16 スパム・ブー・リンボー②
リンボーは、テーブルの前へ行くと、おもむろに指先で空を切った。
とたんに、無色透明な小さな椅子の像が一つ、彼女の前で宙に浮かび上がる。
これをさらに、両手でひっぱるようにして適当な大きさにすると、じょじょに色づきはじめ、木製の椅子が一つできあがった。
彼女は、これをもう一つ用意し、テーブルの椅子に追加した。
テーブルクロス、皿、ナイフ、フォーク……食卓を囲む道具が、次々と「手」によって創造されていく。
スパムはいつのまにか、きざんだ野菜たちを大きなボウルに盛りつけ、テーブルの中央に置いた。
見かけによらず、器用な彼は、次に細かな前菜をきれいにプレートに並べ、熱いポタージュをスープ皿に入れる。
ブーが口笛を吹いて、酒と甘いジュースを持ってきた。
「さあ、どうぞ召し上がれ」
リンボーが、焼きたてのパンをカゴに入れた。
少女たちは、困惑気味に席に着いた。
ブーが、少女たちのグラスに飲み物を注ぐ。
「ここでは、自分で思い描いたものが実体化するの……」
リンボーが言った。
「ヘヘッ! まあ、驚かずにはいられねぇよな!」
飲み物をつぎ終えたブーは、どっかり椅子に座ると、さっそくパンを食いちぎる。
パンは何回も噛まれないうちに、喉もとの皮膚を生々しく押し上げると、今度は適当につがれた赤ワインに、ぐいと押しこまれ、塊のまま腹の中に収まっていった。
ブーは、まるで生き返ったように、安堵の息をつく。
少女はそれを不思議そうにずっと見ていた。
「なんだ? まさか俺に惚れたのか?」
そう言ってブーは、空のグラスを傾ける。
少女はしばらく、下手にきざをふるまう彼をぼんやり眺めていたが、きゅうに下をうつむいて暗くなった。
「あ、いやいや! 今のは冗談だ……ハハッ……」
冷や汗を浮かべるブーの隣で、リンボーがクスクス笑う。
ブーは、リンボーにあたり散らした。
「元気がぁ、ないよぅ?」
スパムが、口のまわりを肉汁でいっぱいにし、少女に言った。
「……まぁ、いろいろあったようです」
パァンが、オリーブの酢漬けを口に運ぶ。
リンボーが少女に舌打ちをした。
彼女はちぎったパンを口に入れ、指をこすって、膝上のナプキンにパンくずを落とす。
「湿気た顔をして……隣をごらんなさい!」
リンボーが首で指図する。
その先には、ナプキンを首につけた二匹のネコが、器用にナイフとフォークを使って料理を食べている。
彼らの前には、テーブルの上にもう一つ小さなテーブルが置かれ、小さな食器に、食べやすく切り分けた料理が盛りつけてある。
痩せぎすのブーが、楽しそうに面倒を見ていて、二匹は喧嘩もなくわいわいとやっていた。
少女は、リンボーに仕向けられるがまま、ネコたちを眺めていた。
すると、彼らは少女の視線に気がつき、向こうからやってきた。
「かぼちゃん、どうしたの? たべないの?」
「……たべないの?」
にゃーとみゅーみゅーはめずらしく、気を落とす少女を心配そうに見つめていた。
重たい空気がはびこると、リンボーがすかさず掻き消しに入った。
「ほら、食べなさい? 食べなきゃ力も出やしないわ!」
リンボーに言われ、少女はスープを口にした。
クリーム色のポタージュは、無味無臭で、食感も喉越しも特にない。
水のようなその液体は、彼女の喉もとをかんたんに素通りしていった。
彼女はスプーンを静かに置く。身体が、食べ物を受けつけていない。
「どうかしたのかしら? お口にあわない? うちのコーンポタージュは……」
なぜか、リンボーは不敵に笑う。
「いえ……べつに……」
ようやく一言を発したかと思うと、少女はすぐに表情を曇らせた。
スパムとブーはすかさず、果物やらデザートやら、花や宝石まで、女性の好みそうなものをいろいろ手からつくりだし、彼女の気分を盛り上げようとするが、少女は余計に黙りこんでしまった。
パァンは、隣に座る少女を静かに見守り、一度長くまばたきをすると、飲みかけていたスープをすすりだした。
「……あれ? そういえば、『トウモロコシのポタージュ』でしたか? 僕は、てっきり『ジャガイモ』かと」
パァンは、リンボーに述べた。
「あら? そんな味だった? 《《食べる人によって》》は、受け取り方も違うものなのかしらね……」
リンボーは、グラスに入った赤ワインを揺らし、つまらなそうにする。
「ところでここはいったい? ネコたちは、ここを『夢』の世界だと言うんですが」
パァンが本題を切りだした。
「『夢』? まぁ、巷では、そんなふうに呼ばれてるところかしら……。ここは『深層の門』。〈生命の懐〉のような場所」
「〈生命の懐〉……それは?」
パァンがリンボーに聞き返す。
「魂の集まる場所。意識の集まる場所。心の集まる場所……その境界がここ」
「なるほど……」
パァンはそう言うと、指で釣竿を宙に描いてつくりだす。
彼はその先に、余った鶏肉をちぎって巻きつけ、指で弾いて頭上高く飛ばした。
空間を泳ぐ魚の群れと、戯れていたネコたちが、鶏肉を追う魚を追い、放りだされた釣竿につられて行った。
リンボーが苦々しい顔で、一部始終を眺めていた。
パァンは紫水晶の瞳を紅くする。
「……それで、この『深層の門』では、いったい何を試されるんですか? 知識? 精神? それとも?」
「ふん! 知っておいて……これだから『悟り人』は! 本当に腹が立つ!……ここでは、迷いこんだ生命の今後を占うのよ」
リンボーは少しいらいらしている。
「出口は?」
「それはすぐにわかるでしょう! 『悟り人』さん?! さぁ、もういいでしょう?」
パァンは一度目を閉じ、大きく見開いた。
「……最後に一つだけ。『ご主人様』というのは、迷宮の……?」
「んん? あんたそれって、あの『囚人』のことを言ってるのかしら? フッ、フフフ。アハハハッ! 違う、違う! うちの『ご主人様』は、もっと高尚な御方よ」
リンボーは甲高い声で笑った。
「囚人?」
パァンは眉を顰めて、あごに手をやる。
「あの、変てこな宮殿に、ずっと閉じこもってる偏屈な奴だから、そう呼んでるってだけのことよ」
ブーが、楊枝をくわえながら脇から言ってきた。
「ここに迷いこんだ僕らは、その高尚な『ご主人様』の占いを受けるということですか……」
パァンは、透きとおる淡い紫色の瞳を取り戻したかと思うと、すぐに灰色に曇らせた。
リンボーは神妙な顔つきをする。
「……いいえ。今後の占いをくだすのは本人。私らは、そのきっかけを与える審官の役目。そして『ご主人様』はおもに、自らその占いをくだしたものたちに、『巣箱』を提供したりするのよ。この上か下かもわからない、螺旋状の階段のまわりに……」
舞台上の床のまん中を貫く支柱を中心には、階段が、暗闇に浮かび上がるように規則正しく並んでいる。
その底のほうか、または上のほうなのか、目をよく凝らすと、大小さまざまの飴玉のような淡い光が、重なりあうように不規則に明滅する。
淡い光は燈っては消え、燈っては消えていく。
赤、黄、緑など多彩な色を、まるで夜のパレードで眺めた花火のように、光の点画を放っては暗闇に滅されていく。
「上が天国とか、下が地獄だとか、よくそんな話を聞くんだけど、私らにはよくわからないことだわ……」
リンボーは、それ以上の口を噤んだ。
たしかに、この漆黒の空間をまわりつづける浮遊体は、傍から見れば、上も下もない。
こうして地に足をつけ、ようやくはじめて、上と下がどちらなのかがわかる。
所詮、天国だとか、地獄だとか、そんなものは、大地から空を見上げてばかりいる、生命の戯言にすぎないのかもしれない。




