22 夢うつつ②
二人の表情に緊張が走った。
彼らの指先は震え、目には見えないが、どことなく、とがった繊細な神経が弱く漏れ出でていく。
緊迫した電気を帯びた空気が、長く、弱く、部屋を滞留するようだった。
二人の顔は、ますますこわばっていく。
「とつぜん……何を言いだすのよ……」
ジーニが不安そうに、やっと言葉を絞りだす。
「ハハッ……冗談は、よせ……」
コップスは、喉がつかえたように苦しそうにしゃべる。
フルートは二人に疑問をはじめて抱いた。
あの日、あの無機質な施設から、彼女を引き取ってくれた恩はある。
本当の親のように、面倒を見てくれたやさしさも知っている。
けれども、グーシャとは本当に誰だったのか。
彼女はもう一度、グーシャについて質問してみたが、何も返答はなかった。
フルートは、コップスの持ってきたランタンを掻っ攫うと、家を飛び出した。
いても立ってもいられなかった。
目の前のコップスとジーニが、この家が、この街が、この世界が……、すべて〈よからぬ嘘〉でできていると感じた。
彼女の心の直観がそう物語っていた。
「ちょっと待つんだ! 外は危ない! 『霧』が! あの『悪魔』が出ている!」
ソファーから立ち上がり、腕をつかみにかかるコップスをフルートは掻いくぐった。
勢いよく扉をあけ、外に出ると、たしかに濃い「霧」があたりを包みこんでいた。
だが、思ったとおり、家の壁も足下も門も、この世界はつぎはぎになって綻びかけている。
フルートは、ランタンに備え付けられたマッチ棒を取り出し、やすりで擦って火を点けた。
火を灯したランタンを手に、階段をゆっくり下り、門に手をかけた。
「何をやってるの! 『霧』が出てるでしょう? 『悪魔の霧』が!! 今夜は危ないから戻ってきなさい?! また明日、話しあいましょう……?」
ジーニが玄関から飛び出して、ゆっくりフルートのほうに歩み寄ってくる。
「ね?……『グーシャ』……」
「……グーシャじゃない……グーシャは違う!……私は『グーシャ』なんかじゃない!!」
胸の裂ける思いで、フルートは二人の静止をふりきり、霧の中へと消えていった。
ジーニの悲痛な叫びが、闇夜の霧の中に閉じこめられた。
彼女は泣き崩れてぼろぼろになった。
それでも、地面を這うようにジーニは、フルートの背中のグーシャを追いかけようとしていた。
「ダメだ! ジーニ! 君まで失うわけにはいかない!」
隣にいたコップスが、彼女を抱きかかえて止めた。
「俺がかわりに行く……!」
「嫌よ! 私だってあなたを失いたくない! あの子だって……」
ジーニはお腹を両腕で抱えてうずくまった。
その青目は、目の前の霧を映しだすようにどんよりと濁っていた。
そこに生気はない。
「……行くなら私も連れていって?」
コップスは、鉛のような重い表情で彼女を受け入れた。
「でも、ジーニ……この『霧』に飛びこめば俺たちはもう、『夢』から覚めないといけない……この夢のような現実から」
***
霧は、あのときの帰り道のように、不安と恐怖を統べて支配していた。
フルートはランタンを握りしめ、手探りで少しずつ前に進んだ。
水気も何の感触もない霧は、彼女の視界を覆い尽くす。
一寸先さえ、判断がままならない。
どこにいるかもわからない。
どこに行くかもわからない。
どこに着くかもわからない。
ときどき、手を伸ばしたランタンの先に、建物の壁やら柱やら固い何かがぶつかった。
そのたびにフルートは、方向を微調整して慎重に歩を進めた。
ゆっくり、ゆっくりと、自分の心の信じた方向へ、はりさけた胸の隙間を縫うように、霧の中を彷徨った。
フルートが焦りだすのも時間の問題だった。
変わりばえのない、ましてや、目をひんむいてみても、視認することのできない先行きに、彼女は過敏に意識を反応させた。
意識は、その無意識のうちに見えない敵をつくりだす。
それはまず、頭のおでこらへんにぬんめりと、重く暗い影の塊を蔓延らせる。
次には、フルートの胸の中心を喰らおうと鋭利なフォークを突き立てるのだ。
胸のつかえた彼女は、たちまち重苦しくなる。
無意識はひとりでに、次々と見えない敵をつくりだしていく。
おでこの影の塊は、フルートの思考を消極にさせ、薄暗い霧の中へ、雨粒の波紋を映すように染みた。
そこには、いつかの帰り道で出くわした、あのうごめく黒い影の圧迫を感じる。
背中はもうぐっしょりだった。
フルートは、胸の笛ごと力づくで、緊張と震えを抑えこもうとした。
ふと「何か」が、フルートの隣を背後からかすめていった。
その「何か」は、生きもののような、生温かい気配を風の圧に乗せ、肩や腕にぶつかってきた。
耳のうしろから電気が流れ、鳥肌が立った。
彼女は、怖くてその場でうずくまった。唾液腺がきゅっと締め上げられ、口の中がからからに乾いた。
身に危険は及ばなかった。
しかしながら、フルートは、しばらく首をすくめて様子をうかがっていた。
すると、こつぜんと目前の霧が晴れていく。
それも、行く先を示すように、一部の霞んでいた空間が、道のように切り拓かれていった。
(今しかない!)
また霧が、あたりを覆いつくさないうちに、フルートは走り抜けようとした。
彼女は手をついて立ちが上がり、足を大きく前に出す。
だが、身体が重く思うように動かない。
走りだしまではよかったが、少し走った程度で息はすぐに上がった。
それだけでなく、足はよろけてうまく前にも運べず、何度も地面に倒れこんだ。
転んだ拍子に、手をつくと、刺しこんだ痛みが掌から腕、頭へと伝った。
掌から、赤く熱を帯びたものがにじみ出た。
不幸中の幸い。
痛みは、フルートの無意識を追いやってくれた。
しかし、にじみ出る赤色を、その目で捉えたとき、気に障る細かな痛みが、身体じゅうからあふれていくのがわかった。
今まで気にも止めなかったが、掌も足も、調べてみると小さな傷やアザがたくさんあった。
ここにくるまで、ずいぶんと身体を酷使してきた証拠だった。
フルートは、自分の身体をいたわるように見た。
身体の端々《はしばし》には、蛍の光のようなものがきらめきながら、ふらふらと舞い散っていく。
しかしながら、その美しく儚い光は、じょじょにフルートの身体の色を奪っていくようでもあった。
身体は、今にも透けて消えてしまいそうである。
彼女は身体を失いかけていた。
ここは、「嘘でできた世界」に違いない。
ここをどうにか抜け出さなければ、自分はこの場所に呑みこまれてしまう。
フルートはそう感じると、身体の痛みを少し腹立たしく思いながらも、また走りはじめた。
懸命に走りつづけ、中央広場にたどり着いた。
遠くにアポロの塔が見え、噴水の流れる音が耳の入り口を軽く触った。
まっ白な塔は、誰も見あたらない広場の真ん中で、無機質に構えている。
フルートは塔に近づくにつれ、その麓に、悲しい目をした少女が、あの旅行鞄を脇にたずさえて一人でいるのに気がついた。
金色の髪を腰まで伸ばした、青い瞳の少女だった。
「……やっぱり、見つかっちゃいましたね」
青い瞳の少女は、よそよそしく話すと、ぎこちない笑顔をつくった。
すっかり大人びてしまっていたが、彼女は、「グーシャ」に間違いなかった。




