18 「私」②
男の子の親切を思いながらも、私は、いざ扉を前にして緊張していた。
手には汗がにじむ。この先にいるのは、おそらく私の「家族」だろう。
(……よし!)
私は鈴をリンと鳴らし、扉をあけた。
とたん、玄関先にいた、顔の毛むくじゃらなガタイのいい「山男」が、私の肩に飛びついてきた。私は驚いて身体をこわばらせた。
「おーい! 心配したじゃないか! いつもより帰りが遅いから、どうかしたんじゃないかと思ったんだよ……」
山男は、泣きそうな目を擦った。
彼もまた、男の子と同じ、聞きなれない言葉を使う。
すると奥から、女の柔らかい声がのぞきだした。
「あなた。この子は今年で、十二になるのよ? もうじき、旅にも出さなきゃならないっていうのに、このくらいで心配してたら、毎日、部屋で泣いてることになるわよ?」
女は壁の縁の柱から、肩まで伸びた栗色の髪を斜めになびかせ、やさしい顔をしていた。
彼女もまた同じ言葉を使う。
「それより夕飯ができたから、二人ともはやく、手を洗ってらっしゃい!」
山男が手洗いうがいをすませたあと、私は洗面台に立った。
鏡には二つ縛りした黒髪が映る。
私は十一歳らしい。
もちもちとした白い肌は、たしかにまだあどけないものだった。
どうやらあの二人は夫婦で、私はこの家の子供のようだ。
私はおそらく、あの男の子といっしょの学校に通っていて、今、家に帰って来たということだろう。
ただ、少し気になるのは、もうじき私は〈旅に出される〉らしいということで、こんなまだ幼い、それも女の子をどこにやるというのか、不思議に思うのだった。
私は、母親らしき「栗色の髪の女」に指定されたソファーの上に、革鞄を置いて席に着いた。
目の前には、おそらくトマトとはどこか違う、赤みを帯びたスープが甘そうな湯気を立てる。
小皿にはパン、大皿には焼いた肉に茹でた人参にジャガイモ……少し離れてチーズの香ばしいにおいがする。
父親らしき山男は、薪ストーブの火で炙った固いチーズを、細長いナイフで私の大皿の上に薄く切り分けてくれた。
私はとりあえず、とろみのある赤いスープをすすってみる。
甘くておいしいかぼちゃの味がした。
と、二人は目をあわせて食事を止め、私に真剣な目を向けてたずねてきた。
「まぁ? 今日、何かあったの?」
「身体の具合が悪いんじゃないのか?」
私がいつもより遅く帰ってきたこともあってか、二人はとても私を心配した。
「とくには……。どうかしたの?」
「オマエが『あかかぼちゃ』のスープをすすって、喜ばない日なんて、今まで見たことがないぞ?」
「そうよ? まさか、あんまりおいしくなかったの?」
隣でブロンズの女が、相づちを打って心配そうにのぞいてくる。
「う、ううん! いつもどおり、おいしいよ!」
私は、二人の意見にあわせて愛想笑いした。
でも、はじめて聞く「あかかぼちゃ」のスープは、本当においしかった。
しかし、その後の食事中の会話は、ひどいというどころではなかった。
両親と私は、油の切れたブリキの機械人形のように、金属の摩擦音を発してちぐはぐなやりとりを繰り広げる。
そのうち、意見をつー、かー、で通わせていた両親も、私のせいでやぼったい口調になってくる。
互いが、互いの雲に触れようとするような、真意をふわふわと探りあう格好になり、奇妙な団欒が醸成された。
私はこれ以上、心配させたくなかった。
男の子の件もあったことだし、二人には、『学校ではしゃぎすぎて少し疲れたかも』と嘘をついて、笑ってその場を取り繕うことにした。
私の話を聞いた父は、何だか憔悴しきっていた。
母は、そんな父を見かねながら、リビングのソファーに置かれた革鞄を私に持たせた。
「二階に持っていきなさい。それと、今日は先にお風呂に入って、早く寝なさい」
「はーい!」
私は革鞄を持って二階に上がった。
廊下を隔てて部屋は三つある。
自分の部屋が、どこにあるのかわからなかったが、そこに行けば何かわかるかもしれない。
ところが、私は自分の部屋を見つけて入るなり、ベッドに突っ伏した。
フカフカの陽だまりのにおいがするベッドは、どっと、体中の皮膚を弛ませるほど疲れを受け止めてくれた。
それは、慣れない身体を無理に動かしてきたような、神経を擦り減らす疲労だった。
(そんなに急がなくてもいいか……)
ここは穏便に大人しく、時が訪れるのを待つほうがいい。
明日になれば、きっと何かを思い出すに違いない。
そうやって私は、陽だまりのフカフカのベッドで眠りに就く。
その日、私は「夢」を見た。
永遠のように遠く、久しい、誰かを眺めているかのような夢だった……
「――おいしい!」
小さな女の子はうれしそうに、何度もスープを口に運んでは舌鼓をした。
「やっぱり、かあさんのつくった、あかかぼちゃのスープは、1ばんね!」
「そう? それはよかった!」
女の子の母親は、うれしそうに照れ笑いするのを慌てて隠すかのように、テーブルの食器の位置を無駄に整理しなおしている。
「ハハハッ! そういえば、お前はこのスープが大好物だったな!」
その横で女の子の父親は、ナイフでパンを切り分けて、彼女の皿の上にポンッと乗せた。
「アッ! バターがないわ! ワタシ、取ってくるから。パンはしばらくおあずけよ!」
女の子は、思いつくが早く席から跳ぶように立った。
これを見た父親と母親は、口をそろえて、はい、はい、と笑って顔を見あわせた。
まもなく、女の子は足早に戻ってくると、両手で持ったバターをテーブルの中央に置いて席に着いた。女の子は軽く息を整え、胸の前で両掌をあわせると、対面する二人に目で合図を送った。
どこにでもあるような団欒。
女の子は何よりもこの瞬間を心地よさそうにしていた。
特別裕福そうではなかったが、父親がいて、母親がいて……。
夕食がすむと、いつものように父親は、暖炉の前の椅子に腰をかけ、自分でつくった「フルート」をよく吹くのだった。
その笛の音は、ふくよかに伸びやかで、包みこむようなあたたかい春風。
もうそろそろ、春が近づいて来るようだった。
それでも、父親の吹くフルートは、実に季節を繊細に、豊かに感じ取っては音色に乗せていく。
「かあさん、私、おてつだいする!」
女の子は、この笛の音を聴きながら、母親の夕食の後片づけを真似して手伝うのが好きなようだった。
もちろん、彼女はまだ小さいから、小皿を一枚ふいて抱きしめ、戸棚の近くまで持っていく程度である。
「おっ! いけない!」
父親は椅子から立ち上がり、階段の方へ向かおうとしていた。
女の子はそれに気づくと、
「どーしたの?」
と、小さな皿を両手で抱えながら父親にたずねた。
「あー。やらなければならない仕事が、まだあるのをすっかり忘れててね」
「ふうん。またフルートのふきかた、とうさんに、おしええてもらいたかったのに……」
「ごめん! 明日はちゃんと教えてあげられるから!」
「うん。わかった……やくそくよ!」
「あぁ! 約束だ!」
「それじゃー、おしごとがんばってね!」
女の子は、少し笑って手に持ったお皿を置きに戻っていく。
父親はしばらくその姿を眺め、やがて微笑ましく家の奥の工房へと入っていった。
後片づけも終わり、リビングもようやく落ち着いた。
母親は、少し大きめの木箱を持って、暖炉近くの広いソファーに腰を深く掛けた。
彼女は蝋燭に火をつけ、木箱を足もとに置いた。
中からいくつかの道具を取り出すと、ほつれて穴の開いた女の子の手袋を手に取って繕いはじめた。
ソファーでくつろいでいた女の子は、それに気づくと母親のうしろにまわってそっと抱き着いた。
「ちょっと、危ないじゃない」
「フフフフ」
女の子は母親に抱きついたまま、口を半開きにして彼女の繕う様子を眺めた。
あいてしまった穴は、たちまち小さくなり、綺麗に塞がっていく。
それは本当に不思議なことで、魔法をかけているみたいだった。
「どうしたの? そんなにじっと見て?」
母親は作業を進めながら、うしろからのぞく女の子の視線を、気配をそれとなく背中で感じ取ってそう言った。
「かあさんはスゴイ! おりょうりも、おさいほうも、おさらあらいだって……なんだってできる! なのに、ワタシは……」
女の子は母親から離れると、ソファーの脇から身を乗り出した。
母親はため息をつく。
彼女は、しだいに女の子が、うつむきかげんになっていくのを、言葉の雰囲気で感じ取ったようだった。
「きゅうに何を言ってるのよ? お料理やお裁縫だったら、父さんにだってできやしないわよ」
作業を休めることなく、母親は優しく笑みを浮かべていたが、
「とうさんだって! フルートがつくれるし、じょうずにもふける……このおうちをたてたのだって、とうさんでしょ? ワタシ、もっと、とうさんとかあさんをたすけられるようになりたい!」
と、女の子は真剣に言葉を言い放つのだった。
ようやく母親の手が止まった。
「いーい? たしかに今は、小さなお皿ぐらいしか運べないかもしれない……。でも、いつかもーっと、大きなものだって運べるようになれるし、お料理もお裁縫も、フルートだってつくれて、上手に吹けるようにもなる!」
女の子は納得しない表情を見せるが、母親はつづける。
「……じゃあ、『風の精霊』さんに、お願いしましょう!」
繕いかけの手袋をそっと置くと、母親は、首にぶらさげた小さな青い首飾りを取り出した。
そして女の子の手を取り、首飾りの上に重ねあわせるように両手をのせて、ゆっくり目を閉じた。
女の子もまねして目を閉じる。
【『フルート』が何でも、できるようになれますように……】
願いを言葉にこめ、母親はしばらく、女の子の手を握ったままでいた。
「……人は、生命魂は、生きものはみーんな、いつだって〈未来〉が、〈可能性〉が拓けているのよ。もちろん、あなたにだってあるわ」
母親は、うつむく女の子の頬を右手でなぞった。
「みらい? かのーせい? フゥゥ……」
女の子は目をあけると、口を蛸のようにすぼめた。
彼女は、琥珀色の瞳を輝かせて上へとやり、難しい顔をして、こめかみをトンとひとさし指で叩く……
(――フルート……そうだ……フルートだ……。私の名前は「フルート」――)




