27 現実と影②
しばらく、ぼうっと揺らめいていたかと思うと、フルートは黄色区の自宅アパートの付近にまで来ていた。
そこで彼女は、学生の翼人のお兄さんを見かけた。
彼もまた、秘密の遊園地から無事に帰って来られたようだった。
このぶんなら、ほかのみんなも、無事にヘイルハイムに帰ってこられたのかもしれない。
フルートはそんなことを考えていると、お兄さんは、無表情で彼女の隣をとおりすぎていく。
しかし、学生の彼はいつも研究で忙しく、こんな明るい時間帯に帰ってくるはずがなかった。
彼女は気になって、あとを追いかけると、彼は近所の公園へと入っていく。
「やぁ! 奇遇だね。君も空き時間? 隣いいかな?」
中に入るなり、とつぜんお兄さんは、誰もいないベンチに話しかけ、歯にかんでその端に座る。
そして、そそくさ身体を横に向け、誰もいない隣に話をしだす。
友達がどうとか、教授がどうとか……話の内容はおそらく、彼の在籍する大学でのことだった。
もちろん、見えない相手からの返事はいっさいない。
しかし、お兄さんは他愛もない話をいくつかつづけ、今度は相手の話を聞く素振りをしだす。
フルートは怖くなった。お兄さんは午後の陽射しに、間延びした自分の影に向かい、話かけつづけている。
その顔はよく見るとやつれ、頬がげっそりとし、血の気がまるでなかった。
いつもの気さくで明るいお兄さんは、そこにはいなかった。
たまらず、フルートはその場を逃げだした。
見てはいけないものを見た頭の中は、パニックに陥る。
どうにか落ち着こうと思うと、まっさきに自宅を目指した。
だが、いつもと違う〈おかしなこと〉は、そのあともつづいた。
自宅アパートの近くの八百屋は、まだ店じまいの時間でもないのに、半分シャッターが下りかけている。
いつもなら、近所の生命魂たちとおしゃべりなどして、にぎわっているはずなのに、はじめて見る不思議な光景だった。
おそるおそるフルートは店をのぞくと、静まり返った店の奥で、草人のお姉さんが一枚の写真を握りしめ、むせび泣いているのだった。
いつも明るく、笑顔の絶えない彼女は、いったいどうしてしまったというのか。
手に持った写真には、お姉さんと小さな草人の男の子一人に、その子とそっくりの父親らしき人間の男が写る。
家族だろうか。
何かしらの理由で、離れて暮らしているのだろうか。
フルートはよくよく考えてみると、この八百屋には、お姉さん以外に誰もいないことに気づいた。
(まさか、永遠の別れではないよね……)
フルートは家族を亡くしているだけに、人ごとのように思えなかった。
憶測が彼女の意識を飛びかう。必然とベームとヴィオラを思い出した。
(父さん……母さん……)
やがて、お姉さんは泣き疲れたのか、フルートの意識が見つめる先で、いつのまに眠ってしまっていた。
写真の彼らがどういう関係で、なぜ、お姉さんが一人泣いているのかはわからない。
ただ、くしゃくしゃになった彼女の皺の跡は、光のかげんで影をつけ、深い悲哀に沈んでいた。
八百屋をあとにし、自宅アパートにたどり着くと、入口ではちょうど買い物から帰宅した狸人のおばさんがいた。
彼女は、また不安げにメモ紙を見ながら家に入るところだった。
ぶらさげられた買い物カゴには、なぜか、大量の缶詰ばかり入っているのが気になる。
フルートはおずおずしながらも、ちょうどあけられた玄関の隙間から、家の中へと入りこんでいった。
中は物が散乱する。同じ題名の活版本、同色、同形の服や靴、コップや食器……同じものが何個もうず高く積み上げられ、置き場所に困っているようだった。
いつもきっちりとし、頼りがいのあったおばさんだけに意外に映った。
おばさんはその光景に驚くと、慌てて片づけをしはじめる。
不要な物を紐で縛るなり、くずカゴに入れるなりし、裏の物置へ持っていく。
それでも収拾がつかないほど、家の中は物であふれ返っていた。
ついに、おばさんは片付けをあきらめ、買ってきた缶詰を棚に置こうと台所へ向かう。
「何で?……切らしてた缶詰がこんなにある……あれ? 果物は? パンがないじゃない……昨日、買い物にいったはずじゃあ?」
台所の前でメモ紙を取りあげ、おばさんはふたたび頭を抱える。
メモ紙の記録を目と指でたどり、唇をかみしめて混乱を鎮めようとする。
やがておばさんは、メモ紙に向かって病的に羽根ペンを走らせた。
そして、財布を持って家を飛び出すと、自分の揺れる影を追いかけるように消えていった……
これが嘘なのか、本当のことなのかはわからない。
ただフルートは、毎日のように会っていたのにもかかわらず、彼らのうわべ以外に何一つ知らない。
いや、知る由もない。
そもそも、彼らのことをよく知って何になるというのか。
そこには、他人に知られたくないこともある。
他人に触れられたくもなければ、自分でも触れたくないこともある。
フルート自身も、この街の誰にも、自分のうしろめたい影を見せたことなどないし、それはわざわざ、他者に見せる必要もないのである。
だから彼女は今、勝手に他人のそんな影をのぞいてしまった罪悪感とともに、自分の見せたくない部分が、白日の上に暴露されてしまったかのような気分でいる。
いよいよ、フルートはじっとしていられなくなり、街中の雑踏へと戻っていった。
気持ちを紛らわせたかったのだ。
相変わらず、街中のバザールはにぎわいを見せ、たくさんのものであふれている。
ところが気分のせいか、それとも身体がないからなのか。
フルートには、いつも見慣れたバザールの風景が異質に思えてくるのだった。
よく見れば、そこには同じような商品が、それぞれ他の店で違う名前で売られている。
どこのパン屋にも、流行の、「妄想牛」のミルクを混ぜた「クロワッサン」が、大量に並べられる。
どこの服屋にも、これまた流行の、「豆羊」の毛を使った淡い黄色の「カーディガン」が、何枚も店頭に並べられる。
生命魂たちはおもしろいように、そうした同じものをこぞって買いあさる。
いざ、その商品が安売りをしだすと、また同じ客が、また同じ商品にあさましく飛びついていった。
さらにその向こうでは、過剰に宝飾した、どう見てもただの「ガラクタ」が、高い金を支払われてまで買われたりもする。
どいつもこいつも、店にいる奴は、取るに足らない物を言葉巧みに売りつけ、まるで「詐欺師」みたいだった。
かつて自分も、あの中に紛れていたのかと思うと、フルートはひどく馬鹿らしく、情けなくもなった。
そもそも、凪で苦しんでいるはずの街の姿は、いまだ混雑以外に問題も見あたらない。
嘘か、本当か、この街の異様な姿が少しずつ浮かび上がっていく。
それは、陽の傾きとともに、深く大きな影を刻むようにして現れる。
(ここは本当にヘイルハイム……?)
しかし、グーシャと来たあのときの、夢の狭間の街のように、ビリビリと電気が走るわけでもなく、綻びがあるようには感じられない。
むしろ、今は身体がないぶん、今まで感じとれなかったことがよくわかる。
それは一つ一つの息づかい。
何より、ここにいる生命の性向というか、微力なエネルギーの揺らぎというか――「心魂」――を、彼女自身の意識をとおして、かすかな像として映し出すのだった。
その「心魂」は、生命魂の胸のあたりの内側に一つ、小さな炎を浮かべ、さまざまな色を発する。
(何かと似てる……何だろう?……そうだ……「蛍の光」……)
赤、青、黄……ほのかに輝く、「命の灯」。
その炎は力強くもあり、薄弱でもある。
どちらかといえば、目の前の生命魂たちは、みな薄弱に感じられた。
その中の一人の生命魂――白に黒ぶちの馬人――が、下を向いて、自らのまっ黒な影を追うように、フルートの脇をとおり過ぎた。
不思議と彼の命の灯は、その影を追うごとに、か細く擦り減っていく。
フー、フーと、彼の息づかいの一つ一つが、揺るぎない「現実」を存していた。
フルートは太陽を見上げた。
陽光は、実体のない彼女の身体を突きとおし、屈折することなく、そのまま地面に反射した。
当然、身体のない彼女に影はない。
あたりを見渡せば、身体を持った生命魂たちは、午後の陽射しに色濃く影を落としこめ、その目前に映る自身の影や、もしくは他者の影を追うようにして、もくもくと歩いている。
(ここは私の知ってる、今まで知らなかった『ヘイルハイム』……)
そこは明らかに、「現実」と「影」がうごめいているのだった。




