25 灰想①
ベームは、リビングに置かれた簡素なベッドに横たわっていた。
今は、フィオがつきっきりで看病してくれている。
いまだにフルートは、目の前の人間が父であることを理解できないでいた。
それくらいに変わり果てた姿だった。
何かしらの病気であることは容易にわかったが、ベームは今も黙ったまま口を聞いてくれず、確認のしようもなかった。
沈んだ場の空気がそうさせたのか、フィオやセロもまた、お互いを見ながら話しづらそうにしていた。
けれども、フルートはとりあえず状況を整理しなければと、セロを少し離れたテーブル席へと連れだし、事情を聞くことにした。
「手紙は届いてないのか?!……そうなのか……でもじゃあ、どうしてここに? 偶然?」
セロは驚いた表情で言う。
「ごめん……私にもよくわからない……」
フルートは、この家で代々つづく「十三歳の仕来り」で旅に出たきり、行方不明となっていた。
すぐに捜索願がだされたが、一年が過ぎ、父ベームの病気もあって安否もわからぬまま、捜索も打ち切りとなってしまった。
だが、セロとフィオはあきらめきれず、ベームに黙ってフルートを探しつづけた。
それも、国で保護されるモリヤマ固有の希少種、「伝書鳥」を勝手に持ちだしていた。
たしかに「伝書鳥」は、霧をも飛び越え、探し人を見つけだすという言い伝えがあったが、古い迷信にすぎなかった。
だから、その鳥がフルートのもとに届くことなどありはしない……
「ベームさんだって、本当はうれしいはずさ。ずっと探して、心配してたんだから……いつも、『きっと、どこかで元気にやってる』って信じてた。あんな身体にさえならなければ……最後は、心配や迷惑をかけたくなかったんだよ。俺たちだけじゃなく、フルートにだって……自分の病気もそうだし、モリヤマのことも……」
セロはうつむいた。
フルートもまたうつむいた。
彼女には仕来りも、旅についても覚えがあるわけでもなく、かといって正直に、これまで自分の身に起こったことを話すのもためらわれた。
なぜなら、フルートはまだところどころ記憶もあいまいで、ここも過去なのか今なのか、はたまた未来なのかもはっきりしていない。
夢か現実なのかもそうだ。
彼女は、大胆な行動がかえって、事を悪い方向にいかせてしまうのをひどく恐れていた。
セロは目をあちこちに動かし、しばらく考えこんでいた。
やがて、ため息をつくと、鎮痛な面持ちでベームの現状を伝えはじめた。
カーモマウジ村ではここ数年、流行病が広まっていた。
それは胸を締めつけ、ときおり刺しこむような痛みをともない、じわじわと神経衰弱にさせて内臓を蝕み、死に向かわせる未知の奇病。
ベームはここ一年で、その病に伏せていた。
「どうして、そんな病気に……」
セロは下を向き、力なく首を横にふった。
「おじさま? どう? 楽になった?」
向かいに見えるリビングでは、フィオがベームの痰をきれいに掻きだし終え、薬草入りの飴を舐めさせていた。
彼女は、山を越えた隣町で看護師をやっており、自分の勤める病院から器具や薬草、薬剤を勝手に持ちだし、ベームに処方しているのだった。
「……あぁ。ずいぶん喉が楽になった……ありがとう」
弱々しかったが、父の声だった。
フルートは、セロといっしょに席を立ち、リビングへと移動した。ベッドで横になる父は、苛立っていた表情も落ち着き、穏やかな懐かしい顔を取り戻していた。
「……すまなかったな……」
三人は首を横にふった。
ベームはひと通り目を配ると、フルートのところでしばらく止めた。
彼女はその父の目をじっと見た。
複雑な気持ちが入り乱れた。
目の前いるのは、本当に父なのか。
でも、たしかに彼の目は、彼女と同じきれいな琥珀色をしていた。
「すまないだなんて……ベームさんの気持ちは、わかってるつもりです」
セロが言った。
ベームは鼻で安堵の笑いをもらした。
「……なら、これで最後にしろ」
「ど、どうして?! その身体じゃ、ほっとけないですよ!」
とつぜんの父の拒絶に、セロは困惑した。
「……お前の母親は? 同じ……病なんだろう? そもそも……母親のために来たんだろう? 悪いな……死ぬまで待て」
セロは何かを言いかけて途中で止めた。
この未知の病はすでに、カイン・ハインヌゴーシュ国の全域に広がりはじめていた。
この病に立ち向かうには、どうしても大きな文明の知恵が必要だった。
現にフィオの持ちだす器具も、薬草や薬剤も、すべて西方からもたらされたものだ。
セロの母親も、たびたびフィオの世話になっていた。
もともと身体の病弱な彼女は、症状が重く、西方の医療が一つの頼みでもあった。
ただ、それら西方の医療も、流通するのはほんの一端にすぎず、一時的に症状を緩和するものばかりだった。
将来の完治を望むには、最低でも西方の最新医療設備を整える必要があり、大貿易道の開通はその期待もかかっていた。
「ねぇ、そういえば『ご神木の水』は? あれがあれば、治るんじゃないの?」
ふと、フルートは、モリヤマにある万病に効く水のことを思い出した。
「それはそうなんだけど……」
「もう、水はない……」
ベームが、フィオを遮るように答えた。
モリヤマにあるご神木の水は、一時的に胸の疼きを沈め、一定の効力があった。
しかしながら、ご神木はフルートの知らないうちに枯れてしまっていた。
「だからもう……ここに来る……意味はない」
ベームがセロを眼光鋭く威圧した。セロは気圧された。
「いや……俺はそんな……」
「……待ち遠しいか? 俺の死が」
「父さん! そんなひどいこと! セロは薄情なんかじゃない! 心配して来てくれてるんだよ?」
「いいんだ。フルート……」
セロはフルートを遮った。
「でもっ?!」
フィオが首をふり、食い下がるフルートをなだめた。
セロは悲しみに明け暮れていた。
彼はここにある、とりとめのない悲しみのすべてを汲み取っているかのようだった。
それなのに、ベームは何を考えているかわからないほど無表情のままだった。
セロのせき止められた悲しみは、いよいよ自暴自棄にあふれだした。
「もう、水もなにも、どうでもいいんです! ただ、ベームさんには、世話になったから……」
「どうでもよくない……! たった一人の……母親が先だ……!」
ベームは声をふり絞り、怒りとも不安とも、恐怖ともとれる澱みを目に宿した。
セロは完全に委縮した。まるで本当の父親に叱られたように、静かに葛藤する息子の姿があった。
フルートはセロの背中を見つめ、ふと、彼の悲しい過去を思い起こしていた。
セロと彼の母は、もともと遠い異国から来た難民だ。
それは「霧」から逃れるためだった。
霧は、彼らの故郷の国をのみこみ、あっという間に消失させた。
それも山林や川、湖の自然から建造物に人々も、そこに存在するものすべてを切り刻んで、粉々に消していったという。
いまだかつて、そんな恐ろしい霧は、誰も見たことも聞いたこともなかった。
けれども、けして嘘ではないだろう。
その証拠に、セロの母は、右腕のひじから下をすべて失っていた。
それも、たんなる切断とは違う。
痛みはまるでなく、切断面はまっ黒で、切られたというよりも、きれいに存在を消されてしまったかのようだった。
とつぜんの霧に、存在のすべてを奪われたものはみな、死んでしまったのかもわからない。
セロたちは、そのさなかで父を失い、多くの家族、友人たちを失った。
母子二人だけが、命からがら、霧の中をぎりぎりで駆け抜け、逃げ延びたのだった。
その後、二人は各地を転々とし、この土地に流れ着いた。
彼らは二人以外に、生き残ったものがいるのかもわからないままだった。
だからこそ、ずっと一人でセロを育ててきた母親は、彼にとって本当に最後の家族なのだ。
その家族はおそらく、目前のベームよりもひどく痩せこけ、変わり果てた姿であることは容易に想像がついた。
その場にいる誰しもが胸を痛めた。
ベームはそれを誰よりも知っていたのだった。
(そういえば、母さんはどこへ? こんな大事なときに……)
フルートは、まだ姿を見ない母ヴィオラが気がかりになったが、今はさすがに言いだせる雰囲気ではなかった。
「……今すぐ帰れ。今日はフィオも……フルートもいる……」
セロは申し訳なさそうな顔をして、ベームの言葉に従った。
そして、フィオからいくつか薬を受け取ると、玄関へと向かった。




