て広がり、中心軸を回転させながらまわりだす。


 すると鞄は、少し段差のある道をすいすいと上りはじめていった。

 あまりに気持ちよくのぼるので、少女は、段差上を転がすのが楽しくてしかたなかった。


 それにしても、すごい大粒の雨だった。


 雲の陰る予兆もなく、とつぜんの雨は広場に軽い混乱を引き起こした。

 広場も生命魂も、食べかけの料理も、あっという間に水浸しになった。

 にもかかわらず、あんなに騒がせた空はもう、何もなかったかのように晴れわたっていた。


 肩を落とし、バザールから外の広場へと散っていく生命魂うみきたち。

 化粧の残骸に気づいて泣きだす蛇人へびびとの女を、背の低い蛙人かえるびとの男が腹を抱えてなだめている。

 太った人間の男は、水をたっぷり含んだシャツを脱ぎ、豪快に手絞りする。


 少女は、濡れた長い黒髪をハンカチでもう一度ぬぐいなおした。

 今回はたまたま、鞄に携行されていた折り畳み傘が、何とかずぶ濡れだけは回避してくれた。

 雨の大嫌いな彼女にとっては大いに助かった。


 雨は憂(うつ)になる。

 それは生命魂たちの自由を奪い、部屋へ閉じこめようとする。

 身体を濡らし、体温を奪うばかりか、見ているだけで心をも濡らし、もの悲しくさせる。

 少女はそれが耐え難かった。

 思い返せば、ヘイルハイムの街に叩きつけられた久方の雨粒は、その一つ一つが誰かの涙のようで、泣き声のよう雨音だった。


 しばらくの間、少女は鞄を持ってバザール内を歩きまわり、笛吹の旅人「パァン」を捜していた。

 ときどき、街行く生命魂たちに聞いてまわってみたが、手がかりは得られなかった。


(中身がわかれば、少しはなぁ……)


 とはいえ、かってに中身を確認するわけにもいかない。

 何より、鞄の中身もどこか不気味に感じられ、少女は中をあけるのも怖かった。

 もっとも、手もとに鍵もなければ、鞄には鍵穴らしきものがまったくない。

 どうやってあけるのかもわからない。

 鞄の装飾も、特徴的なキャリーカートに比べてシンプルなもので、唯一、目立つのは、変な紋様の入った丸いプレート状のものがあるだけだった。


 少女は手もとにある鞄を見ながら、広場でのことを確かめていた。

 鞄をとにかく預かれと言われても、彼女にはどうすることもできやしない。

 持ち主を見つけることはむろん、きちんと管理できるのかも不安でしかたなかった。


 だから少女は、あの笛吹には悪いと思いながらも、鞄を拾い物として交番に届けることにした。

 やはり、他人の荷物を預かるのは気が引ける。

 それも初対面の赤の他人の、さらに知らない他人の持ち物。煙たがりたくもなる。

 それに交番なら安全だ。


 結局、少女にとっても笛吹にとっても、そう悪い手段ではない。

 鞄もその意見に納得してくれたように、素直に道路を転がっていった。


 ほんの少し腹いせのあったことは、ここでの内緒……




「はぁーあ……」


 思わず洩れた言葉に、少女は、せっかくの休日が台無しになったことを痛感する。

 もう午後の二時。

 お昼はすっかり逃してしまった。

 あての外れた旅行鞄は、申しわけなさそうに彼女の小脇をとぼとぼついていく。


 頼みの綱の交番も、本庁の警察も宛にならなかった。

 それもそう。

 ヘイルハイムは凪に加え、今日は「本ノほんのまの日」ときている。彼らはきゅうな対応に追われ、鞄どころではないのだった。


 しびれをきらした少女は、しかたなく両親を頼るも、彼らは店にも家にもいない。

 しょうがなく、また馬鹿みたいに鞄を引き連れて、広場に舞い戻って来ていた。


 道中、ずっと少女は笛吹に不機嫌を覚えていたが、不思議と広場に着いた今では、心の底から彼を笑っていた。

 思えばあの笛吹が、一方的なやりとりをクソ真面目にこなしている様が滑稽に映ったのである。


 少女は一人、広場ので思い出し笑いをこらえた。


 そもそも、少女の計画なんて、ほとんどあってないようなもの。

 もともと、ろくに計画も立てない彼女にとって、とつぜんの出来事など日常茶飯事さはんじなのであった。

 それにまだ帰るには早い。青色区ケルレムに行く時間はまだある。


 少女は、こめかみをひとさし指でトンと叩く。


(向こうに着いたら、なに食べようかなー?)


 少女は実に前向きだ。

 あまり根に持たないというか、むしろ物事に無頓着といえるかもしれない。

 なんせ彼女は、この街に長く住んでいるくせに、知らないことが多すぎる。


 たしかにヘイルハイムの街は大きい。

 名産や観光名所だけでもかなり多い。

 ときには、根っからの地元のものでさえ知らないことがあったりもする。


 ところが少女は、一度訪れた場所や食べたことのある名産品も、いともかんたんに忘れてしまう節がある。

 そのせいで父母をはじめ、友人らとの会話がちぐはぐになることもよくあった。


 そんなとき彼女は、『まぁ、いいじゃないの』と、とり立てて意に介さない。

 とりわけ、食べ物のことになると決まって彼女は、『一度おいしいものは、二度おいしい。忘れてしまったら、何度もおいしい』などと、笑って言うしだいである。

 それでも今まで大きな問題もなかったのは、根がやさしく、素直で愛らしいその性格がどこか憎めないからだった。


 とはいうものの、無頓着にもほどはある。

 けれども、少女は明るくまっすぐに人と向きあえているのだから、特別、問題もないだろう。


 この街だってそう。

 あのにぎやかな広場を中心に、前向きに、前向きに、世界はまわりつづけるのである。

 とりあえず、それで問題はないのである――




 青色区に着いてまだ時間も浅かったが、手にぶら下げた紙袋の中身は、少女を満足させる充分の重さを感じさせていた。


「んいしょっと」


 紙袋を鞄の上部に乗せ、長く引きだしたキャリーカートの柄に、細いベルトを巻きつけて固定した。


「ふぅん。つくづく便利ね」


 鞄は少女の引き手に、心地よい力を伝えて道を転がった。

 まるで鞄は、賢い犬のようにきちんとついて来てくれる。

 足どりのほうも軽く、彼女は次に出くわすだろう発見に胸を躍らせていた。


 しかし、衝動買いとは恐ろしく予測のできないものだ。

 上機嫌な少女はめずらしく、お昼のことなどすっかり忘れていた。


 そんな少女の気分とは対照に、青色区は白い壁に青の映える屋根や扉、窓枠などがあわさり、全体的に落ち着いた印象を持つ。

 いっぽう、向こうの家の大きな玄関扉は、白い絵具ペンキで点や線だけを使った、ユニークな模様が描かれている。


(あれは鼠の絵?……こっちは鳥の絵かな……?)


 少女は、そんな遊び心もある大人の街並に、憧憬と期待の情感をいつまでも輝かせていた。


 ちょうど突きあたった道を左に曲がり、住宅街を抜ければ、もうじき、オーシャン通りの入口に突きあたる。

 その矢先、地図にない小道が現れた。少女は思わず足を止めた。

 こういうちょっとしたところにこそ、隠れ家的な店や何かがあるものなのだ。


「えっ!?」


 思わず、少女は声をあげた。

 小道の奥に見える店の軒先に、大きな〈青い笛〉がぶらさがっているのだ。

 それも笛吹のものと似た、大きな「青いパァンの笛」である。

 彼女はあまりの偶然にうれしくなると、もう、笑うことしかできなかった。


 少女は店の前で鞄を止めた。

 店の中は、石造の家をくり貫いた構造をとる。

 質素な棚が並び、そのうちの一つに、少女と似た小さな青いパァンの笛がいくつも置かれていた。

 品物はほかにも、民芸品や飲み物、食材などもある。


 店の奥には、白っぽいワンピースに、ベージュの麻のカーディガンを羽織る上品な老婆が、ひとり椅子に座っていた。

 老婆は七、八十くらいの齢で、少し腰を曲げている。

 杖を脇にたずさえているのは気になるが、「とある老婆」とは、この人のことではないのか。

 少女はすぐにそう思った。


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