1 はじまりの休日①
部屋の中はすでに薄陽がたちこもり、もやもやと、シフォンのような少女の浅い眠りを妨げはじめている。
いいかげん、その寝苦しさに嫌気がさすと、彼女はベッドから跳ね起きた。
腰まで伸びた長い黒髪をかき上げ、枕もとの木製の丸い置き時計を手に取る。
16か、17か……。
若やかな少女は、しばらくむっとしながら、時計の針を眺めていた。
いつもより目覚めは早い。
彼女は時計を無造作に元ある場所へ戻すと、すぐに立ち上がり、近くの出窓をあけた。
もうじき、春も終わりが近づいていた。
澄みきった青空は音もなく、まだあどけなさが残る、少女の琥珀色の瞳には、どこか寂しげに映った。
「そよ風くらい、吹き差したっていいのに」
かわりに、少女は溜め息を吹いてみる。
少女は今、「ヘイルハイム」のとあるアパートの一室を借り、そこに一人で暮らしている。
貿易で有名なこの街は、春先から夏にかけ、西からの季節風が強く吹くのだった。
そのため、毎年この時期になると、西方の国々からたくさんの物資が、船を使って流入してくる。
「今日のところは、どうかな?」
ぼんやりと、出窓から海が見える。気の遠くなるほど、静かな海だった。
近年、各地で異常気象が起こり、この街もかつてないほどの原因不明の「凪」に直面していた。
通常、この地域での凪は、朝と夕のほんの一時的なものであった。
しかしながら、今年は春の嵐も現れず、その状態はすでに数週間にも及んでいる。
蒸気船があればというものの、圧倒的に数が少ないばかりか、実用性にもまだ乏しく、問題解決の糸口はつかめなかった。
したがって、西方からの貿易船はその大半が、この時期あまり使われない、東に向かう海流に乗るはめとなり、大幅な遅延が出ていた。
少女が手伝う、両親の経営する雑貨店もまた、この時期に必要な商品をほとんど仕入れられないでいる。
すると、街じゅうの宿は、商人や観光客でごった返し、治安は悪くなりつつあった。
「さぁて、と」
少女は気を取りなおし、いつものように、玄関口の郵便受けをあけに行く。
そこには、母親からのメモ書きが、今日もきちんと入っていた。
今日は火曜。
メモの日付には赤丸。
裏返すと、いつものように、母の言伝が添えられていた。
『Why don’t you go to the city center today? from mom(今日は、街なかにでも出かけてみたら? ママより)』
かすかに頬を緩ませ笑窪をつくると、少女はすぐに朝の準備にとりかかった。
少女の母は、筋金入りの心配性だ。
彼女は毎朝早く、日捲りカレンダーを破っては、少女宛にメモ書きを添え、部屋のポストに投函しに来るほどの症状である。
それでも、毎朝、玄関扉を叩いて呼び起こしに来ていたときよりも、かなりましになったのだ。
メモ書きは読んだあと、必ず、一日の終わりに少女のメッセージを添え、ほとんどは伝書鳩にまかせて返信する。
彼女は実家に用事がないかぎり、自分で直接持っていくことは控えていた。
これも、母の子離れのためである。
はじめは少女も、母の心配性には、ずいぶんと悩まされたものだった。
ところが、今では一人暮らしにも慣れ、あんなに面倒だった母の言伝も、ちょっとした楽しみとなっている。
慣れとは恐ろしい。
母からの言伝を見て少女は、しばらく考えこんだ。
顔をもたげたり、今度はうつむいたと思えば、くるくるまわってみたり。
ぶつぶつ言葉をつぶやいては、あたりをうろつく。
やがて、〈名案〉を思いついた。
少女はベッドの上の、淡い緑の掛け布団を整えると、うきうきと洗面所に向かって走っていった。
手際よく顔を洗い、ちゃっちゃと身支度をすませる。
うれしくて、うれしくてたまらなかった。
今日は休日。
といっても、店自体がほとんど休業状態で、何とも言えないのが本音である。
だが、今日は前から決めていた、少女の待ち遠しい休暇であった。
「財布は持った。『黄色の住民証』も、化粧ポーチも……あっ! いけないっ!」
出窓のあけっ放しに気づくと、少女は、玄関に横広のランドセルを煩雑に置き、急いで部屋に戻る。
彼女は、窓を閉めようと身を乗り出すと、遠くの「中央通り」で、慌ただしく、またたきだした光を見つけた。
それは、中央通りの正門付近で交通整理をする、大きな「点灯虫」であった。
彼らは、赤、黄、青色、そして何より、虹色の派手な点灯虫――「ご機嫌取り」――の4匹で、せわしく通りの上を飛びまわり、丸い身体いっぱいに光を明滅させている。
少女はその光景にし、肩を大きく落とした。
この街は、海路だけでなく、大陸を縦と横に通断する二本の「大貿易道」がある。
それらは、街を中心に十字をつくるように交わり、長い陸路の中継地点になっていた。
大貿易道は主に、その内陸部の商人や旅行者が、馬車を率いてたくさん訪れてくる。
つまり、風が吹かず、船がいつもどおり動かない最近では、街の混乱の拡大を避けるために、点灯虫が、毎日の交通整理に加え、利用者の不満をなだめ、退屈をさせないように奔走しているのだった。
肝心の正門付近では、我慢して待つ者、やむを得ず引き返す者、特別に入場を許可されたものなど……。
人や馬車の流れが点灯虫の様子で、少女の遠巻きからでも何となく察せられる。
おそらく風は、今日もからっきし吹いていない。
少女は頭を掻きむしった。
「もー! あんなに混んでちゃ、せっかくの休みがだいなしじゃない!」
少女は、また独りごちると、出窓を勢いよく閉めて玄関へ急いだ。
彼女は、少しでも気分をよくしようと、お気に入りの明るい茶色のブーティに足を入れ、ひもをきつく締めた。
そして靴と同じ色の、洒落た横広のランドセルを勢いよく背負い、姿見で、卸したての白のロングスカートの位置をなおす。
最後に、黄色の住民証を首に下げ、水色の長そでブラウスの襟もとを正してから、髪を手櫛で整える。
「よし!」
少女は扉の取手に指をかけた。
いつもどおり、立てつけの悪い扉は動かない。
今日もあれこれ考えては、結局こうするほかないのか。
彼女はいつものごとく、両手で扉の取手を持ち上げ、肩で体重をかけるように身体を押し出した。
扉は、重い脚をズルズル引きずって鈍くあいた。
「いってきます」
毎朝、呪文のように放たれる、出立の言葉に、返事などありはしない。
少女は足の爪先で、つかえた扉の下を無理に蹴押しこむと、不器用な鍵締めをした。
彼女は、いつになっても鍵締めに慣れないでいる。