17 三拍子(ワルツ)②
少女の座りこんでいた床が、とつぜん生きもののように柔らかくなる。
そして、ピアノの鍵盤のように割れて沈みこむと、ふたたび、その鍵盤を上に押し戻して水しぶきを上げた。
水はなぜか、身体を突きとおしはしなかった。
(何?!……)
少女はまるで溺れたように、波打つ地面の手玉にとられ、あっという間に、螺旋階段のある縁際まで追いやられた。
かろうじて、片手でその縁につかまって抵抗したが、力なく滑り落ちていった。
螺旋に沈みいく奈落の底があった。
彼女はこのまま、空間に投げ出されると思った。
だが、円形の舞台上は、オセロをひっくり返したように反転した。
ちょうど空白ができた。少女は、うしろに手をついて座っていた。
ほんの一瞬のできごとで、理解がまったく追いつかない。正確には、彼女が舞台の真裏に滑り落ちて移動してきただけのようだった。
空白で一度止まったかに聞こえた演奏は、パーカッションのクラッシュシンバルと同時に再開する。
穏やかなピアノの分散和音と、四季を巡る間延びしたベースが、カチカチと刻む時の中をまわりはじめた。
ピアノの音に流れ、沈んでいく水の浸った表とは打って変わって、渇いた裏の舞台上は、その鍵盤の裏側に沿って床が押し上げられる。
すると少女はまた、縁へと追いやられそうになる。
少女は、慌てて態勢を立て直そうと、四肢を混んがらせて舞台上にしがみついた。
うしろまでの距離を測ろうと、彼女が目をやると、舞台の縁に前足をかけ、舌のだらしない三ツ頭の犬の獣が、鎖いっぱいに身を乗り出している。
セビィが、舞台の表側から裏をのぞきこんでいたのだ。
恐怖のあまり少女は、子犬のように這って走りだした。
彼女は反対側の舞台上の縁へたどり着くと、この場所からすぐにでも離れようと地面を蹴った。
しかし、歪む地面に足をとられ、目論見どおりにはいかず、彼女は表側の舞台上にふたたび不時着してしまった。
「あら? ちゃんと身体は動くんじゃない。仮病はダメよ?」
リンボーはウィンクすると、手からビリビリとやわな電気抵抗をピアノに加える。
とたんに、オルガンのような柔和な和音が鳴り響き、そこに、ゆったりとした子守唄の分散和音を重ねあわせた。
スパムは、時計の針音をスネアとハイハットで刻み、ブーは爪弾く弦で、忍び寄る意識の断絶を低くささやく。
舞台上は相変わらずうねり、少女をまた裏側へ引きこもうとする。
少女は休まず走りつづけた。同じような隆起した地面を、同じように乗り越え、同じ個所でつまずいて、また同じように後悔する。
「毎日、毎日ぃ。同じことの繰り返しぃ。ボクもそおぅ。だからぁ、お嬢さんの気持ち、よぉくわかるよぅ……」
スパムは、水面に漂う雲海を巻きこんで身体を浮かせた。
手もとのスティックは、機械のように細かく動きつづける。
上から、霞んで薄くなった雲か霧なのか、視界を暗ます気持ちの悪い大気が、少女に覆い被さってくる。
すると、少女はきゅうに、恐怖と不安の感情から、いらだちへと変わる。
彼女は、その腹に座る感情を上に向け、文句を言いたげに、手でがむしゃらに掻きわけだした。
「空に向かって唾を吐いても、かわいい顔が、惨めになるだけだぜ」
ブーは樹上で弦を爪弾き、抑えた指を滑らせては、少女を上から優しく見守っている。
彼女は、その出っぱった根に足をとられ、水面に転んだ。
顔も服も、水でびしゃびしゃだった。地面はまた大きくうねり、彼女の身体を水ごと押し出そうとする。
リンボーはせせら笑う。
「人は溺れて、はじめて水面の尊さと恐ろしさを知る。そこが〈生きる〉ことの臨界点」
リンボーは、悪夢を演出するかのように、妖しい指つきで、鍵盤から水しぶきを繰り返し巻き上げる。少女の口に水が入りこむ。
彼女は腹這いにさせられ、浅い水面にもかかわらず、顔を上げるのも難しくなっていた。
犬の激しく吠える声が、床を伝って少女の腹部に響いた。いつのまにかセビィが、表側の螺旋階段を下から駆けのぼり、鎖を軋ませている。
「さぁ、踊りなさい! この舞台上で! 繰り返される三拍子の日常と、純然な死の狭間で悩みながら……」
スパム、ブー、リンボーは、「白黒音楽の三拍子」を奏でつづけた。
やがて彼らは、楽器をともなって宙を彷徨い、三角形にまわりはじめた。
リンボーは気分を高揚させ、鍵盤上の指を滑らせ、勢いよく水を弾いて羽目を外す。
「おい! ちょっと待てリンボー! ピアノを走らせすぎだ!」
「うるさい! 指図するな! そもそも、ちやほやされる女は、大嫌いなのよ!」
ブーの静止に、リンボーは激情して立ち上がる。
彼女の手は狂気にかられ、鍵盤を食い気味に叩き殴る。
少女の体力も限界に近づいていた。
ブーが、彼女の様子を見て焦りだした。
「このままあんた、セビィの遊び相手になるつもり?」
リンボーが少女をあおる。
「門をくぐって、真実にたどり着きたければ、『鍵』を見つけなさい! 自分と向きあうための鍵を……」
リンボーの言葉に、少女は我を思い返した。
少女はかつて誰であったのか。
あのとき、まっくら闇の中で頭に浮かんだ、おぼろげな父や母、友達は、今知っているものたちとは少し違う。
彼女は、本当の両親を知っているのだろうか。
その両親は、彼女を何て呼んでいたのか。
あの笛の名前も少し気になりだしている。
だが、本当の自分に迫ろうとすればするほど、少女は、頭が割れそうに痛くなった。
得体の知れない自分と向きあうのが、怖くてしょうがなかったのだ。
そもそも「鍵」とは何だ。
モヘジの言っていた、「挫けぬ意志」と関係があるのか。
だいだい、少女に何の〈意志〉を持てというのか。
それとも、彼女にはまだ気づいていない、何かしらの目的でもあるのだろうか。
それは生きる意味なのか……それなら、目的なんて特にない。
もっとも、生きることそのものに、はっきりとした意味などありはしない。
結局、生きるなんていうのは、身体をめいっぱい使い、食べて、笑って……それでほとんどおしまいだ。
それ以上も、それ以下もない……。
(それで何が悪いの! 何が気に食わないの……)
少女は、この迷宮に来たことをひどく後悔した。
リンボーは、彼女の冴えない表情を汲み取ると、静かに語りかける。
「……『鍵』を見つけたくないなら、それでかまわない。あんたはここを追われ、ここでのことも忘れ、変わらぬ日常に戻っていくだけ……。もし、身体を捨てたいのなら、ここで『死の宣告』にかけてもらえばいい。あんたなら、犬も懐いていることだし、ここに残れるかもしれない……」
ついに、少女は水の流れに飲まれた。
面倒な身体など、もう捨ててもいいと思ったからだ。
しかしながら、少女はなぜか、顔をくしゃくしゃにするほど強く目を閉じ、胸の上に両手を重ねて悲しみに締めつけられている。
ピアノが、コントラバスとパーカッションのリズムを勝手に巻きこんだ。
舞台上の水が、だんだんと渦を巻きはじめ、少女の身体を旋回させた。
「早いよぅ! 早いよぅ!」
顔をまっ赤にしたスパムの腕が、ちぎれそうに大回転する。
少女は渦にもまれ、手足を投げ出して意識を失った。
たまらず、ブーがコントラバスを放り出し、彼女に駆け寄った。
スパムもあとにつづく。
セビィが喚いた。
演奏が消失するように途切れてしまった。
渦が消え、波打つ床もおさまり、浅い水面は、上下に揺れて残響の余韻に浸る。
少女は、その浅瀬と木の根っこのあいだで、うたた寝でもするかのように横たわっていた。
ブーは、憔悴しきって、透きとおった彼女の身体を抱き起こし、木の根元の上へと引き上げていく。
彼は、少女の呼吸を確認して、安堵のため息をつく。
少女は眠っているようだった。
「おいおい! リンボー! 気合が入りすぎてやしねぇか?!」
ブーは、険しい表情を垣間見せ、大声でリンボーを咎めた。
リンボーはめずらしく、暗い顔で弱々しくうつむいた。
「……ちょっと、やりすぎたかしら。まさか、こんなところで眠りに就くなんて……」
リンボーは、ピアノから離れて前に立った。
「もう少し、やさしくしてやったらどうだ? どんなに気に食わなくったってな」
「しかたないでしょっ! これも私たちの仕事よ?……そもそもあんた、私の性格を知ってるでしょ? やさしくしたくってもさ……」
少女を見つめるリンボーの姿は、懐かしいセピア色を彷彿させた。
「……何だかこの子、昔の私にどこか似てるのよ……」
リンボーは、そのまま黙りこんで、やつれたように立ち尽くす。
スパムとブーはそんな彼女を直視できなかった。
ようやく、ブーが恥ずかしそうに、鼻の下を手で擦り、リンボーへ言葉をかけた。
「なぁ、リンボー……ここに来るやつぁ、みーんなどっかしら、俺たちと似てるもんなんだぜ……」
ブーは、照れくさそうに笑う。
隣にいたスパムは、水に濡れた少女をやさしく抱き上げ、門の前へと運ぶ。
彼は、ゆっくり腰をかがめると、門柱に彼女を寄りかからせ、光のそそぐほうへ、その身体を向けてやった。
「本当ならぁ、ふかふかのベッドにぃ、寝かせたいんだけどなぁ……。身体を乾かさなくちゃだからぁ、しかたないよねぇ?」
スパムは少し残念がった。
リンボーは目を閉じてうなずく。
そして、門扉の縁にもたれて眠る、少女のもとへと歩み寄っていく。
彼女は、近くにいたスパムを追い払うと、おもむろに手で衝立をつくり、ついでに大きなバスタオルと、少女の着ていたものと同じ服を用意した。
「お前ら、のぞいたら、ただじゃすまないよ?」
リンボーは一度、二人をにらみつけてから、バスタオルで少女の身体をふき、丁寧に服を着せる。
彼女は最後に、その手で毛布をつくり、そっと少女の肩にかけた。
その顔は小さく微笑みを浮かべる。
はじめて見せる、リンボーのやさしい目だった。
少女は門柱に背中をもたれ、光にあおられながら深い寝息を立てている。
純粋な眠り。
白い光にあたる無垢な顔は非常に潔癖で、陰影などけしてつくりはしない。
なぜなら、真上から差しこむ光に、わざわざ無駄な影をつくる理由などないのだから。




