9 悪戯の矛先①
少女は、何度もアルの腕をふり払おうとした。
「いいから放して! 痛いでしょっ!」
「ダメです! とにかく、そちらの石板の扉《中央口》にはいかないでください! 約束してくれたら放しますから!」
「何でよ! すぐそこが出口じゃない!」
状況を飲みこめない少女は、なおも抵抗をつづける。
アルは足の脛やら爪先やら、暴れる少女に痛めつけられても、歯を食いしばって踏ん張っている。
「だいたい、何なのよ! 『ご主人様』って!」
少女とアルは、この迷宮の「ご主人様」とやらの悪戯に、まんまと嵌められてしまったようだった。
今はさらに、水晶越しでの管制官との交信も途絶えてしまい、
彼女は、アルを頼る以外ほかない。
とはいうものの、得体のしれない煙に囲まれたこの状況で、少女は冷静になどなれるはずもなかった。
「あ、あの石の扉の先は、出口なんかじゃないんですよ! 今にわかります! と、とにかく、あの残った『右の扉』に進むしかないんです!」
アルは、羽交い絞めに少女を抱えたまま、右の扉のほうへと反転した。
少女は、消えずに残っていた右奥にある扉を目にするなり、頭を横にふって大きく暴れた。
アルを何とかふり払おうと、ふりまわした少女の頭は、彼の鼻っ面に鋭角にあたった。
涙目になったアルは、足を内またぎみにして耐えていた。
「そ、そんなこと言われましても……あぁ! 煙があがってきた……」
視界の晴れだした周囲の先には、モップやら箒やら、掃除道具が壁にかけられる。
ほかには、小槌や鑿などの小道具や木箱の置かれた棚、台車や梯子などの大道具が、地面に煩雑に放置されていた。
管制官の言うように、ここは用具室だった。
少女は、何が起こっているのかわからなかった。
きれいに積まれた石壁の囲む部屋は、またたく間に道具の散乱した、埃っぽい薄暗い空間へと変わっていた。
彼女は全身の力が抜けた。
アルはようやく彼女を放した。
そして、すぐに、鼻が折れていないことを確認すると、少女の手を強く引いた。
「さぁ、うかうかしていられません! 急ぎますよ!」
「急ぐって、どこにです?」
「『右の扉』にです! ここからは見えませんけど、右奥にまだあります!」
「右奥って、何でわかるのっ?!」
「『経験者』なので!」
アルは自信たっぷりに言った。
少女は、狼に追い詰められた兎のように、身を縮こませ、戸惑いを隠せないでいる。
「大丈夫! 私も行きますから!」
「えっ……でも……」
少女は口をつぐんで狼狽えている。
琥珀目の挙動は定まらず、何も決められず、心は揺れていた。
「あー! じゃー置いていきます!」
アルは、つかんだ少女の手を、雑に放って走りだした。
「わっ! 待って!」
少女が、アルを追い掛けようとしたときだった。
彼女のうしろで、不気味な音が地面を揺らし、腹の底を響かせた。
Booooom!!......
思わず、少女はふり返る。
そこにはいつのまにか、見知らぬ巨大な物体がそびえ立っていた。
それも、石板の扉の出口の先にあるのではなく、不自然にもその扉の背後にたたずんでいる。
少女は唖然とした。
見たこともない物体は、四、五メートルほどの大きさで、黄色い長方形をしている。
また、それは、白く細長い蛇腹のホースのようなもので、石板の扉の出口へぴったりとつながっていた。
アルは立ち戻って、棚の脇から顔を出した。
「やっぱり! 『巨大掃除機』だ! あれに吸いこまれたら、大変です!」
アルは、突っ立ったままでいる、少女の腕を無理矢理に引っぱって、ふたたび右奥の扉へと急いだ。
Booooom!!!!
巨大な「掃除機」はもう一度、あの不気味な音を高らかに鳴らすと、周囲の物を勢いよく吸いこみはじめる。
出口と思っていた石板の扉の先は、掃除機の吸いこみ口だった。
吸いこみ口は、手前の道具を一気に平らげていくと、蛇腹のホースをうねらせて、棚板をバリバリはがしにかかる。
少女の長い黒髪が、うしろになびいた。
アルがつかんだ棚の、壊れた背板の一部から右奥の扉が見える。その角を曲がれば、扉は目前だった。
だが、背中のすぐうしろにある棚が、ついに剥がされだし、前かがみになった二人の上体を起き上がらせた。
「ッ!……」
少女は息を詰まらせたふうになった。
アルもまた彼女の腕を引き、棚の縁に手をかけて堪えているが、少し苦しそうである。
足が床から離れそうになる。
(このままじゃ、まずい!)
「私に、しがみついてください!」
懸命に叫ぶアルが少女を引き寄せた。
彼女は言われるがまま、彼の腰に腕をまわしてしがみついた。
片手の自由になったアルは、すぐに機転を利かせ、近くにあった厚地の細長い絨毯に手を伸ばす。
彼は火事場の馬鹿力で、重い絨毯を引きだし、無造作に転がした。
まわり広がっていく絨毯は、うまい具合に吸いこみ口に飲みこまれ、つかえて動きが止まった。
「よしっ! 今です!」
駆けだしたアルは、右奥に見えていた扉に飛びついて入口をあけ、遅れてきた少女を引きこんで先に入れた。
アルは少女の肩を押しながら、自分も中へつづくと勢いよく扉を閉めた。
扉の先では点灯虫が、オレンジ色を煌々《こうこう》とさせ、切り出された石の空間を照らす。
不規則な石が、きれいに敷き詰められた壁は、その縁に無機質な緑色を帯び、思いのほか明るかった。
広さは、人二人が、横に並んでもまだ余裕があり、通路は、右に左にぐねぐね曲がって、奥へとつづいている。
アルは一息つくと、顔を真剣に引き締め、少女の手を引いて歩きだした。
通路を奥へと進んでいくと、やがて大きな広間が現れた。
広間は、金色の縁取りをした、紫色のカーペットが中央を貫いている。
中心には大きな大理石の、丸いテーブルが冷たく置かれていた。
二人の靴音がやむ。
ここは、アルのよく知っている迷宮のようだった。
少女はそのことを知るや、無言で胸をなでおろした。
アルもまた大きく息をついた。
「とりあえず助かりましたね! 大丈夫でしたか? お客様?」
アルが手を膝についてふり返った。
少女は嫌な汗をかいていた。
新調したばかりのスカートの裾は、黒く汚れている。
彼女は、それをいちいち手で触っては、怒りとも、不安ともいえない複雑な顔をした。
「はい。大丈夫ですけど……。あれ、あれは何ですか? 『ソウ……ジキ』? あんなの、下手したら死んじゃいますよ!」
アルは苦笑いして、少女に向きなおった。
「あれは一応、ごみを吸い取る機械なんですけどね……。まぁ、『死ぬ』、ということはありませんよ。ただ、吸いこまれたら一大事ですけど」
そう言ってアルは、顔を青ざめさせ、
「実は私、一度あれに吸いこまれたことがありまして、ほんとにひどい目に! 身体じゅうごみまみれになって、一週間は臭かったですよ!」
と、思い思いに語りだす。
一人泣きそうな顔するアルをよそ目に、少女は、あれで誰も死なずにすむものかと疑問に思う。
だが、それ以上に、ごみまみれになる自分を想像し、気分が悪くなった。
「あーっ! それはそうと、どういたしますか? リタイアの件なんですが?」
少女は、深いため息をついて全身を脱力させた。
「こうなったら、もう進みますよ……どうせここも、主の手中なんでしょう? 逃げでもして、またあの、『ソウジキ』? のお世話になるのは嫌ですよ……」
アルはしぶしぶうなずいた。
少女はその様子を見て、殊更に落胆した。
「あーん! もう! 観念しましたよーだ!」
少女はやけになって、あたりを適当にほつき歩いた。