15 夢の淵②
「いい返事! まるで『ラッパ』だ! ハハッ!」
「かぼちゃん、『らっぱっぱ』だね!」
「『らっぱっぱ』!」
少女はバツの悪い顔をする。
パァンはカラカラ笑い、ネコたちは吹きまねをする。
「……でも、どうしてここに?」
少女が言うと、パァンは帽子に手をやり、二匹のネコといっしょにまいった表情をする。
パァンは偶然、中庭でネコたちと会い、例の青目の少女に『鏡の森』の場所を教わったのだった。
彼女には、そこを抜ければ真実はもうすぐだ、と言われていたが、そもそも円柱型の中庭の中央を突っ切ってみたところで、何も変わらないことに彼らはすぐに気づいた。
そこでパァンたちは、何か仕掛けがあるのだろうと考え、あの広い森を隈なく探しまわっていたところ、まさかの「霧」に遭遇したのだった。
「『霧』?」
「あぁ。また、例の『悪魔の霧』さ。それで逃げられなくなって、気がついたら〈ここ〉。おまけに君が、蛻の殻で、寝そべってたのさ」
「わーい! もぬけのけー?!」
「もぬけのけー?!」
ネコたちが、上からのぞいてはやし立てる。
少女は、見られてはいけない姿を晒したと思い、恥ずかしくなった。
「で、でも、みんな無事だったのね」
「まぁ……なんとか」
苦笑するパァンに、二匹のネコは、かわいいお目々をぱちくりさせている。
「そうそう! 『主』の悪戯には遭わなかった? 私、ひどい目に遭ったんだから!」
「悪戯? 特には。普通の迷路をただ普通に……ネコたちはどう?」
二匹は首をひねる。
パァンは両手を広げた。
少女は小さな怒りを眉間に集めた。
どうやら自分だけが、被害に遭ったようだった。
「あぁ! そういえば、その青い瞳のお嬢さんは、ここにいなかった? あと、褐色肌の少年の人とか?」
「いや……いなかったと思うけど? 褐色肌の少年?」
「それと、旅行鞄も見つけたんだけど……ない、よね……」
少女はあたりをざっと目で調べ、今度は自分の手足、身体を確認すると、青目の少女に借りた服のままであることに気づいた。
彼女は何が何だかわからず、中庭での出来事の整理が追いつかなかった。
パァンはそんな彼女を見て、鼻先を親指とひとさし指でつかむようにこすり、息を一つついた。
「……何だか、中庭でいろいろあったみたいだね」
少女は胸に手をあて、小さく返事した。
あたりは静寂に奪われていく。
パァンと少女とネコ二匹。
彼らは、ほかには何もない、まっ暗な空間をただ漂う。
今さらながらよくよく見ると、手、足が透け、暗闇の底がどこまでもつづいているようだった。
おそらく服で隠れた身体の部分も透けている。
まるで、水と油とが完全に混ざりあわないように、身体の稜線と暗闇の黒とは、うまいこと棲み分けられ、少女はふわふわと浮かぶような心地がした。
「……ねぇ、ここは、いったいどこなの? 身体がうまく動かせないんだけど」
少女は、ふらふらよろけながら、パァンの肩にしがみついて止まろうとした。
けれども、その手は、あのときの青目の少女のようにすり抜けていった。
あてを失った少女は、くるくると身体を回転させ、パァンたちのいる上のほうへ昇って行ってしまう。
パァンが、手に持ったポンサックを投げ出すように、少女へ差しのべた。
彼女は藁をもすがる思いで、必死に飛びつくと、革の感触を手に捉えて上昇する身体を止めた。
ポンサックは身体と違って、はっきりとした実体を持っているようだった。
身体はだめなのに、ほかの物には触れられるとでもいうのか。
「俺にもよくわからないけど、ここは『夢』の世界らしい。なぁ、ネコ?」
「しょうだよ! だから、からだはあって、ないようなもの」
にゃーはそういって、くるりとまわって飛び出すと、勢いよく少女の身体を突き抜けた。
身体を回転させ、驚いて目をつぶる少女を見て、みゅーみゅーが笑っている。
「ちょっと! いじわるしないで助けてよぅ!」
「からだがあっても、たすけられないとおもう……」
みゅーみゅーが指をくわえて、少女の様子をうかがっている。
「ハハハッ、そりゃそうだ! まぁとにかく、水の中をイメージすればいいんだよ。ほら、泳ぐようにしてさ」
パァンは、水を掻くように両手を交互にまわし、足をばたつかせて空間を泳いでみせた。
隣でネコたちが、ちゃかすように飛びかう。少女は悔しくてたまらなかった。
「おっ? だいぶ、ましになったんじゃないか?」
手足を器用にはためかせ、やっと少女は、海月のようにではあるが、空間を漂い、移動できるまでになった。
ネコたちはすかさずまねをして、そのあとを追っていく。
彼女のブラウスは膨らみ、裾がはためいていた。
少女は球体をつくり出すように、縦へ横へとまわった。
頭と足先を筆先にして、八の字をゆっくり描く。
そこに上も下もわからない。もちろん右も左もわからない。
ただ、まっ暗な空間はだだっ広く、漆黒の闇のほかに何もない。
まるで、星空のない夜空に迷いこんだようだった。
「じゃあ、そろそろどこかに移動してみよう」
「えっ?! どこへ行くっていうの? 〈目印〉も何もないじゃない」
「だからって、ずっとここで漂流でもするのか? 海月にでもなったつもりで?」
少し不満げな態度を少女は取り、パァンのもとへ泳ぎ寄った。
「まぁ、君の不安もわかるけど……ここは勇気を持って」
少女はしぶしぶ了承した。
「よし! じゃあここは、ネコの〈鼻〉にでも期待してみようか? どうだろう?」
すばやく耳を反応させたネコたちは、ぐにゃぐにゃのしっぽをぴんと持ち上げ、さっそく鼻をくんくんさせる。
彼らは、いつになく真剣な目つきで、あたりを嗅ぎまわっている。
「ふーん……ちきん?」
みゅーみゅーがつぶやいた。
にゃーが彼をのぞきこむ。
「ふーん……ろーしゅと……ちきん?」
二匹のネコが、尖った小さな牙を見せあう。
それだ、それだ、とネコたちは涎を垂らし、目的のありかへと急ごうとする。パァンはすかさず釘を刺した。
「おいおい! もしかしたら、《《腹をすかせた》》『バケモノ』が、でっかい鳥を捕まえて、丸焼きにしてるのかもしれないぞ? そんなに急いで行くと、おまえたちも……」
黙って戻ってくるネコたちを連れ、少女たちは空間を泳ぎはじめた。
暗闇はどこまでもつづいている。永遠とはこのことを言うのか。
深海にだって、底はあるというのに、ここには底があるようで何もわからない。
もしかしたら輪廻のように、このまっ暗な空間をまわりつづけ、いっこうに抜けだせずにいるのかもしれない。
「ねぇ……。私、まだ名前を教えてなかったよね」
両脇にいるパァンと二匹のネコが、黙って彼女をのぞきこむ。
「あぁ。そういえば……まだ聞いてなかった」
パァンの、紫水晶の瞳が霞んで見えた。
「あひゃ? 『かぼちゃん』じゃないの?」
「じゃないの?」
二匹のネコが、互いに顔をあわせて言うと、困った顔で少女を見返す。
「『かぼちゃん』は、ネコがつけてくれた、特別なお名前でしょ? あちらの笛吹旅人さんの『ふえふきん』みたいに」
ネコたちは、パァンと少女を見比べ、目を大きな丸にしてまばたきをする。
少女は、二匹に悲しそうな微笑みを返した。
「……私は、『グーシャ』。『グーシャ=ニセナ』……」
いつのことだったか、はっきりとはわからない。
ただ、少女はまっ白で何もない狭い部屋に、一人でいたのをおぼろげに覚えている。
ある日、そこへ「コップス」とその妻「ジーニ」が彼女を迎えにきた。「ニセナ」は、彼ら夫妻の苗字である。
「グーシャ」。
それは名前もなかった少女に、夫妻が頭を悩ませてつけてくれた大切な名前だった。
にもかかわらず、思い出せなかったことはおろか、違和感すら覚えた自分自身に、少女はひどく失望していた。
愛着がないわけがない。
「グーシャ」は、本当に心のやさしい、あたたかい両親と同じ、「ニセナ」の性を授かった家族なのだから。
でも少女は、そんな大切な名前を、他者から呼ばれた記憶があまりない。
近所の生命魂や、雑貨店の従業員たちが、「嬢ちゃん」などと呼ぶのはしかたないかもしれない。
ところがニセナ夫妻にいたっては、「おーい」とか、「おまえ」とかばかり、少女のことを呼ぶのである。
しかし、それは、二人に愛情がなかったというわけではない。
なんせコップスは、少女にめっぽう甘い。
それは、少女が微笑めば、何でも欲しいものは買い与えてしまうほどの溺愛ぶりで、特に、彼女の誕生日――はじめて夫妻の家に招かれた日――に行うパーティーは、まわりがあきれるほどの心血をそそぐ。
ジーニは、前にも述べたように、筋金入りの心配性であるから、諸事情で離れて暮らす少女を気にかけ、毎朝、ポストに言伝を入れては返信を待ち侘び、ときどき手料理を差し入れたりもする。
そして彼女は何より、少女が実家を訪れたとき、いっしょにお菓子づくりをするのが何よりの楽しみだった。
愛情の形はちょっと歪かもしれない。
でも、彼らは紛れもなく父親であり、母親であり、少女も娘のように彼らを慕っていた。
そう考えれば、むしろ名前を呼ばないのは、すでに彼女がニセナ夫妻にとって〈あたり前の存在〉であったからに違いない。
そのあたり前の慣れあいこそが、実は一番、家族愛に満ちあふれているのだ。
(〈あたり前の存在〉……)
少女は、ニセナ夫妻との思い出をそことなく噛みしめながら、不思議と今まで考えもしなかった疑問を持ちはじめていた。
(自分はいったい誰なのか――)
コップスは笛を吹いたりはしない。
ジーニは好んで歌をうたったりはしない。
この街に麦畑はないし、ここの学校に通い、ここに同い年の友達なんていただろうか……あの思い出と辻褄があわない……
「……そう。私は『グーシャ』っていうの。私にも、きちんとした名前があるのよ。でもね……でも、私の中にはもう一人……知らない自分がいる……」




