25 灰想③
「火事だ! 山火事だ!」
声主は、たしかにそう言った。
こんな夜更けの、隣近所もいないこの場所へ、いったい誰がやってきたのだろうか。
フルートとフィオは、万一のことも考え、二人で棒きれを持ってその声主に応対することにした。二人は足音を立てないよう、細心の注意を払って歩いた。
ゆっくりと玄関に近づいて行くと、扉の向こうで、声主が名乗りをあげた。
「俺だ! 『セロ』だ! 大きな山火事が起こったんだ! あけてくれ!」
二人は棒きれを投げ飛ばし、すぐに扉をあけた。
凄まじい風が屋内に入りこむ。二人は一瞬、目をつぶって身をすくめた。
風をやりすごすと、入口にはセロが、防火用マントをはためかせて立っていた。
焦げた臭いが、今さらになってフルートの鼻をついた。
「無事か! 離れの工房に火がまわってるんだ! これを着てはやく逃げろ!」
セロは、抱えていた防火用マントを二人に渡した。
「待って! 父さんを起こさなきゃ!」
セロは了解すると、フルートたちはリビングへ向かった。
しかし、そこで寝ているはずのベームはいなくなっていた。
すぐにフルートは台所のほうを探しに行った。
「父さん! 父さん、どこ?!」
やがて、フィオが帰って来た。
トイレや風呂場にもいない。
「おい! ここにもいないぞ!」
残りの空き部屋を探す、セロが戻ってきた。
まさか――
顔を見あわせた三人は、懸命に走って、火の手のあがる離れの工房へとやって来た。
「お前らはここにいろ!」
セロはマントをいったん脱ぎ、井戸の水を急いで汲んで頭からかぶる。
彼はふたたび、マントをはおりなおすと、赤く暗い工房の中へ走って入っていった。
「私も行く!」
フルートも水を被ると、フィオもすぐさまそれにつづいた。
二人はマントをはおり、意をけして火の中に飛びこんだ。
入口が奥に細長い工房は、煙がひどく充満していた。
二人は口を押え、せきこみながら身をかがめて進んでいく。
セロはすでにベームを見つけていた。
彼は意識を失っているようでぐったりしていた。
セロは彼の両脇を抱きかかえ、引きずって連れ出そうとした。
フルートとフィオも手伝った。
三人は煙に目と喉をやられながら、ベームの身体を必死に持ち上げて運んだ。
「あと、少しだ!」
セロの言葉に二人は力をふり絞った。
そして、細長い通路をとおり抜けようとしたとき、煙を巻きこんで天井の一部が崩落した。
鈍い音とともに、ベームを支えていた三人の腕に予期しない重みがのしかかった。
フルートは、腰から砕け落ちるようにうつ伏せになった。
彼女の手や腕は、痺れて動かない。隣にいたフィオも同じようだった。
入口に近いセロの様子はわからなかった。
意識が朦朧としてきた。
彼女はこのまま死ぬかとも思ったが、煙は少し薄くなってきていた。
天井の一部が崩落して、煙が半分ほど上へ逃げていったのだった。
「大丈夫かぁー!!」
セロが叫んだ。
「二人とも何とか!……でも、父さんが……」
フルートは、埋もれたベームの身体を掘り起こそうと、震える手で必死に瓦礫をどけた。
フィオも傷を負いながら、煤だらけになった。
セロは泣きながら歯を食いしばり、火傷だらけの手を動かしつづけた。
あたりはまだ風が吹き荒れていた。
風は家を殴りつけ、建物全体を揺らす。近くの窓ガラスが割れた。
そこから風が入りこむ。フルートのうしろのほうで棚が倒れた。
棚はうまい具合に倒れると、炎のまわりをせき止め、煙の流れを変えた。
しかし、まわりの炎にあたりの視界が明るくなるにつれ、三人の涙は枯れていった。
ベームの身体が現れると、誰も言葉を口にしなくなった。
フルートはベームを抱きかかえた。
細くなった手足は、焦げた木の人形のようだった。
薄くごつごつした胸の上には、小さな青いパァンの笛が首からさげられている。
(あれ……? どうして……)
指で触れようと、フルートは手を伸ばすと、笛はたちまち灰になってなくなってしまった。
彼女は静かに目を落とすと、色を失ったベームの琥珀目を見つめ、やさしく閉じた。
不意に、焦げた服の間から物が転げ落ちた。
実家に置いてあったはずのレイジだった。
フルートは汚れた手で、白く、きれいなままのレイジを一つずつ丁寧に拾った。
レイジは、知っている数より一つ多い。
その知らない一つにはベームと同じ、小さな青いパァンの笛が巻きつけられていた。
けれども、それもまた灰となって散っていった。
きゅうに、フルートはうしろをふり返り、胸の笛を窮屈に手で押さえた。
焼け焦げて、剥き出しになった玄関の軒に、大きな青いパァンの笛が赤く霞んで見えた。
とたん、彼女の頭にずっとあった隙間が、またたく間に埋まっていくのを感じられた。
(あ――)
もう一つの尊い死が灰となって、はらはらと心の底に新しく降りつもった。
軽くて、重くて、苦しい……。
渇いた黒い血のような涙が、二つ、頬を這うようにすれ違い、流れ落ちた。




