2 風の笛吹①
大いなる正午。
太陽は真上へと昇り、あらゆるものの影をなくす。
その光だけの世界は、他人の存在も、自分の居場所すらもわからなくする。
いったい、そこからどう歩いていいのかなんて、誰も知る由もない。
けれども実際、太陽が真上に昇ってみたところで、視界がちょっと、眩しくなるだとか、身体が火照って熱いだとか、せいぜいあるのは、その程度の障害だ。
もっとも、この街「ヘイルハイム」には「アポロの塔」がある。
塔は、「傾斜の刻」を知らせる鐘とともに、傾きはじめた午後の陽光を集め、街じゅうに放射状の光を出だすのだった。
放たれた陽光は分厚く、やわらかく、白昼夢のように微睡み、「アポロの傾斜」となる。
それは、一日一番の陽射しとなる、正午の陽光よりも格段に眩しい。
たちまち光に包まれた街は、終わりの鐘を聞くそのときまで、完全に活動が静まる。
誰も彼もが、光の中で我を忘れ、他を忘れ、身動きがとれなくなるのだ。
すると、あたりには、祈りを捧げるもの、黄昏るもの、居眠りするものたちであふれ返る。
大いなる正午は、どうやら一回り遅れてやってくるようだ。
***
(……今日は『本ノ間の日』だったんだ……)
琥珀目の少女は、広場を訪れてようやく気づいた。
「本ノ間の日」である今日は、街の住民はもちろん、世界中の生きとし生けるものが、こぞって集まってくるのだ。
昼の少し前とはいえ、飲食店の多い中央広場は、すでに大勢の人でごった返している。
少女は不愉快に思った。
いくつもの、日よけの縞模様の大きな傘が差され、その下で、多種多様な人々は、丸いテーブルを囲み、ガヤガヤと飲み食いに興じている。
アポロの塔もこの広場にあるのだから、「傾斜の刻」にでもなれば、ひどい混みようになることは必至だ。
友人同士の話し声、商売人の掛け声、通行人同士の喧嘩の罵声。
広場を囲むバザールの回廊をまわれば、物音に混じって、生命魂たちの感情は、どんと熱くなった。
そんな熱気のこもる雑音の中で一際、伸びやかな笛の音がひとすじ、大勢の足をぼつぼつ止めていく。
(何だろう……この感じ……)
ちょうど、中央を突っ切っていた少女の足も止まった。
彼女は、広場の不規則な人の流れを縫うように急ぎ、青色区に向かうべく、地下鉄乗り場を目指していたところだった。
彼女は街のあまりの混雑に嫌気がさし、ここでの昼食をあきらめたばかりで、少し気がもやいでいた。
けれども、少女はいったん、その笛の音を気にしだすと、すぐに確認せずにはいられなかった。
それとなく笛の音のありかは、大きな人だかりの輪をつくっていて、すぐにそれだとわかった。
彼女は、笛の音の正体を突き止めようと、小さな体をうまく使い、群衆の前へと押し出ていく。
茶色のフードマントを纏い、流れるように銀色に光る髪。旅人のような風貌の「笛吹」は、広場の大きな噴水の小脇に立ち、紫水晶の淡く光る瞳を遠くにやりながら、何やら「青い笛」を吹く。
(変わった笛吹)
ここは、尖った爪のようにそびえる立つ「アポロの塔」のまん前。
少女はきょとんと、その笛吹を眺めていた。
青い笛は、長さの違う筒状のものを、きれいに何本も横に並べて束ねている。
笛吹は目を閉じ、器用に一本一本、筒の上に口を軽くあてて息を吹きこみ、温もりのある音を奏でていた。
きゅうに陽光が眩しくなると、笛吹の陰影はぼやけ、笛の音の柔らかさをいっそう引き立てる。
少女は、その光景をほんの一瞬、目のあたりにしたにすぎなかった。
だが、それは絵画の作品であるかのように、今見える少女の視界を隅から隅まで切り取り、一つの額に「芸術」を収めていた。
まばたきをやめた彼女の瞳は、じっと、その芸術の醸す色に染めあがると、もののみごとに元の琥珀色と調和した。
(あぁ……やっぱり何だろう……この感じ……)
はじめて聞くはずの音色は、耳にやわらかく、少女の心の奥に、どことない懐かしさと愛おしさを響かせる。
まるで風の音──そのやわらかな笛の音の隙間からは、午後の陽射しが、温かく洩れ出でている。
不思議な感覚だった。
いつのまにか少女は、その音洩れ日にうとうとしていると、広場に一人、取り残されていた。
気づくと、笛吹は青い笛を首にぶらさげ、地面に逆さに置いた帽子を拾い上げている。
彼は、帽子の中のわずかな銅と銀を手で拾い、袋に入れなおすと、少女の視線に気がついた。
先に、少女が会釈した。
すると笛吹は、ちょっと気まずそうに袋のひもを締め、帽子を被りなおしてから、柔和な笑顔で会釈を返す。彼は、とても美しい青年だった。
少女は、その柔らかな挨拶に自然と引き寄せられるように、笛吹のもとへと歩み寄っていった。
どうしても、彼女には気になることがあったのだ。
「あのぅ……その『青い笛』……?」
少女は、謙遜した顔つきで、うわ目づかいにたずねた。
「あぁ。この笛ですか? これは『パァンの笛』です」
笛吹は、得意げに首にかけた笛を取った。笛は、5,6本もの細い竹か篠のような青い筒状のものを二段にして、右から左に長短と、きれいに紐やらで束ねられている。
また、口にあてがいやすいよう、ゆるやかなアーチを描くように並べられ、固定されている。
「『パン』の笛?」
「はい。『パァン』って、食べる『パン』ではないですよ」
笛吹は悪戯にも、純粋な白い歯をこぼした。
少女はまごついた。
「その昔、『パァンの神』が、葦に姿を変えてしまった愛する人を偲んでつくったという、葦の笛です。ちなみにこの青いのは、『青葦』です。よかったら、手に取ってみてください」
笛を手渡された少女は、その手で何度も、「青葦」の感触を確かめては歓心をもらす。
意外と、滑らかそうに見えた青葦の表面は、ざらざらした、どこかはっきりと覚えのある感触が残った。
「そうですよね。まさか、食べる『パン』じゃないですよね……。実は、私、これと似たものを持っているんです。もっと、小さいですけど」
少女は軽くお礼をし、手に持った笛を丁重に返した。
すると、黄色の住民証を背中にどけ、自分のシャツの襟もとをぐいとつまむ。
そのまま少女は、自分の胸もとをのぞきこむように、首にかけられたひもをひっぱりだし、青い小さなものを取り出した。
大きさは笛吹のものよりだいぶ小さいが、彼の笛と同じような形状をする。
笛吹はその笛に、二重の大きな目を鋭く細めた。
「たしかに。小さいけれど、同じみたいです。めずらしいことがあるものですね!」
「まさか、こんな小さいものが楽器だったとは……でも、私のはきちんと鳴るんでしょうか?」
少女は、小さな自分の笛に思いっきり、息を吹きこんでみた。
けれども、息が漏れるばかりで、かすれた音しか出てこない。
彼女は、少し恥ずかしいのを照れ笑いで隠し、襟もとの隙間に小さな笛を放りこんだ。
「ところで、その笛は、どこで手に入れられたのですか?」
少女は、笛吹が首にかけなおした笛を指さす。彼は、その笛に手を触れた。
「あぁ。これは遠い、遠い、『東の国』です。国の名前は忘れてしまいましたが、青葦が生える土地柄だそうで、偶然、民芸品を売る露店で、ご好意でいただいたものです」
笛吹は手をかざし、眩しい空を見上げて眉をひそめた。
「『東の国』? 『青葦』ということは、私のも、そこで手に入れたものなのでしょうか? 私のはおそらく、父か母がくれたものなんですが、今まで、この笛の経緯を聞いたことがなかったもので」
「うーん……詳しいことは、ご両親に聞いてみたほうが。ただ、あなたはここの出身で?」
「ええ」
「それなら、この街のことですから、特別、手に入らないこともないかと」
「あぁ……たしかに。この街でなら……」
広場のテラスは、食事に勤しむ人たちでいっぱいだった。人もいれば、獣人や虫人も……、そこには相変わらず、姿形も違うさまざまな種族が集う。
この世界では、すべての種族をひと括りに、「生命魂」と呼んでいる。
そんな生命魂たちは、まだ昼だというのに、豪快に酒を飲みかわし、げらげらと笑う。
中には、まわりの迷惑を顧みない輩も見受けられる。
次から次へと運ばれる料理は、多国籍な風情で趣向を凝らし、どれも大皿に大盛りだった。
安くてうまくて種類も量も豊富。だから、中央広場のテラスには、こぞって数多くの庶民が集まってくる。
それもそのはず。
ヘイルハイムは、海も陸も交通網が発達し、東方と西方地域を結ぶ、「巨大中継都市」であり、食べ物はもちろん、世界のほとんどいっていいほど、多くの品物がここに集まる。
そして物々は、貨幣で交換されては、船やら、汽車やら、荷馬車やらが、せっせ、せっせと運びに運び、また散り散りになっていく。
だからここは、「世界の半分」などとよくいわれる。
だが、今は西方の物資が滞り、経済が混乱しているというのに、これだけ物に恵まれ、平和に豊かでいられるのは、どうにも不思議である。
思った以上に治安も悪くなく、今まで気にもしなかったが、この街のにぎやかさは、凪に苦しむ街の現状とは、到底に思えないのであった。
二人はしばらく、そんな街の様子を眺めていた。
しかしながら、いつまでもにぎやかな広場の雑音は、今の二人にとってどうでもよいことだった。