21 生まれてくるものの宿命(さだめ)③
二人は小川をもっと遡り、大沼へとつづく湿地へ足を踏み入れた。
ランタンを持って、簀子の引かれた道の上を進み、グーシャが楽しそうに蛍のことを話す。
「蛍はね、あんなにきれいだけど、羽を持って飛ぶようになって1週間、長くても2週間しか生きられないの」
「そんなに短いの?」
「そうよ。虫の一生なんて、そんなもの。おまけに、卵から生まれるまで一か月、幼虫になって十か月、サナギから羽を持つまで、また一か月もかかかるの」
一年という限られた命の中で、輝けるのはたったの1~2週間。
なぜ、彼らは生まれてきたのか。
彼らがそれを知っていたなら、生まれてくることを望んだろうか。
それでも、選べないのが命である。
フルートは命の不公平さを痛感し、きゅうに琥珀目を曇らせた。
「なんだか、かわいそう。同じ命でも、命は選べないものね……」
「そうじゃないんだよ? フルート」
グーシャは、透きとおった青い目でフルートを見返した。
「たしかに、命は誰にも選べない。産み落とされた命に、誰の意識が芽生えるのかもわからない。その命も人と比べたら、蛍は短すぎるし、不幸に見えるかもしれない。でもね? どんな命も、誰かが与えてくれなければ、生まれて来ることもできないんだよ?」
グーシャは、うっすら目に涙を浮かべていた。
「小さな命だって、せっかく生まれてきたんだから。せいいっぱい何かしなきゃ、もったいないじゃない! だから蛍は、かぎられた命でもけんめいに、夜空に火をともして羽ばたくのよ。次の命のために……たとえ、それしかできなくったって――」
大沼にかかる橋を越え、二人は、小高くなった立木のある場所から景色をのぞいた。
ひとーつ、ふたーつ。黄緑色に燃える命が浮かんで見えた。
筆跡を残し、点滅し、火を交錯させ……。
蛍は夜の闇に抗うように、希望を何度も灯す。
涙がフルートの頬を伝った。
いくつもの光の筋が、まっ暗な小川の流域をすべて巻きこみ、川底に向かって不規則に落ちるようにして、一枚の絹が編まれていく。
「蛍の銀河」がそこに現れた。
悲しくもない、喜びでもない、真空のような時の持つ鎮守の流れに、フルートはたちまち包まれた。
「――ほらね……フルート? 見えるでしょ? きれいだよね……ううん。美しい……」
遠くに見える。
街の夜景とはまるで違う。
蛍の銀河は、自由で孤高で、それでも互いに交流して一つの形を織りなす。
グーシャの顔が、月夜と川底に散らばる銀河に挟まれ、青白く映った。
「ねぇ、フルート。あなたは、何をせいいっぱいしたい?」
フルートはくぐもった。
〈何もない〉だなんて、口が裂けても言えないのだった。
「私はね……私は……」
グーシャは、小声で何かを言いかけて途中で止めた。
彼女は恥ずかしかったのか。顔から耳まで赤くすると、沼のほうへ駆け下りた。
ちょうど斜面を滑って着地したところで、彼女は背中をひねり返した。
「あぁ! そんなことより金魚! 金魚は大丈夫かしら?」
グーシャの声に慌ててフルートは、手に持った皮袋をあける。
そこには、水面に横を向いて浮かぶ金魚の姿があった。
金魚はエラを大きくゆっくりと動かし、口をぱくぱくさせて苦しそうにしていた。
二人は急いで沼に戻り、水を入れ替えられそうな浅瀬の場所を探した。
フルートは、浅瀬に着くと金魚を手で掬い、いったん沼の水の上に浮かべた。
あまり得意でなかった金魚のぬめりは、今はなぜか不思議と愛おしい。
手の中に囲われ、必死に呼吸する金魚は、けして死んだ目などしてはいなかった。
「フルート! 終わったよ!」
隣で水を入れ替えていたグーシャが、フルートを呼んだ。
「ちょっと待って! まだ苦しそう……」
しばらくそのままでいると、金魚は尾ひれを激しく動かし、フルートの手の中を小さく跳ねた。
(間にあった!)
そう思った矢先、金魚はフルートの囲う手を飛び越え、沼の奥へと泳いで行ってしまった。
「あっ?!……」
逃がすつもりはなかった。
けれども、それでいいのではないか、とフルートはすぐに思いなおしていた。
「いいの? 逃げちゃったけど……」
失敗した、とフルートは、舌先を出して照れ笑いした。
グーシャはやわらかく、砕けた顔で受け答えた。
「まぁ、それもいいか……。ただ、『放流禁止!!』って書いてあるから、見つかったら、きっと大人たちに怒られるわよ?」
グーシャは、近くにあった立て看板を指さす。
フルートは思わず口に手をあてがった。
「まぁ、見つかりっこないけど……。さぁ! お家に帰りましょう?」
「うん! グーシャ!」
フルートはどこか清々《すがすが》しかった。
今まで他人のようだった目の前の女の子を、グーシャをようやっと受け入れられた気がした。
グーシャが引き返そうとすると、橋の向こうから話し声が聞こえてきた。
彼女は、静かにするようフルートに言い聞かせ、橋とは反対の雑木林へと彼女を連れ出した。
話し声の主は、女の子と男の子か。
あどけない子供のようだった。
夜空に突き抜けるような幼い声を走らせ、足で簀子を踏み鳴らしている。
(なーんだ。子供なら逃げることもないじゃない。むしろ、こんな場所に子供がいるのなら、注意しなきゃ……)
フルートはそう思ったが、よくよく考えれば、自分たちも〈子供〉なのだった。
「フフフ。しかたないから、まわり道しよう」
同じことを考えていたのか、グーシャはおかしそうに笑った。
二人は、小川に合流する沢を渡り、行きとは反対の岸から、ゴンドラのある麓に降りることにした。
沢は水がほとんどなく、ごつごつした岩場が露わになって小さな谷のようになっていた。
わりと急な斜面で、うっかり足を滑らすと、ただではすみそうになかった。
「気をつけてよ!」
ランタンを片手に、グーシャはフルートの一つ先を行く。
彼女は、足場の安全を確かめて前を進んでくれた。
おかげで、フルートは足をすべらすことなく、歩くことができた。
だが、ふと、足もとの景色の様子を見ようとしたのはまずかった。
フルートはランタンをふりかざし、谷を見下ろすと視界が定まらなくなった。
とたん、崖下に吸いこまれるように平衡感覚は奪われ、彼女の身体が傾いた。
「フルートっ!!」
グーシャの呼びかけに、フルートはとっさに上体を起こそうとした。
けれども、何も答えられぬまま、フルートは足から滑り落ちた。
一瞬にして右に一回転すると、天と地が翻った。
固い泥の上に腰と背中を大きく打ちつけられた。
衝撃ほどの痛みはなかった。
外灯もない小さな山の中で、夜空を見上げているというのに、星は一つもない。
まっ暗な箱の中のようだった。
その箱はしだいに、縮小していくようにフルートへと差し迫り、彼女の身体の線に触れて止まった。
小さな暗闇の箱の世界に、すっぽりはまってしまった感覚がした。
フルートはまるで、自分が巨人にでもなったかのような不思議な心地で、狭い暗闇の中を静かにたたずんでいた。




