23 笛と根なし草①
「せっかく、お家に帰してあげたのに、飛び出してきちゃったんですね」
「どういうこと?」
少し残念そうにするグーシャに、フルートは聞き返す。
グーシャは二度笑った。
「私の〈遊び〉に、つきあってくれましたよね? それのお返しです。まさか、あそこで滑り落ちるとは思ってもみませんでしたけど」
やはり、あの出来事は嘘ではなかったのだ。
あのとき、フルートが崖から滑落して、グーシャがどうにか助けてくれたのだ。
「やっぱり、あなたが助けてくれたんだ! ありがとう!」
だが、グーシャは複雑な表情をする。
「助けたってほどではないんですけどね……でも、実際、助けることになってしまったんですかね。あーあ。私の負けです」
フルートには、グーシャが何を言っているのかわからなかった。
「えっ?! まだわからないんですか? 私のこと?」
「まだわからないって……『グーシャ』でしょ?」
「うーん。半分正解ですかね」
グーシャは青い目を凛とのぞかせる。
まさか、彼女は『グーシャ』ではないとでも言うのか。
ただたしかに、フルートにはどこか聞き覚えのある声だった。
もちろん、あどけなかったグーシャの声が、女性らしくなった程度のことではない。
もっと前からあるような記憶のどこかに存在する声だった。
「まあ、髪の色は今、金色ですけれど。黒かったこともありましたかねぇ」
グーシャは、キャリーカートの取手にポンと手を置いた。
ちょっとした仕草にフルートは誰かを思い出しはじめる。
そして頭の中で、目の前の少女を黒髪にして重ねあわせてみた。
そこにできあがる像は、いつか中庭で旅行鞄を奪っていった、あの「青目の少女」だった。
ようやく理解すると、グーシャはまた笑った。
フルートは黙って彼女を見つめていた。
「あの中庭からずっと、あなたの遊びにつきあわされてたっていうの?」
「ぜんぶではないですけど、ほとんどですかね」
グーシャはアポロの塔を見上げた。
「ここは、とある『夢の狭間』。無数の誰かの〈想い〉が折重なった場所の一つ。あなたも見たんでしょ? 夢の奥深くにあった、飴玉のような花火が重なるのを」
「それって、あの門のあった、浮遊体のある場所のこと?」
「……そうです」
グーシャは青い目を暗く落とした。
「記憶、欲望、嘱望、憧れ、恐れ、不安……生命は、『夢』という微睡みを生みだす。誰もが、あの飴玉のような甘ったるい火花を散らして、ときどき誰かと重なりあう……そういえば、あなたは『夢』を見ないんですよね?」
フルートは、少し考えてからうなずいた。
「……私もそうです。夢なんてまったく見ない……」
うしろから眺めたグーシャの肩は、とても小さかった。
「そうれはそうと、私が何ものか気になりませんか? 私は、あなたが誰なのか知りたいです」
そう言うと、グーシャはやさしい顔をフルートに向けた。
「私は『グーシャ』。あなたも『グーシャ』……」
「いいえ……私は『グーシャ』じゃない」
「そう……」
まっ直ぐと見据える、フルートの琥珀目に、グーシャは安心しきった面持ちだった。
「いったい、グーシャが誰なのか、私にはわからない。でも、あなたがそのグーシャだって言うのなら、どうしてこんなところに? あなたこそ、お家に帰ったらいいのに。コップスとジーニは心配してる」
「心配? そうですね……でも、私は帰らない」
「どうして?」
「誰かの夢の中でしかいられないから」
フルートは首を傾げた。
「私は。身体がないんです――」
グーシャはそう言って、首にさげた小さな青いパァンの笛を握りしめた。
――その昔。
遠い、遠い「東の国」で、ある小さなお祭りがあった。
お祭りは「縁日」と呼ばれ、その日に所縁のある神様を供養するものだ。
その祭りには、二人の小さな男の子と女の子が遊びに来ていた。
男の子は地元の子で、女の子は遠い、遠い「西の国」の子。
彼らは縁日で知りあい、すぐに仲良くなった。
きっかけは金魚掬いだった。
あまりに下手だった女の子を見かねて、隣にいた男の子が金魚掬いのやり方を教えたのである。
女の子はやっと一匹、男の子の協力を得て金魚を掬うことができ、飛び跳ねるほど嬉しがった。
しだいに、空の向こうに夕焼けが見えると、二人は、そろそろ帰らなければならなかった。
その帰り道、女の子は、小さな宝飾を扱う露店で、「小さな青い首飾り」に目を奪われた。
それは東の国に伝わる「お守り」であった。
男の子は、女の子にいい格好をしようと、その首飾りをプレゼントしようとした。
けれどお、お金が足りなかったのだろう。
彼はポケットに手をつっこんで、さえない顔をする。
不憫に思った店の主人は、男の子の端金ぜんぶで、気前よく首飾りを譲ることにした。
彼は店の主人にお礼をすると、さっそく女の子に首飾りをかけてあげる。
喜ぶ彼女に、彼は照れ隠しし、先を歩いて行くのだった。
二人はその後、駅で別れるはずが、すぐには帰らなかった。
皮袋の中の金魚が、弱ってしまったのだ。
急いで二人は、金魚掬い屋に戻り、桶の中に弱った金魚を戻そうとした。
しかし、彼らはそこの店の主人に、一度救い上げた金魚は、責任をもって飼うように叱られてしまう。
ただ、そのかわりに、新しい水と皮袋に入れ替えてくれ、飼育方法を教わった。
ところが、どうにも金魚を飼うことは難しかった。
女の子が持って帰ろうにも、こまめに水を取り替えてやらなければ、死んでしまうし、代用を利かせようにも皮袋以上に、携帯できるものはない。
代わりに、男の子が飼うにしてもも、家にいる猫が悪さしないか気がかりだった。
はじめは二人とも、金魚を飼うことなどかんたんに考えていた。
しかしながら、死にそうになった金魚は、脆く、儚い命だった。
それもその命は、今、自分たちの手の中にあるのだった。
いろいろ考えたあげく、二人は金魚を山の大沼に逃がすことにした。
無責任でもあったが、せめて自由に、のびのび生きてほしいと思ったすえだった。
二人は、小川の畔を遡る。
そして、小高くなった山中の大沼に、金魚を放した。
金魚がときおり飛び跳ねると、彼らは、どんどんちっぽけになっていった。
小さな命を軽んじた、後悔と懺悔が、彼らの中で奇妙に入り混じった。
あたりは、すっかり暗くなり、二人は早く帰ろうと駆けだす。
その途中で、彼らは地上の銀河を見た。
小川の畔で、淡く一心に光る蛍の群生だ。
その光景を見た男の子はとつぜん、この場所がなくなってしまうことを思い出す。
男の子は、そのことを女の子に告げると、二人もまた、決められた命を懸命に生き、いつかまた会おうと約束するのだった。
それから何年も過ぎ、二人が偶然、「とある街」で巡り会う。
東の果てと西の果てとを結んだ道の、ちょうど真ん中にある「大きな街」。
そこへ、「小さな青い首飾り」が二人を引き寄せた。
首飾りをさげ、美しい女性となった女の子と、立派な青年となった男の子。
二人はすぐに惹かれあった。
やがて彼らは結婚し、新たな命を授かった。
何年も子供に恵まれなかっただけに、その子は、二人にとって幸せの象徴であった。
幸せは、ふっと知らない間に、風のように吹いてくる。
きっと、この子も「お守り」のおかげだと……しかし、「待望の子」は、いつまで待っても生まれてはこなかった。
ある日。
夫人の乗った馬車が暴れ、とつぜん道を逸れた。
御者が投げ出され、馬車は制御できなくなり、夫人は客車の中で左右にふられる。
馬車は長いこと、建物の壁や立木にぶつかって、ガラスの割れる音とともに横倒しに止まった。
そのとき、座席から転げ落ちた夫人は、扉の取手にお腹を強く打ちつけていた。
彼女は必死に仰向けになり、ガラスで切った血だらけの両腕で、お腹を抱えて助けを待った。
しかし、まだ午後を過ぎたばかりだというのに、あたりは薄暗く、人気もなかった。
肝心の夫も、今日は仕事で家には帰ってこない……。
たった一人、意識が朦朧とする中、夫人は、胸の前の「首飾り」がないことに気づくと、抱えていた両腕は、天を仰ぐように力なくおりていった。
割れたガラス窓には、薄暗い空がのぞき、忌まわしいあの霧が、ゆっくりと中へ入ろうとしていた――
「それ以来、パパとママは、『霧』を忌み嫌っているんです。だって二人はもう、父親に、母親になれなくなった。『霧』は、幸せのほとんどを奪ったんです……でも、私はそうでもありませんでした。パパとママの夢の中で生きられれば、それでいいと思ってました。あなたが……この首飾りを持ったあなたが、ここに来るまでは……」
グーシャは、首もとの小さな青い首飾りを手で掬い上げた。




