27 現実と影①
森のトンネルを抜け、「霧」が晴れたとき、フルートは太陽の中にいた。
背中を包むあたたかい陽射しが、五色彩るあざやかな街の屋根を上から照らす。
(空?……なんで……私、落ちてるの?……)
なぜかフルートは、雲一つない遥かな淡青を平行に眺め、ゆっくりと落ちていく。
自然と怖くはない。むしろ、気持ちはいいほうだった。
彼女は一度、身体をひねって仰向けにまわると、太陽を抱くように目を閉じた。
焼きつけるような光をまぶたに感じる。背中には、ふんわりとやさしい風。すぐにフルートは、身体の力を抜いて委ねられた。
まるで、大気の深海に沈んでいく心地がする。
フルートはまだ覚えている……今日か、昨日かはわからないが、自分が誰で、どこから来て、どこへたどり着いたのかも。
(あのときは忘れられたはずなのに……どうして?……)
ふたたびうつ伏せになると、今度は鳥になったみたいに滑空した。
少しずつ近づいてくる街。
「ヘイルハイム」の街並みは、陰影が深く刻まれ、縦に大きく伸びている。
しだいに、その街の中央広場がはっきりと見えはじめた。
広場には目立って、たくさんの生命魂たちが、ひしめきあうように歩く。
あの鐘の音は、終わりの合図だったか、街の活動は止むことなくつづいている。
フルートは身体を預けたまま落ちつづけた。
もうじき、地面にぶつかる。とはいえ、面倒くさくて何もする気は起きない。
それに、このまま死ねるのなら、それでかまわないと彼女は思った。
しかしながらフルートは、無秩序に広場の中へ落ちていくと地面に弾んで、なぜか水をかぶって無事に降り立ってしまった。
噴水場の浅い水の中だった。あたりの生命魂たちが驚く。彼らはいっせいに、彼女に注目を浴びせるが、何もなかったかのように、またすぐに歩きはじめた。
まるで、彼女の存在に気づいていないかのようだった。
不思議に思いながら、フルートはとにかく起き上がった。
ふり向けば、アポロの塔がそびえている。
さらさらと水を受け流し、ずぶ濡れになった身体なんてどうでもよかった。
ただ彼女は、そのあと何をどうしたらよいかわからず、しばらくおろろろして広場を彷徨うよりほかなかった。
きっとみじめな格好だろうに、それでも道行く生命魂たちは、すれ違うフルートに目もくれなければ、うしろ指もささない。
そんな自分のことはともかく、ここが記憶のとおりであるならば、かつて彼女がはじめて訪れた、過去のヘイルハイムなのだろうか。
けれども、街を見渡すかぎり、今と特に違った様子はない。
生命魂たちは、遊びにくれば楽しくおしゃべりし、食事に舌鼓を打つ。
商売堅気は声掛けに勤しみ、いっそうサービスにも力が入る。声という声がにぎやかに飛びかい、熱気がこもっていく。
そこは、ついさっきまでいたはずの、〈火曜日の昼間〉と変わらなかった。
フルートは広場を離れ、バザールの露店をぶらり遊歩した。
そこには、よく知った大家の狸人のおばさんが買い物に来ていた。
「秘密の遊園地」で、彼女が「仮面の異形」に連れて行かれたきり、フルートは安否を気にしていたが、無事に帰って来られたということか。
ちょうどおばさんは、しきりにメモ紙を見て果物を選んでいるところだった。
ところが彼女は、果物を一つ一つ手に取り、なぜか頭を抱え、思案する仕草を見せる。
そして静かに棚に戻すと、携帯の羽根ペンでメモ紙に横線を引き、結局、何も買わずに帰っていった。
肩を丸めるように帰るその様子は、とても疲れ切っている様子で、不安そうに見えた。
きゅうにフルートは心配になって、自分の身なりのことも顧みず、声をかけようとした。
しかし――
「『タイムセール』!! 『タイムセール』!! 今から全品一割引きだよ」
と、近くで肉を売る猿の店主が、金切るような大声で、フルートを遮った。
まだ明るいうちから、思い切った商売をする。
そんなふうに思っているうちに、セールを聞きつけた、生命魂たちの圧に、彼女は軽く押し出されてしまった。
ついに、端まで追いやられ、隣の店の白壁にぶつかり、跳ね返って、身体がふっと浮かび上がった。
どこも痛くはなかったが、あきらかに具合はおかしい。
フルートはいつのまにか、バザール内の天井際から、中の様子を見下ろしているのである。
まさか、あっという間に背が伸びたわけではないだろう。
フルートは自分の手足、胴が、身体が、どうなっているかをすぐ確認してみた。
(……身体がない!)
慌ててフルートは、近くの服屋で姿見をのぞくが、何も映らなかった。
彼女はまるで気体にでもなったかのように、見えない意識をゆらゆら浮遊させている感覚がした。
油断すると煙のように、ちょっとした空気抵抗で掻き消されてしまいそうに思う。
何が起こっているのか、まったく理解が及ばない。
どうして、こうなってしまったのか……途方に暮れて、フルートはあたりをうろついた。
誰にも気づかれず、誰にも触れられず。身体のないことは楽なようで、不便であった。
(グーシャも、こうして街をずっと眺めてたのかな……)
身体のなかったグーシャ。
彼女は、ニセナ夫妻の夢の中に居つづけながらも、こんなふうに、ずっと一人ぼっちだったのだ。
それでも、二人のあいだに居られて幸せだったと彼女は言っていた。
だがそれも、とつぜんフルートが現れ、ぜんぶ壊れてしまったのだ。
いや、壊してしまった。
グーシャは最後に、フルートに会えてよかったと言ってくれたが、本当は、フルートがここに現れさえしなければ、もっと彼女は幸せでいられたのかもしれない。
そう思うとフルートは、最後に彼女とした〈約束〉を守れない自分が、ずるくて情けなくて、憎たらしかった。
(きっと、バチがあたったんだ……)
フルートは失くなってしまった身体を見つめた。




