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23 笛と根なし草②

 フルートは、胸にしまっていた青いパァンの笛に手をあてた。

 今は手にない、小さな青いパァンの笛を思い出した。


 グーシャは、霧のさなかで流産した、ニセナ夫妻の子供だった。

 彼女はずっと、ニセナ夫妻の夢の狭間で、〈身体〉を持たずに成長してきたのだ。

 けれども、フルートがニセナ夫妻に引きとられたことで、状況が一変した。


「あなたが現れて、パパとママは、『私』を忘れようとしました。私を、グーシャを、『あなた』にげかえて……」


 フルートは二人分傷ついた。

 ニセナ夫妻にとって彼女は、グーシャのかわりにすぎなかったのかと。

 そんなグーシャをここに生みだしておいて、彼女で埋めあわせて、忘れようとしたのかと。


 だが、グーシャはフルートの気持ちを察して、受け止めながらも否定した。


「違います! パパもママも、あなたを大事に思ってました。子供と親の情の関係を、『私』を失って、痛いほどわかっていたから。たしかに、はじめは、『私』のかわりだったかもしれない。でも、いつか本当のことを話して、親もとへ返してあげたいとも願っていたんです。きっかけを探してたんです。ずっと、ずっと、臆病になりながらも……」


 グーシャの言っていることは、フルートにも理解はできていた。

 けれども、騙されていたという感情が、どうにもそれを許さなかった。

 それは、態度にもはっきりと表れ、グーシャの逆鱗に触れた。


「私は、フルートがうらやましい!! あなたはパパやママに、その足で駆け寄って、その手で触れて、その声で笑いあえる! その肌で、パパとママの愛情を受け止められる! 〈身体〉のあるあなたは、いともかんたんに、できることでしょうね? 私は、私は……」


(〈身体〉……)


 フルートは、まっ暗闇の中で覚えた、血の巡るあの感覚を思い出した。

 身体じゅうに今もあふれる、細かな痛みがじんと響いた。


「ごめん……」


 フルートはグーシャに謝った。

 しかし、グーシャは容赦なく彼女をこう撃した。


「……あなたはあのとき、すんなりと『グーシャ』を受け入れました。何の抵抗もなく」


 フルートは、もうグーシャの目を見られなくなっていた。


「私は、はじめて憎しみの感情を持ちました。あなたにも、パパとママにも、あの霧にも……」


 グーシャの青目は赤く光り、顔を逸らしたままでいるフルートを射抜いた。


「そんなときに、『モヘジ』と出会ったんです。モヘジは本当に何でもつくれました。服も、靴も、帽子も、この鞄も……それは私にとって、〈身体〉そのものでした。モヘジがいれば、いつか私は、外に飛び出せるかもしれない。特に、この旅行鞄を見たときには、強くそう思いました。この鞄を持っていれば、あの霧を抜けていつか……」


 グーシャは鞄を見つめ、空を見上げた。

 アポロの塔の斜め上は、折重なる濃い霧でほころび、すでに消えかかっていた。

 外灯の光も色が冷め、かえって頭上の月が、丸くのぞきはじめていた。


 気のせいか。

 月明かりは青く淡々と、肌に忍び寄って冷酷さを増した。


「でも、私は間違ってました。だって、そんなこと到底できないんです。誰かの〈想い〉の中でしか、私は生きられないから。けど、このまま、この事象をつづけるわけにはいかない。だって、私が存在することで、みんなに負担がかかってしまう。みんな幸せになれない」


 フルートは、まだうつむいたままだった。


「ねぇ? 顔を上げてフルート? 私がそう思えたのは、あなたがいたからなんですよ。あなたに触れてわかったんです。〈身体〉の中にある、〈心〉の孤独をはっきりと知りました」


 フルートの頬を一筋の涙が伝った。

 澱んだ琥珀目が少しずつ洗われていく。

 彼女には、よく理解できなかったが、はじめて自分が、誰かに受け入れられたように感じられた。


「パパとママもあなたと同じ……今度はみんなを助けたい。だから、それであなたの記憶を借りて、何か今日一日(きっかけ)をつくろうとしたんです。ごめんなさい……」

「ううん……むしろ、こっちが謝るほう。ごめんなさい……私の都合で、あなたやコップスとジーニを、苦しめたようなものだから……」

「いいえ! だってフルートは!……しかたないですよ……。でも、ここはとりあえず、お互い様ですかね」


 グーシャは、優しい顔をしてうつむいた。

 フルートは少し心を救われた。


「……でも、ちょっと待って? 助けるって、どういうこと?」


 グーシャが顔を持ち上げ、アポロの塔を見上げた。


「ここはパパとママと、あなたの『夢』が重なる、ちょうどまん中――」


 アポロの塔のてっぺんはすでに欠け、空の彼方は歪んでいた。

 地面はところどころひび割れ、ビリビリ放電するようにして霞んでいた。

 目の前のグーシャの姿形は、ときおり二重にも三重にもだぶって見えた。

 フルートの身体も変わらず、淡い小さな光の玉を舞い散らせ、だいぶ透けてきていた。


「このままだと、みんな『夢』に飲みこまれてしまう。私みたいに身体をなくしてしまう……いいえ、もっとひどいことになります! 心と身体が乖離かいりして、意識をなくし、名前も、性格も、記憶もすべてなくしてしまう……『もぬけの殻』……」


 心は身体を無にして、うまく表現できない。

 身体もまた、心を無にしてうまく表現できない。

 フルートもよく知っているように、二つが乖離した存在は、「蛻の殻」と彷徨さまえる魂なのである。


「〈身体〉を取り戻す……〈現実〉を取り戻すんです。それがどんなに辛くとも、乗り越えなければならない」

「それってまさか、グーシャの〈想い〉を絶つってこと?」

「……そういうことなになるんですかね」

「それじゃあ、グーシャは?」

「それが、私の宿命さだめですから……」

「そんな……」


 力いっぱい、フルートは首を横にふる。


「〈想い〉は、〈想い〉を押し潰し、ときに生命を破滅させる。強ければ強いほど……。その〈想い〉の中でしか、〈想い〉を食べてしか生きられない私は、現実を生きるものたちにとって、邪魔な存在。私はある意味、命を吸い取る悪魔なんです」


 フルートは納得できなかった。


「でもあなたは、ニセナ夫妻が望んで、生まれたものじゃないの? その〈想い〉を絶たれたら、二人の心はなくなってしまうんじゃ……」

「じゃあ、フルートの〈想い〉はどうなるんですか? このまま、この関係をつづけるならば、自分の〈想い〉を絶つことになる。あなたは、自分の〈想い〉に、心の声に少しずつ気がついている」

「私の〈想い〉……心の声……?」


 フルートは胸に手をあて耳を澄ました。

 鼓動に混じって、何かがささやているのが聞こえた。

 それが何と言っているのかは、まだわからなかった。

 しかし、はっきりと鼓動の弾む中で、風のようなささやきが、しっかりと鼓膜を振動させていた。


「もとはといえば、私のパパとママがまいた種。私と、パパとママの問題なんです。あなたを巻きこむのは間違ってる。それに、フルートは私と違います。あなたは、あなたの〈想い〉を、『夢』のつづきを見る力がまだある。きちんと根を張って、幹を太くして、葉を生い茂らせることのできる〈身体〉がある」


 澄んだ青目が、琥珀目を淡くぼかしていった。


「私、本当はあなたになりたかったんです。フルートは私の憧れ。このアポロの塔のまん前で、パパとママと歩く、天真爛漫なあなたを見かけてからずっと……その顔も、その髪も、言葉遣いも、その仕草もぜんぶ……」


 グーシャは、こめかみにひとさし指をトンと叩いた。


「……でも、目だけは……目だけは、どうしても琥珀色にはならなかった。やっぱり、〈身体〉は嘘をつけないってことなんでしょうね……」


 霧が立ちこめてきた。その霧は白い層を重ね重ね、濃く厚くなっていく。


「フルート! あなたも向きあわないといけません。あなたの『夢』を見て欲しいから。描いて欲しいから」


 フルートは黙ってうなずいた。


「私! 〈想い〉を遂げるから! あなたへの、グーシャへの〈想い〉も馳せるから! そしたら、また会えるよね?……」


 分厚くなった霧は一ヵ所に集積し、長いトンネルのような形をつくりはじめた。

 グーシャは、崩れ行く夢の狭間を見上げ、涙がこぼれ落ちないようにしていた。


「……この霧の先に、あなたを待つ人がたくさんいます。きっと、フルートの味方になってくれる。あなたが、フルートがフルートになれたとき、あなたはきっと幸せになれる。私にも……」


 グーシャは涙をぬぐって、申しわけなさそうに笑った。


「それと、最後なんですけど。モヘジには、もう話はしてありますから平気です! もちろんギタリさんも、パスティンルーも、みんな無事ですよー!!」


 グーシャは舌をちょこっと出して、顔をくしゃくしゃにする。

 フルートは涙目で、微笑み返すのがせいいっぱいだった。


「さぁ! もういかないと。鞄はちゃんと返します……きちんと持ち主のもとへ、おねがいしますよ?」

「うん……運び屋さんではないけど……この鞄の持ち主が、きっと見つかるように……最後まで」


 フルートは左手を取手に添えるように鞄を受け取ると、同じ取手の上に添えられたグーシャの左手の甲を右手で触れた。

 グーシャもまたそっくりそのまま右手で、フルートの左手の甲に触れた。


((またね――))


 二人は背中あわせで、非対称に別れていった。


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