20 夢の街①
「アポロの塔」が鐘を鳴らし、「傾斜の刻」を告げた。
鐘の音の波紋が、頭のまわりに押し寄せる。塔のてっぺんから、景色を切り裂くほどの光の密集した細い線が、鋭敏に空へと伸びていった。
光線は、またたく間に分厚く広がったと思うと、円を描くように無数の光る帯を飛散させた。
フルートは、たちまち光の帯に身体を射抜かれた。
目の前にいた女の子を見失う。
身動きもとれなくなった。
だが、思いのほか光は淡く、信じがたいことに、目をあけたままでいられるのだった。
厚みを感じられる光の感触は、あたたかく、やわらかかった。
フルートは静かに目を閉じる。
息苦しかった街のざわめきは聞こえない。
彼女は一人になった。
一人は清々しく思えた。
誰にも邪魔されず、誰の気も使うことはない。
しかし、すぐに次の悩みが生まれた。
いつになっても、身動きがとれないのだ。
正確には、どう動いていいのかがわからない。
気がつけば、自分の身体をもフルートは見失い、どこにいるのかもわからなくなった。
彼女には、ここが本当の「迷宮」であるかのように思えた。
しかし、気分はそこまで悪くない。
何だか、ふわふわと居心地よく、すべてを忘れてしまいそうになる。
「感情」、「記憶」、「想像」……「私」を取り巻く環境が、雑音となって、フルートの耳奥で煩わしい。
このまま身を委ねてしまえば、その煩わしいものも、どうにか消すことができるように、彼女には思えた。
(いや。消してしまえ。「私」を消去して、「私」は無垢になる。そうすれば、今にきっと身軽になって、また楽に歩きなおせる……)
フルートの身体が、宙に浮きかけたとき、視界は元に戻っていった。
あたりは、今まで時を止めていたのか。
街は不自然に動きだした。
耳に入りこむ大気の騒音。
鐘の音。
しばらくして、路上の駅馬車がとおり過ぎ、屋台の出店が熱気ある客引きをはじめた。
近くにいた観光客らしき鳥人たちは、仲間うちで事後の感想を、ピーピーと述べあっては興奮している。
うしろには、のっそりとふらふら歩く、大きな熊人の影があった。
熊人は、フルートにぶつかりそうになっても、かまうことなく、進路を変えようとしない。
その顔は、あまりに夢見心地で、傾斜の刻に冬眠でもはじめてしまったかに思えた。
噴水場の流れる水の音が、妙に湿って身体にこびりつく。
あのときの、青いパァンの笛の音が、今にも聞こえてきそうだった。
ここはどう疑っても紛れもない、ヘイルハイムの中央広場だった。
「ここが、私の住む街――『シュアプキン・シオンニエ』……」
いつのまにか、隣にいる青目の女の子は、フルートの知らない街の名を口にした。
「あら? 言ってなかったかしら? はじめてあなたと会ったのも、この広場だったよね」
動きだした街に、フルートは一人、取り残されたようにたたずんだ。
「ひどいなぁ。忘れちゃったのかな?……」
女の子が、いじわるそうにフルートをのぞきこむ。
「いやっ! そんなことないっ! 私、最近いろいろあって……」
「フフフ。うそうそ!」
口もとに手をあて、女の子は嬉しそうに笑う。
「ね、ねぇ……。でも、ここは『ヘイルハイム』じゃあ……」
フルートは、自分の記憶を不安に思いながら言った。
女の子は驚いたように、彼女を見返した。
フルートは、またおかしなことを口走ったのだと後悔した。
「あぁ! そうだった! つい、くせで言っちゃうんだ。昔の街の名前……今は時代も変わって、新しい国になったんだよね」
女の子は、照れ隠すように笑った。
ヘイルハイムの昔の名前など、はじめてフルートは知った。
この国に何かしら、大きな転換があっただろうことは容易に察せられた。
ただ、それが、いいことだったのか、悪いことだったのかはわからない。
フルートは、詳しく聞いてみたかったが、あえて質問しないことにした。
今、すぐ隣で夢を見るように、楽しそうに笑う女の子の機嫌を、彼女はあまり損ねたくないのだった。
「フフフ! 今日は楽しもう! 私ん家で、お泊りもすることだし!」
ヘイルハイムはお祭りの最中だった。
それも、「本ノ間の日」のお参りがあり、たくさんの生命魂たちが、アポロの塔に前に訪れている。
よく見ると、塔の中やそのまわりには、白装束を着て白いお面を被る祈願者たちの姿もあった。
周囲の入り口には、警備兵がロープを引いて、関係者外の立ち入りを禁じていた。
今は、その前夜祭と後夜祭の間に位置する中断期間にあった。
ここで生命魂たちは、後夜祭に向けて力を蓄える。
だが、フルートは、本ノ間の日や、その日のお参りのことなら知っているが、その前後の夜に、祭りがあったような記憶はなかった。
しかしながら、実際に歩く、通りがかりの生命魂たちはみな、不思議な服を着て、不思議な食べ物を食べ歩き、ときおり不思議な言葉を使って特別な面持ちでいる。
不思議な服は、足まで隠せるほどの長い羽織ものを一本の帯を締めて固定する。
異国情緒ある幾何学的な模様やあざやかな色調は、もとの生地とのコントラストが効いている。
とりわけ女は、その服を着て、誰しもが髪の毛を上に持ち上げ、髪留めで一つに束ねている。
不思議な食べ物はたくさんあった。
たいがい共通しているのは、食べ物が櫛に刺さっていること。
腸詰や大きなイカを焼いたものなどは、すぐ見ればわかる。
だが、行きかう生命魂たちの中には、例えば、棒のまわりについた綿を舐め取っているものがいる。
また、ほかには、櫛に刺した3、4つの白くて丸いものに、紫がかった赤褐色のパテや、飴色のタレをつけたものを一つ一つ頬張るものもいる。
不思議な言葉はもっと不思議だった。
ヘイルハイムでは、めったに聞くことのない「フィノノグ語」のような、しかし、少しニュアンスの違う言葉が飛びかっている。
似ている言葉だからか、意味がすんなりと入ってきたりもするが、それでも「エンニチ」、「キモノ」、「ダンゴ」……、女の子が、口にしていた単語については、よくわからなかった。
フルートは、休日のはじまりの午後を思い出す。
だが、つい今しがたのことのように思えるあの広場に、そんなに目立ってめずらしいものはなかった。
たしかに、世界の半分たるヘイルハイムは、毎日がお祭りのようで、それがいつものとおりではあった。
文化の折衷地でもあり、異国の生命魂も来れば、めずらしいものだってたくさんあるのだが、少なからずフルートは、ここまで異国情緒を基調とした街並みを見たことがない。
それに彼女はまだ、戻りつつある記憶も不確かなままだった。
てっきり、自分の過去に遡ったものだと思いこんでいたが、そうではないのかもしれない。
今だって、ここが現実か、空想なのかも区別がつかない。
休日のはじまりからずっと、面倒な夢でも見させられていたとしても、おかしくはないとも思った。
遅い昼下がり。
公園のベンチで、フルートの母がつくったサンドウィッチを二人で食べ、ふたたびバザールへと戻ってきていた。
そこから見上げる空に、少しずつ西陽が差しはじめた。
15《3》時のおやつまでに、女の子の家に着くはずが、小一時間ほど遅れてしまっていた。




