19 記憶の杜(もり)②
「さぁ、フルート! こっちよ!」
女の子は、楽しそうにフルートの手を引いた。
「こっちって、どこに行くの?」
「え? どこへって、森を抜けて〈私の住む街〉に行くのよ!」
女の子は、フルートを連れて家の裏側にまわる。
薪置き場を右に小さな鶏舎を超え、炭焼き小屋を左に見る。
森に入口などはなく、密度を増す青々とした木々に、気がつけば森の中にいる。
フルートたちは、ここまでずっと走ってきて、息もだいぶ上がっていた。
女の子は立ち止まって、息を整えようと握った手を一度ほどいた。
一歩前からフルートを見返る彼女は、膝に手をあて、まんべんの笑みを浮かべる。
彼女は額を手でぬぐって、フルートの手を取りなおし、ふたたび先を急ごうとした。
しかし、フルートは、
「……ゆっくり行こう!……まだ……時間はあるんだから……」
とやさしく笑い、女の子の手を逆に引っぱった。彼女はちょうど、フルートと横に並ぶ形になって、少し照れくさそうにした。
森には自然の道があった。雨や風にうたれて地形が生まれ、そこに植生が育まれる。
その恩恵を被ろうと人や獣が往来する。そうやって踏み固められた土は、やがて道になる。
その道の脇には、あちこちに樫の木の細い伐り株があり、いくつもの新芽を幹から伸ばしている。
萌芽更新の安定した樫の木は、薪や炭木として重宝する。
(懐かしい……)
父もまた、隣近所と共同所有する持ち山の、樫や椎の木をよく伐り倒しに行っていた。
フルートも家の手伝いで、父のうしろをついてまわっては、木を伐れないかわりに小枝を拾い集めていた。
集めた小枝は、焚きつけ用に使う。
小枝は、バチバチと音を鳴らして火を灯すと、乾燥させた細い薪から燃料にして、じょじょに燃え盛っていく。
薪ストーブは春を過ぎても、まだ肌寒い日もあるここらでは、防寒のためにつけることもある。
ただ、それ以外にも、昨日のチーズのように料理を加熱する際にも利用する。フルートは、薪で焼いたピザが恋しくなった。
とろけるチーズと香草の香り。
口に運ぶと滴り落ちるトマトの酸味を想像すると、口の中の唾液があふれてきた。
フルートが、そんな思い出話を織りまぜ、女の子に話しかけると、彼女は、派手な身振り手振りで興味を示し、まるでこの土地のことを知らないようだった。
女の子は、この辺の地域に住んでいないのか、それとも、ここにあまり来たことがないのかもしれない。
もっとも、出かけ際に聞いた、〈森を抜けた向こうの街〉などありはしたか。
フルートの知っている森の向こうには、険しい山がつづいているだけのはずだ。
山を越えれば、街があると聞いたことはあるが、そこにたどり着くには、峠をいくつも越えていかなければならない。
あらためてフルートは、隣で手をつなぐ「青目の女の子」を、自分の知らない子だと思うのだった。
しかしながら、記憶の不確かな今、その直観の信憑性は極々に乏しい。
結局のところ、フルートは、自分の名前や家族をそれとなく思い出しても、いまだ昨日の男の子の名前も、ここの土地や場所の名前も、正確にはわかっていない。
彼女は、あまり気分の優れないまま愛想笑いを浮かべ、他愛もない話をつづけるのだった。
森もそろそろ、中腹にさしかかると、沢を挟んで二股の道が現れた。
この広く大きな道は、かつての林道の名残である。
その昔、何十メートルにもなる大きな木を伐って運びだす目的で発達した道だ。
そこを右に行けば、緩やかな沢づたいに東北の山を登っていき、左に行けば、北の山の麓に例の「隠れ家」があった。
だが、フルートの知る林道は、いつもと様子が違っていた。
あたりの雑草はおろか、雑木が根ごとなくなっている。
盛り上がっていた斜面も削られ、道幅はさらに広がっていた。
それどころか、伐採した周辺の木々は丸太にされ、道の流れと垂直に地面へと埋めこまれ、等間隔に並べられている。
重たいものを荷馬車などで運ぶため、道の強度を少しでも増す工夫なのだろう。
ほかにも近くには、資材置き場までできており、石やら砂利やらが積み上げられ、大きな工事がはじまるのは、誰の目にも明らかだった。
フルートは、左の道の先にある「隠れ家」が心配になった。
幸い、広げられた道の行く末は、沢づたいに山へと向かう、右の道へとつづいていた。
彼女は取り越し苦労に、やんわり胸をなでおろす。
女の子がその様子を心配した。
「……どうかしたの? きゅうにだまったりして?」
フルートは女の子の手を放し、会話を途中で切らしてしまったことに気がついた。
「あぁ、ごめん。ここらへん、知らない間にずいぶん変わっちゃったなぁと思って……そう!……ここを左に行くとね、さっき言ってた『かくれ家』に行くの」
「へー! この先に『かくれ家』があるんだぁ……」
女の子は嬉しそうに道の先を眺めた。
道の先は、途中からつづら折れになって見えなかったが、フルートの目には、ありありと記憶の風景が映っていた。
ふと、女の子は反対の道をふり返った。
「……ここは今、大がかりな『トンネル』をほってるのよね」
「『トンネル』を?」
「知らないの? 『ウミキ』たちや、いろんな物々が、たくさん行き来できる道をとおすのに、山にトンネルをほってるのよ」
フルートはまったく知らなかった。
「ここからずぅっと、ずぅっと、ずぅーっと、遠くの『西の国』につなげるのが目的なの。それで、私の住む街は、その途中にあるのよ。ちょうど、まん中らへんかな」
「えっ? 森を抜けたところにあるんじゃないの?」
「ええ。そうよ」
「えっ? でも……だって、森を抜けても、その先は山がつづくだけよ? それに、ずぅーっと遠くにある、西の国とのあいだでしょう? 行けっこないわ」
「何言ってるのよ? だから、森をぬけるんじゃない?」
女の子は、とんちんかんな回答ばかりする。フルートは頭を抱えこんだ。
自分の記憶の問題なのか、女の子が支離滅裂すぎるのか、彼女にはもう区別のしようがなかった。
「どうしたの? 森をぬけて行く道は、あなたが教えてくれたのよ?」
フルートは困り果てて黙ってしまった。女の子は、しょうがないなぁ、と小さくつぶやくと、ふたたびフルートの手を取り、左の道を選んで走りだす。
あの幾重にも曲がった道を行き、平らな土地が開けてきた。
道なりに左に曲がれば、そこには「隠れ家」があった。
しかしながら、女の子は、フルートの手を引いたまま、まっすぐ草むらのほうに飛びこんでいった。
草むらを掻き分けていくと、フルートの知らない獣道が現れた。
獣道はでこぼこと木の根の入り組み、フルートたちの足を煩わせる。
二人で協力しあって、やっとのことで抜けきると、巨大な木が生い茂る薄明るい場所にたどり着いた。
50メートルはあろうか。
その巨木は、ひしめきあうように両側に立ち並び、長大な並木道をつくる。
はるか頭上では葉や枝が折重なって、尖ったアーチをつくる。
フルートは遥か遠くを眺めた。
ほのかに明るい光の出口が先に見え、まるで「森のトンネル」のようだった。
「さぁ! あと少しよ。行きましょう!」
フルートは女の子に手を引かれ、森のトンネルの中を走りだした。
木陰の少し、湿りけのある空気は、フルートの肌に馴染み、心を落ち着かせていく。
過ぎいく巨木たちは、木肌をごつごつと表情を変え、まるで人の顔のように、穏やかに微笑んでいるようだった。
その中のすらっと、まっすぐに伸びる一つの巨木が、たちまち友達のフィオの姿形へと変わって見えた。
(フィオ……)
背が高く、手足の長い彼女は、浅黒い肌の美人で、気立てのいい活発な子だった。
ときどき、信じられない失敗をするのは、彼女の可愛らしい一面である。
するととつぜん、風もないのに、枝葉ずれが聞こえる。
ひしめきあう巨木は、ゆったりと揺れて軋み、擦れあう音は低く、唸りを奏でていた。
とりわけ、枝葉の細かい巨木は、つんつん頭の昨日の男の子が、にこやかに笑っているようだった。
(……セ……ロ?……『セロ』……。あぁ……そうだ!……)
学校の男の子の中で、一番仲のよかったセロは、やんちゃで口が悪いが、本当は誰よりもやさしい子だった。
ときおり、むきだしになっている大きな根っこは、まるで人の手をして見える。
フルートの大好きな笛を生みだし、奏でる父の手。
フルートの大好きな、料理や裁縫を生みだす母の手。
(父さん……母さん……)
フルートの記憶は昇華され、想像を膨らまそうとした。
女の子がうしろの彼女を見て、嬉しそうに前方を指さす。
遠そうに見えた出口の明るみは、もう、すぐそこまで来ていた。
まもなく、森のトンネルが薄くぼやけ、螺旋状にまわりだす。
また、あの忌まわしい霧が、空を切って煙巻いているのだった。
もう、ブレーキをかけようにも、走りだした足は止まりそうになかった。
フルートは半ばしかたなく、しかしせめて、募りはじめた不安には怖気づくまいと、握った手に力をこめた。
女の子が強く手を握り返す。
風に背中を押されるように、フルートの身体は軽くなった。
景色が歪み、どろどろに混ざりあう。
むせ返るような、生命魂たちの混みあう熱気に、執拗な陽射し。
出口の先には、まっ白な塔が立ち、噴水が光の泡を散らした。
あたりは揺らぎ、大気は霞んでいる。
蜃気楼を見ているようだった。
「……『ヘイルハイム』……」
そう、フルートはつぶやいた。




