9 悪戯の矛先②
広間の中央には、大きな額縁に入った迷宮の概観を示す地図が置かれていた。
地図によると、この広間はほぼ中央に位置し、〈白色の三角印〉で囲まれ、そこから北側にある〈橙色の星印〉とイコールで結ばれていた。
またその中央から、東北の遠い位置に〈青〉、南東方向に〈赤〉。
さらにまた北西の遠い位置に、〈黄〉の色で描かれた三つの部屋が〈丸印〉で囲まれ、西南には一つ、〈緑色のバツ印〉が図示される。
だが、そこに至るまでの通路は、地図上にはまったく描かれていなかった。
実際に周囲を見渡してみると、入り組んだ通路が広間からいくつも伸びており、細かい枝のように張り巡らされている。
少女は面倒に感じた。
しかもアルが言うに、地図に描かれた位置や通路は、迷宮内に入るたびに無秩序で変化するという。
だから、地図の大まかな位置を頭に入れ、通路をしらみ潰しにあたって、〈目印〉を探さなければならない、とも彼は言った。
「〈目印〉?」
「迷子にならない目安ですよ。目印を起点に迷路を網羅するんです。詳しいことは追って説明します。さぁ、いきましょう! 主の邪魔が入ったら、面倒ですから」
「え、ええ。そうですね」
アルを水先案内人に、少女はうしろをついてまわった。
入り組んだ通路をしらみ潰しに、ずいぶん歩いてきたが、何度も壁に突きあたっては同じような道をまわりつづけている。
壁……どこまでも石の壁――
迷宮は、厚く固い殻におおわれた、卵の内壁のようだった。
それも、石でできた偽物だから、中の少女たちは、内側からつついてみたところで、割れもしなければ冷たい返事がするだけだ。
せっかく〈身体〉を持って生まれても、ここに迷いこむ《生まれる》ものはすべからく、陽の目を浴びることなどかないそうにない。
そう思わせるほどの圧倒的な退屈が、ここには横たわっている。
少女はとうに、歩きまわることに飽き、石の壁と睨めっこをはじめていた。
彼女に少し疲れの症状が表れたころ、ようやく北西の「赤い部屋」にたどり着いた。
しかし、アルは、苦労して見つけた赤い部屋の扉をあけてのぞくと、何をすることもなく、すぐに通路へと引き帰してきた。
「ちょっと?! 部屋に用はないんですか?」
歩き疲れてきた少女は、少しつっけんどんにものを言った。
察しよくアルは、目をあわせないように咳払いする。
「残念ながら、今は、ここに用はないんです……ただ、いい〈目印〉になりました」
「は? 何がどう、《目印》なんですか!」
がみがみと、いら立ちをぶつける少女に対し、アルは余計にそっぽを向いた。
「ま、まず、こういう迷宮のような場所では、全体と自分を把握するための〈動かぬ情報〉が大切なんです! いいですか? 道に迷わないようにするには、さっきも言った、〈目印〉が何よりも重要なんです。ちなみに今、広間はどっちの方向にありますかね……?」
おそるおそる、アルは少女をうかがった。
少女は、こめかみをひとさし指でトンと叩くと、頭を悩ませていた。
ちっともわからなかった。
「……広間はだいたい、今の身体に向かって、右斜め向こうの方向です。壁の点灯虫の向きを見てください」
アルは通路を照らす点灯虫を指さした。
彼の指さす点灯虫は右斜めを向く。
同じ壁伝いを右に沿って見ていくと、並んでいる他の点灯虫が、右から徐々に上の方向を向いてきている。
少女はいっさい気づかなかった。
もっと点灯虫をよく見て欲しい、とアルは言い、さらに踏みこんだ指摘をする。
少女は壁に近づいて点灯虫を凝視した。
すると、緊張した点灯虫が触覚を驚かせた。
「ちょっと、ごめんなさいね」
少女は、赤い部屋の前の壁にいる点灯虫をのぞきこんだ。
点灯虫は赤い光を鈍く放ち、丸い黒の斑点を一つ持つ。
その左の向こうを見ると、同じ赤い光に丸い斑点が二つのもの、反対に右の向こうには、緑の光にバツの斑点が七つのものがいる。
「実は、点灯虫の光と黒い斑点の数、形が場所によって違うんですよ。ほら! 地図を思い出してください。各部屋は、丸で囲まれてましたよね? そして、ここは赤い部屋の前なので、赤い点灯虫に丸一つ……つまり、各部屋の色と場所が、点灯虫の色、斑点の数と関係しているんです」
少女は感嘆の声をあげた。
「もっと言うと、〈斑点の数〉だけ、今いる道に〈入り組んだ通路〉があり、一番大きい点灯虫のつく場所が、正解の道になっているんです。あとは、数が一つになればゴール、ということです」
「へぇー! まさに、点灯虫が〈目印〉なのね……」
少女は語尾を弱めた。
きゅうに迷宮の中にいることが怖くなったのだった。
彼女はそれまで、迷路のような類には、それなりの自信を持っていた。
だが、実際に歩いてみると、方向感覚は麻痺し、今どこにいるのか、まったくあやふやだ。
ここまで、アルの手解きがなければ、すぐに迷子になっていたに違いない。
(一人で来なくて、本当によかった……)
今さらながら少女は、侮れない迷宮を前に、自分の不甲斐なさを思い知ると、はじめから競争など、言いださなければよかったと後悔した。
「ねぇ、アル? パァンとネコたち……その、ほかの扉の向こうも、こんな石壁に囲まれたところなの?」
「それはいろいろですね。密林の迷路もあれば、トロッコに乗ることもありますし、砂漠なんてのもあります……」
アルの話を聞いて、少女はぞっとする。
もし、彼女がそこに一人で迷いこんだら、どうにもなりそうにない。
「……そういえば、みんな無事なのかなぁ? 特にネコ。泣いたりしてないかなー……」
ふと少女は、パァンやネコたちの安否が気になりだしていた。
「それは大丈夫です! さっきも言いましたけど、あんなひどい悪戯にあっても、不思議と誰も死なないんです。我が迷宮の主は、悪戯は過ぎますが、命を奪うなんてことはいたしません。今までだって、死者はおろか、けが人ですらいませんから。まあ、精神的には答えますがね」
「その、〈精神的に〉ってのが陰湿じゃない! まったく! 主って、どんな奴なの? どうせ、ふ抜けた奴なんでしょうけど」
フルートの罵声に、アルは眉尻を下げて腕を組み、ため息交じりで答える。
「うーん。それが誰ひとり、主の姿を見たことがないもので……男か、女かもわからないんですよ」
少女は口を大きくあけたまま、ふさがらなくなった。
「……おかしいですよね、普通。そんな主について行くって……」
アルは笑って答えた。
たしかに、主の性格は話を聞くかぎり、ずいぶんと難がありそうだ。
おまけに得体の知れない存在でもある。
しかし、この遊園地は驚くほどにすごい。
なんだかんだと、これ以上に、生命魂を魅了できる娯楽施設は、この世界のどこにもないだろう。
それを一人で築きあげた主を、アルは〈天才〉だと豪語し、尊敬の念を惜しまなかった。
少女はそんな息まくアルを見て、喉のどこかに小骨が残るようなもどかしさを感じた。
アルの夢は、〈人を楽しませること〉だった。
それはまた、この遊園地で働くものの多くが望んでいることでもあると言う。
そして、心から何かを楽しめたとき、生きているものの醍醐味がそこに生まれると彼はつづける。
笑いたいし、泣きもしたいし、怒りもしたい……。
不思議と、感情の奥底にある琴線をくすぐれたとき、生命は赤く燃えて躍動するのだとアルは言った。
彼にとってここは、それを表現でき得る場所なのだ。
だからこそ彼は、ここで頑張って主についていこう。そう思っているのだった。
(アルは純粋なんだ……)
少女は、隣で朗らかに語るアルを見返した。
閉じこめられた壁の中で、彼の、遥か遠くを見据える瞳は、一点の曇りもなく輝いていた。
その奥には、まっ赤に燃える〈情動〉が芽生えている。
兜の下の顔はあどけなく、純真だった。
彼女は、まだ彼が〈少年〉であることに気づかされた。
だが、かえってその健気さに、少女は余計に怒りを覚えた。
「楽しませるって……これだけ変わった手品ができるんなら、もっと穏やかな方法で楽しませなさいよ!」
アルは虚をつかれて我に返った。
「いや、えっと、その……あ、主いわく、『喜怒哀楽、感情豊かに、あるがままにその時を楽しめ』とのことで……何でも、娯楽の基本だとか……」
「へー? それじゃあ、今は、その喜怒哀楽の『怒』でも楽しめと?!」
少女は、ふつふつと怒りを沸かせた。
彼女は、歩きまわりすぎたこともあって、少し身体も熱くなっていた。
アルは恐縮しながらも、すかさず、主の邪魔が入るとまずい、などと少女の気を逸らし、先を急ごうとした。
しぶしぶ少女は納得して、アルとともにゆっくりと歩きだす。
「それでは、次は、『宝箱』を探しに行きましょう。運よく、〈バツ七つの緑の点灯虫〉が見つかりましたから……」
さっきまで、あんなに遜っていたアルは、とつぜん怪しい笑みを含ませて言った。
少女は少し、心配な気持ちになった。