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25 灰想②

 フルートはフィオにベームをまかせ、セロを見送りに出た。

 彼にはずっと世話になりっぱなしで、せめてお礼を言いたかったのだ。


「いろいろありがとう、セロ……」

「いやいや! 幼馴染だろ?」


 セロは空元気だった。彼は無理に笑顔をつくって見せている。

 フルートは少しでも調子をあわせようと笑った。


「あっ?! それと、一つだけ。流行病のことなんだ……」


 セロは真剣な顔つきになった。


「もっぱらの噂なんだけどな。この奇病が広がりだしたのが、大貿易道の話がされてかららしいんだ。だから一部では、西方からやってきたか、もしくは、貿易道でもうけたいこの国の中央や隣国、果ては西方の国々の奴らが、利権屋と手を組んで流行らせたものなんじゃないかって」

「そんな! ひどい……あんまりだわ」


 フルートは目を伏せた。


 この得体の知れない〈醜い何か〉もまた、人の〈想い〉だというのか。

 犠牲を生んでまでして儲けて何になるのだろうか。

 〈想い〉が〈想い〉を押し潰す。

 それは、自分だけでなく、他人をも巻き添えにしていく。


 そう思うと、フルートは激しい憤りを覚えた。


「とはいえ噂だ。確証はない……。それに俺も、もとはよそ者……あんまり声を大にして言えない……」


 セロはやはり、自分の出自を気にしている。

 それでも彼はせいいっぱい、この村のため、フルートたちのため、この土地に生きるもののために母とともに身をにしてきた。

 彼女はそれを知っているだけに、彼の苦悩が不憫びんでならなかった。


「でも、西方からやってきた可能性は高い……それにあいつら、あんまりいいことしようっていう連中じゃあないだろうしな」


 セロが小さく肩を落とす。

 フルートはまっすぐ彼を見据えた。


「セロは、このモリヤマを守りたいの?」

「できればな……。お前の親父さんも、この村も、この国も……。こんな小さな俺たちの命を救ってくれた恩があるからな。そんな懐の深いこの土地が、かんたんに蝕まれていくのが本当にやりきれない」


 森がざわめいた。


「この国は食われようとしている。強くてやさしくて、弱い国だからな。だからなんだろうな。この国には俺みたいなよそ者が増えたばかりか、平気で恩を仇で返す連中まで出てきやがった。ほかにも、金や権力にかまけた奴らが隣近所にまで押しよせて、この美しい場所を不当なまでに滅ぼそうとしている。俺はそいつらが許せない!」


 セロは歯を食いしばり、胸を掻きむしるようにして怒りと悲しみをにじませた。

 それは爪で自らを傷つけ、壊そうとする行為だった。

 自分と似た、でも違う何かが犯した罪を、一心に償おうともがいているような……。


 しだいに、セロは涙を浮かべていった。


「でも……母さんの病気は治してやりたい……いや、ごめん。忘れてくれ」


 セロは言葉を打ち消して落ちこんだ。

 フルートは、そんなことはない、とセロを励ました。


「……じゃあ、俺、そろそろ帰るよ」

「あっ! ちょっと待って!」


 フルートはセロをその場で待たせ、家の中に入っていった。

 ほどなくして、彼女は濡れタオルを手にして戻ると、彼の口の縁へとあてがった。


「ッ?!」

「我慢して」


 セロは少し顔をしかめた。

 唇の縁が切れており、血がにじみ出ていた。


「なんだ? 口が切れるって変だな。そう言えば、今日はいやに乾燥してるな……」


 セロは口をもごもごさせてしゃべった。

 フルートは黙っていた。


「……いつも、ほんとうにありがとう」


 フルートは、タオルをあてがいながらセロに言った。

 本当に感謝していた。

 彼は少し頬赤く染めるとうしろを向いた。

 月明かりが、彼の白いシャツの肩にあたって反射する。


「じゃあ……また……」


 セロは走っていった。

 彼の背中は大きくなっていた。

 あのやんちゃで、荒らしい男の子の姿はそこになかった。



 その夜、フルートはフィオといっしょに、部屋の干し草のベッドで眠りに就いた。

 結局、父とはほとんど話せずじまいだった。

 セロと別れたあと、薬剤の注射が効いたのか、父はすでに眠りに就いていた。


 母のことも何も聞けなかった。

 フィオにも一度聞いてみたが、疲れてしまったのか、あとで話すと言ったきり、先に部屋に行かれてしまったのだった。


 しかし、父はなぜあそこまでこのモリヤマにこだわるのか。

 たしかに、モリヤマはフルートにとっても大事な場所だ。

 〈身体〉を丈夫に育ててくれた恩だけでなく、フィオやセロをはじめ、たくさんの仲間との思い出がここにある。


 でも、死んでしまっては意味がない。

 命を削ってまで何を守るというのか。

 フルートにはそこがわからなかった。


「ねぇ? 起きてる?」


 隣で肩を並べて寝ていたフィオが、フルートに話しかけた。

 彼女は小さく返事した。


「こうやって並んで寝そべるなんて、いつ以来だろう。懐かしい。それだけ、みんな大きくなっちゃって……何だか知らないうちに、あのころとはいろいろ変わってしまったんだ……。ねぇ、何かが変わるってさぁ、大きな痛みを伴うものよね?」


 フィオはぼんやりと天井を見つめ、何か思い起こしているようだった。


「私は今、この村を離れて山向こうの隣町に住むけれど、それだけでもずっと違和感があった。そのまた先の海の見える街なんかは、すでに半分、国も違ければ、こことは文化も文明もぜんぜん違うから……もっと違和感を感じるのかな……。フルートだって、旅に出て何か感じたでしょ? 違和感みたいな?」


 フルートはフィオの顔をまじまじと見た。

 旅に出た記憶のない彼女は、フィオの言わんとすることがさっぱりわからなかった。


「あら? そうでもないような顔しちゃってさ!……でも、もう一年以上は経つんだよね……フルートが旅に出てさ……。あんなに、『旅には行きたくない! 片時も離れたくない! 私はカーモマウジで、このモリヤマでずっと生きてく』って言ってたのに、何よ? その変わりようは」


 フィオはひたいに手をやり、本気で笑った。

 フルートは反応に困った。


「フフッ! まあ、別にいいけど。最近、私も向こうの暮らしに慣れてきて、けっこう楽しいんだな! これが!」


 フルートは結局、何もわからなかったが、フィオの目は喜びに満ち、幸福で埋め尽くされているようでうれしかった。

 しかし、同時に彼女は、ヘイルハイムでの生活にとりたてて違和感を持っていなかったことを不思議に思う。

 これも記憶の関係なのだろうか。


「そうやって、知らない間に馴染んじゃうのかな……。私は正直、今はもう、モリヤマのことはしかたないと思ってる。おじさまにも、セロのおばさまにも助かってほしいし……でも……」


 部屋の中が一瞬、静かになった。

 フィオは干し草を擦すって寝返りを打ち、その背をフルートに向けた。


「……でも、そうはいかないよね。私たちとおじさまとは、生きた時代も長さも違うから。この村は、ここに生まれてきたものたちはみんな、それ相応に苦しんでいるんだと思う……変わってしまうことに。あの流行病みたいに、原因のわからない痛みをともなって、見えない敵と戦ってる」


 痛みをともなって……変わってしまうことへの恐怖と抵抗。


 たしかに、ヘイルハイムのような都会は、それでもいいかもしれない。

 目まぐるしく変わる運命の都会は、覚悟の上で、まだ痛みに耐えられるのだろうから。

 けれども、片田舎のこの村は違う。都会との時間軸のずれたカーモマウジは、それとは比べものにならない、大きな代償を払う。


 それは、人生の大半をこの山と森ですごしてきた村人にとって、自らの〈身体〉を引き裂くものだ。

 なぜなら大貿易道は、小さな浅海あさうみを越え、西側諸国とこの国の都心をつなぐため、緩く永い時間をかけて醸成された村の山を貫き、広大な森をも燃やす。

 すべては、その周辺に、無機的で即物的な巨大駅や、商業施設を誘致する計画のためだ。


 ずっと、ゆっくり歩いてきたものたちを、とつぜん無理矢理に走らせでもすれば、具合もたちまち悪くなる。

 案の定、村の大部分で反対が湧き起こった。


 フルートの父、ベームはその中心にいた。

 彼は、長らく住んできたカーモマウジ村を、山を、森をずっと愛してきた一人だった。

 第一、彼のつくるフルートの材料は、すべてその山や森から伐りだされ、つくりだされるものだけだ。


 その山や森を奪われるというのは、楽器職人の彼にとって、一つの「死」を意味する。

 曾祖母の代から、山と森の営みにあわせてつくりつづけてきた楽器が、その命の循環が、早くもついえようとしていたのだ。


 反対運動は、村を中心に大きな反響を巻き起こした。

 しかしながら、将来の経済的な魅力、この国の中央政府や各国からの圧力に、反対派はすぐに劣性を強いられた。

 それでも粘り強く、これまでどおりの山と森の存続を訴えてかけてきたが、最終的にベーム一人を残し、村の反対派はほぼなし崩しになった。


 おそらくベームは、自らの〈想い〉の中でぎりぎりに生きている。

 その〈想い〉の強すぎるがゆえに、今にも押しつぶされ、〈身体〉を失おうとしているのだ。


「病気や心労もあってなのか、おじさまも、きゅうに『風の知らせ』がどうのって、『この村が霧に消えてなくなる』だなんて言いはじめて……なおさら、村の人たちにも避けられるようになってしまったの。それに、おばさまが――」


 フィオがそう言いかけたとき、外で男の声が聞こえてきた。

 必死で、何かを訴える声だった。

 声はやかましく、玄関にまわりこむと、戸を激しく叩きはじめた。


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