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19 記憶の杜(もり)①

 もう何度目の目覚めを迎えただろうか。

 少女は、心臓を掻きむしるように起きたせいか、胸の動悸は、異様に激しかった。

 胸の上には青いパァンの笛がある。彼女はもう一度、笛を服の下にしまいなおした。

 失くしてしまうのではないかと、不安に思ったからだ。


 少女は、意識がきちんとあることを確かめて、ベッドから足を床に出した。

 裸足に伝う、少しひんやりとした木の滑らかな感触。軽く明るい木色の風合いあるこの部屋は、首のうしろから朝陽が、薄いカーテン越しに差しこみ、やさしさをたたずまわせる。

 春の終わりといっても、山間のこの場所は、少し肌寒く感じる日もある。


 カーテンを勢いよくあけ、少女は、明るくなった机の上を整理する。

 学校で使う古ぼけた本を机上の本棚に並べる。紐で束ねられた「フィノノグ語」のノートがある。

 フィノノグ語は故郷の言葉だ。

 そのノートには、『フルート』の名が、幼い字で書かれていた。


 少女は過去へとやって来てしまったのだろうか。


 フルートの名は、父のつくる笛の名前でもあり、曾祖母の「大おばあちゃん」とも同じ名前である。

 大おばあちゃんにそっくりだという少女は、その美しい笛の音色のように、自由で軽やかに、またやさしく、伸びやかに育ってほしいという願いもこめられ、同じ名前をもらったのだ。


 大おばあちゃんは、少女にとって祖母のような人だった。

 彼女の実祖母は、父が十代の頃、病ですでに亡くなっていた。

 かわりに、長生きだった大おばあちゃんは、祖母のぶんまで、彼女のことをよくかわいがってくれたらしい。


 だが、少女は、そんな大おばあちゃんの顔も、声も、性格も、まったく覚えていない。

 長生きだった大おばあちゃんも、彼女が言葉を覚え、走りまわれるようになったとき、この世を去っていった。


 少女は、フィノノグ語のノートを古ぼけた本の隣に押しこんだ。

 窓際の壁には、カレンダーがかかっていた。

 終わっていったいくつもの昨日に、バツ印が書きこまれている。

 彼女は、机上のペン立てから万年筆を取る。

 その先から黒いインクを染みこませると、昨日にバツを入れた。


 今日は赤色の休日。

 余白の部分には、『野いちご狩り、8時』と書かれていた。

 時計はもう、朝の7時をまわっている。

 少女は先に着替えをすませ、スリッパを履き、慌ただしく階段を降りていった。

 顔を洗い終え、リビングへ向かうと、いつもより遅く起きてきた父が、欠伸あくびをしながら椅子に座っていた。


「おはよう……父さん」

「お……おはよう、『フルート』……」


 父は、昨日のことを気にかけているのか、よそよそしくマグカップに口をつけ、少女の様子をうかがいだした。

 台所からパンの焼けるにおいがする。

 母は焼きあがったパンをカゴに入れ、テーブルの上にドサッと置いた。


「おはよう、『フルート』! ちゃんと起きられたわね? 起こそうかどうか迷ったんだけど……今日はあれでしょ? お友達と遊びに行くんでしょ?」

「うん!」

「いいなぁ……父さんも、いっしょに行きたいなぁ……」

「だめよ! 女の子同士の楽しみなんだから。父さんとは、また今度」


 父はもの悲しく、情けない顔を浮かべる。

 母が、娘にふられた父を見てたまらず笑う。

 父がそれを見て笑う。

 ようやく、「フルート」も笑った。

 楽しくて、楽しくて笑った。

 家族がやっと出会えた。

 そんな気持ちがあふれていた。


 今日は、親友の「フィオ」といっしょに、家の裏の森にある「野いちご畑」と呼んでいる場所に行く約束をしていた。

 そこで、カゴいっぱいの野苺を摘み取り、「隠れ家」で特製の手作りジャムをつくろうと、学校で話をしていた。


 家の裏にある森は広大で、この土地を囲む、いくつかの山々へとなだらかにつづく。

 その森から山にかけての場所は、フルートの休日の庭だった。

 それと、山と森の中腹には、平らに切り開かれた小高い場所があり、一軒の古びた空き家がある。

 父が大人になるまで住んでいた古家だ。


 フルートは、そこを秘密の「隠れ家」に、気の知れた友達を集めて毎日のように遊んでいた。

 部屋に共同の本棚をつくって、本を持ち寄ったり、お菓子をつくって誕生会をしたり、森を探検してアスレチックをつくってみたり、親に内緒で、野良のイヌやネコを飼ってみたり……飽き足りないほどの思い出がそこにある。

 中でもフィオは、親友と呼べる大切な一人だった。


「はい! これはお昼のサンドウィッチ! お友達のぶんも入ってるから、仲良く分けなさい」

「はぁーい!」


 フルートは、蓋つきのバスケットを手に持たされた。

 彼女はそれをソファーの上に置くと、台所に向かった。

 何やら戸棚の中を漁りはじめたフルートを、母は不思議そうに見た。


「……何を探しているの?」

「イチマツ楓の樹液よ。今日はジャムをつくるのよ!」

「んん? 向こうのお家でつくるの? ふーん、なら右下の戸棚よ……そんなことより、あした着る服はちゃんと持ったの?」


 母の質問にフルートは手を止めた。

 〈あした着る服〉とはどういうことなのか。

 彼女は、しゃがみこんだまま、ぽかんと口をあけ、母を見上げた。

 母はすぐに、その様子を察したようだった。


「あなた、今日は泊まりに行くんでしょ? お友達のお家に?」


 今日は、フィオの家に泊まりに行く約束だったのか。

 フルートは首を傾げた。

 そのとき、玄関の扉を叩く音が天井に響いた。


「ごめんくださーい!」


 伸びやかな、女の子供の声がすると、玄関に近かった父が、その子を家のリビングへとおした。

 母は、フルートに急いで準備するよう言いつけると、足をパタパタさせてリビングへと向かう。


 フルートは、とりあえず母に言われたように、外泊するための服やら櫛やら手あたりしだい、荷物をリュックサックへと詰めこみ、急いで一階に舞い戻った。


 けれどもリビングには、フィオではない「女の子」がソファーのはしに座っていた。

 十を越えたぐらいの歳に見える彼女は、金色の髪を二つ縛りにし、甘い香りの漂うあたたかい飲み物を口にして、あざやかな青色の瞳をのぞかせる。

 女の子はフルートに、朝のあいさつをすると、にこやかに顔を緩めた。彼女はわけもわからず、あいさつを返す。


 母が赤い手さげをもって、リビングにやってきた。


「おばさま! 野イチゴの飲み物、ごちそうさまでした! とてもおいしかったです」

「そう! よかったわ! その野苺の飲み物は、うちのフルートと友達のフィオちゃんが、森で摘んで作ったジャムをお湯で溶いたものなのよ」


 母がフルートに目配せすると、彼女の頭は混乱して、しどろもどろになった。

 そんな彼女をよそに、女の子は、野苺の話に青目を丸くし、恨めしそうなため息を差し向ける。

 困惑したフルートは、とりあえず、今度いっしょに摘みに行こう、などと適当に調子をあわせてやりすごした。


「ねぇ? 向こうのお家でも、ジャムをつくるんでしょ? おばさんのところにも、一瓶ほしいなぁ……なんてね?」

「おいおい、あんまり無茶言うなよ」


 父が横から口を挟む。


「とかいって、あなただって欲しい癖に」


 母のじとっとした目に、父は目を泳がせた。


「えーと……そう言えばそうだったっけ? ウフフ! でも、安心してください! おばさんの家のぶんも、ちゃんとつくりますから」


 青目の女の子の返答に、父と母は歳がいなくはしゃいだ。


「フフフ……よく見ると、二人は色違いの双子みたいね……」

「たしかに、そうだな」


 父と母が二人を見比べて、顔を突きあわせて言った。

 同じくらいの背丈で、黒と金の髪をそれぞれ二つ縛りする二人は、琥珀こはくと青の瞳を互いに見あわせた。


(そんなに似ているのだろうか?)


 フルートにはわからなかった。


 母は、私にお小遣いを渡すと、女の子には、持っていた赤い手さげを渡した。

 赤い手さげの中には、女の子の家へのお土産が入っていた。


「いってらっしゃい!」

「気をつけて行くんだぞ!」


 両親に見送られて二人は家を出た。


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