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18 「私」①

 春の終わり。

 金色の点を散りばめ、色づきはじめた麦穂たちは、夕陽にさらされる。

 あたりを囲む山々は、若草を赤青く色づかせた。

 遠くでは小川が、せせらぎを織りこむように流れ、河原では、子供たちがにぎやかに遊ぶ。


「郷愁の芸術ノスタルジックアート」。

 長閑のどかで、牧歌的な夕暮れの風景は、感傷、懐古、終《えん》、そして、明日へのほのかな期待感……そういった時間を美しくうつろにさせる。


 私は、横広の大きな革鞄を背負い、あぜ道を歩く。

 それも、まだ水の引かれていない、空っぽの田んぼのほとりを、見知らぬ「男の子」のうしろをついてまわっていた。


 男の子は、茶色のつんつん頭で、同じ横広の革鞄を背負って闊歩かっぽする。

 彼は、私のことを知っているようだったが、いったい、いつどこで知りあったのだろうか。

 彼とは〈あのとき〉以来、一度も口をきいていない。


 〈あのとき〉、私は暗い、暗い闇の底に落ちていった。

 おそらく奈落の底だった。

 深海にゆっくり沈んでいくような気分の中、ふと、何か、ざわめきのような音を聞きつけ、気がついたときには、郷愁に満ちたこの場所にいた――




「――おい……おい……おいってばっ!」


 男の子が、茶色の髪をつんつんさせ、私を心配そうにのぞきこんでいた。

 聞きなれない言葉を話しているが、なぜかすうっと意味が入ってきた。


「どうしたんだ? 目ーあけたまま、ボーッとして」


 実に馴れ馴れしい口調で、男の子は言った。

 私には、いっさい見覚えのない顔だった。


「あれ? あなたは?」


 そう言って、思わず口に出た聞きなれない言葉に、私自身が驚いた。

 男の子はいぶかしい表情をする。


「はぁ? オマエ、何言ってんだ? 女のくせに、ケンカでも売ってんのか?」


 私は慌てて首を横にふり、すぐに誤解を解きはしたが、ぜんぜんに落ちることはなかった。

 こちらとしては、知らないものは知らないのだ。


「やっぱさっき、イヌに追われて倒れたとき、どっか、頭でもぶつけたんじゃね?」


 男の子は不思議そうに私を見る。

 私も不思議そうな顔をする。


 私は記憶がほとんどなかった。


 男の子は学校帰り、私が大きな野良犬に追いかけられているところに、ちょうど出くわしたと言った。

 はじめ、彼はおもしろがって、私をほったらかしにして眺めていたそうだが、私が何もない平坦な道で、きゅうに倒れこんだものだから、彼は血相を変えて助けに来てくれたらしい。


 そして大声をわめき散らし、背負っていた革鞄をふりまわし、男の子は勇猛果敢に、私から犬を追い払ってくれたそうなのだ。


「あぁ、そういえば、イヌに追いかけられたような気もするけど……どこも痛くない」

「ならいいけど……覚えてないのか?」

「……うん……」


 男の子は心配してくれたのか、頭を見せろ、とか、手足はどうだ、と言って、〈汚らわしい手〉で、私の身体を隈なく調べようとした。


 私は知りもしない、それも異性に身体を触れられるのを極端に恐れ、身を引いて嫌悪感を示した。

 彼は一瞬、驚いて全身を蒼白させた。

 ところが、彼は一気に頭の先まで血を沸騰させ、乱暴に前をふり向いて早足に歩きだすのだった――




――男の子は、青藍インディゴの短パンに手を突っこみ、白の長袖シャツを夕陽に赤く染めていた。


 私は悪いことをしたと思った。

 彼は、おそらく嘘つきではないだろうに。

 さらには、助けてもらって感謝もない私に、彼はずっと沈黙の中をつきまとわれ、さぞ、不愉快に思っていることだろう。


 でも、私には行く宛がなかった。ここがどこなのか、私には、ぜんぜんわからなかった。

 とはいえ、今さら、何かを聞きだすのは、彼を余計に怒らせてしまうだけになる。

 それでも、謝辞くらいはどうにか、述べておかなければならないと思った。


「あ、あの……ありがと……助けてくれて……」


 ようやく、ふり絞った私の声は、か細く震えていた。


「……フン! いまさら感謝かよ! おせーんだよ……ったく!……」


 しばらくして、男の子から返答があった。

 やっぱり怒っている。


「ごめんなさい!……傷つけるつもりはなかったの……」


 言葉の選択がよくなかったのか、男の子は、足を止めて大声で怒鳴った。


「オレだって、嫌だったんだかんな! オマエが倒れたりするから、しかたなく助けたんだし、ケガがないか、見たりしなきゃならなかったんだ!」


 男の子はそう言い残すと、畦道を駆けだした。

 私は慌てて彼のあとを追った。

 ついてくるな、と、何度も彼に罵声を浴びせられたが、私はそうするしかなかった。

 この夕暮れどきに、彼以外の私を知る人物を探すなんて、ほとんど望みはないだろう。

 できれば誤解も解きたかった。


「クソッ! ふざけやがって……」


 突きあたりのT字路で、男の子がきゅうに右に曲がった。


「じゃーな! 『ストーカー女』! イヌには、せいぜい気をつけろよ! この時期、アイツらはきょうぼうだって、オレの母さんが言ってたぜ!」


 男の子は前を走りながら、半身をねじって舌を出した。

 私もまた、突きあたりのT字路に差し掛かると、意をけして右に曲がった。

 彼はぎょっとして、足をもつれさせた。


「……っておいっ! なんでオレについてきやがる! オマエんち、あっちだろ?!」


 男の子は、むんずときびすを返した。

 私は、『あっち』と言われた方向をぼうっとふり返って、また男の子のほうに向きなおった。


 ついでに、子犬のように甘えた顔をしてみせた。


「おいおい……ついにおかしくなったか……」


 男の子が、はぁ、と両肩を脱力させた。


 陽はもう、ほとんど沈みかけ、山の稜線は、沈む陽光であか黒く縁とられていた。


 お互いの顔はもう、ほとんど見えなくなっている。

 男の子は、革鞄を背中から降ろし、ランタンを取り出した。

 彼は、しゃがんでマッチを擦り、火を灯してあたりを照らす。

 ほのかに揺れる灯りの中で、きゅうに彼はほくそ笑んだ。


「ふーん。さてはアレだな? オマエ、怖いんだろう?」


 手に持った灯りを、男の子は自分の顔に近づけ、気味の悪い顔を浮かべる。

 彼は私を脅かしたつもりなのだろうが、そうは思わなかった。

 私には、ただの間抜け面に人をちょっと見下したような、含み笑いを浮かべている程度にしか見えなかった。


「オマエ、『オバケ』きらいだもんな……」


 男の子は笑った。

 私は少し言い当てられて、かちんときたが、すぐに冷静になって考えなおしてみた。

 このまま〈怖いふり〉をしたほうが、私には都合がいいに決まっている。

 相手の溜飲もしずめられるし、何より、彼の言う『オマエんち』にまで、連れて行ってもらえるかもしれない。


(我ながら、姑息な手を思いつくな)


 私は心の隅で、そうつぶやいておいて、全力で〈怒り〉を食べた。


 あれから、男の子は始終、得意げになって、怖い話を私に繰り返す。

 その内容は、妖怪がどうとか、何とかおばけがどうとか。

 今度は、とつぜん静かになったと思うと、いきなり大声を出す力技も織り交ぜ、子供だましも甚だしかった。


 はじめのうちは、ワー、とか、キャー、とか、大げさに反応をしていたが、あまりの内容の薄さに、私もほとほと面倒になってきていた。

 男の子もようやく気づいたのか。

 私の反応の悪さに、口を明後日の方向に歪ませ、眉間を寄せる。


 実にわかりやすい。

 男は〈単純〉だ。

 しかし、この状況は芳しいものではなかった。

 せっかく、盛り返した男の子の機嫌も、こうやすやすと損ねてしまっては、私が誰なのか、この男の子も誰なのか、ここがどこなのか……もう、情報を探れるような雰囲気ではなくなっていた。


 策士、策に溺れる。

 私はもっと適当な会話をして、それとなく情報を聞きだすべきだったのだ。


 川沿いの、林の中の小さな集落に入ったところで、男の子がとつぜん足を止めた。

 そして、手元のランタンを下に向け、周囲の様子をうかがう。

 彼は、ぼそぼそこぼすようにしゃべった。


「……ここまで来れば……もう、平気だろ……」


 男の子は私に、あとは一人で帰るようほのめかす。

 私は、平気じゃない、と首をふる。

 外はすっかり陽も落ちた。


「……おい。家の人にでも見つかったら、変なウワサされるだろ? こんな時間まで、オマエなんかといっしょにいたなんて、学校のヤツラにでも知れたら、はずかしくてどこも行けやしねぇよ」

「……べつに、ウワサされたってワタシ、平気よ?」


 何の気なしに言い放った言葉だった。

 しかしながら、意外にも、男の子の顔はまっ赤に染まった。

 私の手に持つランタンの遠い灯り越しでも、はっきりとわかった。


 都合のいい私は、今度は男の子の手を強引に引っぱった。

 彼に、家の前まできちんと送るよう、けじめをつけてもらおうとしたのだ。


「約束は……きちんと守ったかんな!……」


 ログハウス風の家の庭門に着くと、男の子は身をかがめ、ささやく声に力をこめた。

 彼は口を真一文字に、ひとさし指をあて、抜き足、差し足と庭門から少しずつ離れていく。

 滑稽にも見える男の子の姿は、何だかかわいらしくもあった。


 私は、ありがとう、とささやき返して手を前にかざし、ぱくぱくとまたたかせて、ありったけの笑顔をふりまいた。

 そしてランタンを持って、玄関口までうしろ髪をふり乱し、男の子がこのあと、どんな表情をしているのかと想像すると、私は楽しくてしかたなかった。


 これが女の武器の一つ、「愛嬌」だ。

 女はこうして、身体の中の小悪魔をうまいこと飼い慣らして、立派な女性レディになっていく……


(いや、少しは反省しなきゃ)


 結局、あの男の子の名前はわからなかったが、何にしても、彼の不器用にも、実直な善意の施しには感謝しないといけない。

 感謝したなら、いつかきちんと善意を返さなければいけない……。


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