8 真実の迷宮①
「ふー。やっと行った」
少女は、パァンのうしろから物見窓をのぞき、落ち着いた表情で言った。
建物を取り囲んでいた、おびただしい数の仮面の異形たちは、あたりから完全に姿を消していた。
異形の襲撃を受けた少女たちは、パァンの指示に従い、
城のような大きな建物の中へと逃げこんできていた。
まるで、宮廷のような造りの城には、敷地内にも建物内にも、兜に胸当て、物騒な槍まで持つ、屈強そうな衛兵が数多くいる。
とはいっても、衛兵たちはみな、《《ただの従業員》》であったが、塀にも囲まれたこの建物なら、身の安全を確保できるだろうという算段があった。
「『あいつら』、あんなにとろかったのに、何でこんなに早く追いついたの?」
「おそらく、いろんなとこから出没するんだろう? そうですよね? かんばんさん」
かんばんは、顔に汗の記号を出しながら困惑している。
さっきまで、気絶して伸びていた彼は、すっかり意識を取り戻していた。
「いやはや。こんなことは、はじめてでして……私にも、さっぱりわからないのです。いつもあいつらは、観覧車のまわりに集まってくるだけでしたから、どこから、どうやって来るかまでは……」
逃げ切れたと少女も思っていただけに、まさか異形たちが、あんなにも早く追いつくとは誰も予想だにしなかった。
それも、この城に逃げこんだ彼女たちの場所を嗅ぎつけ、大人数で押しかけてきたのだった。
しかし、異形たちはこの城を見上げるばかりで、なぜか中に入ってこようとはしなかった。
さらに、しばらくすると、彼らは身体を震わせ、両手で仮面を抑えてうずくまり、おぞましい唸り声をあげたとたん、散り散りになって逃げていった。
その唸り声は頭にこびりつくようで、城にいるものたちはみな、思わず耳をふさぎ、顔を痛くしかめるほどだった。
結局、見かけ倒しの従業員たちは、城内になだれこんできた。
今もまだ、狐に鼻をつままれた顔をして、誰も彼もが互いに見あって、事の顛末を確認しあっている。
さすがに、もう慣れたのか。
何度も肝を冷やしてきた少女は、恐怖をとうに乗り越え、思いのほか冷静になれていた。
ネコたちはというと、とっくに忘れてしまったかのように、従業員たちに遊んでくれるようせがんでいる。
「ほんと、『あいつら』って『何もの』なの?」
呑気なネコを尻目に、少女は階下へとゆっくり降りていく。
その途中でパァンをふり向きざまに見た。鋭い目つきだった。
そうして彼女は、物見窓からずっと外を眺めるパァンを捉え、さっき発した自分の声がまだ、天井に小さく響いているように感じていた。
「さあね。『あいつら』は、何か俺らに用があったんだろうけど、どうも、この城に入るのは苦手みたいだ」
パァンは少女に向きなおった。
「えっ? あぁ……ここに何か、『あいつら』の嫌うものでもあるのかなぁ?」
少女の言葉に、パァンは肩をすくめ、両手を広げておどけて見せた。
隣でかんばんも、首を大きくひねる。少女の目つきは鋭さを増した。
ネコはともかく、〈何もの〉であるかわからないのは、パァンも同じだった。
彼は、自分をただの「旅人」と言うが、少女には、そこらの常人とは違うように思えてならなかった。
なぜなら、パァンは、ほとんどの物事に動じない。
今だって、異形に追いかけられたあとだというのに、自分のペースをまったく崩さず、例の物見窓から、静かに外を眺めているほどだった。
それだけではない。
少女たちがここに逃げてくるまでの間、パァンは小柄な少女とはいえ、人ひとりをずっと抱えて驚くべき速さで、息一つ乱ささずに園内を走り抜けてきたのだ。
あらためて、少女は目の前の「笛吹の旅人」を疑問に思うのだった。
(パァンはいったい……)
パァンは少女と目があうと、その鋭い眼差しの真意を察したのか、とぼけるように笑ってそっぽを向いた。
少女は、胡散くさそうに、眉間に皺を寄せる。
鞄といい、霧といい、さっきの異形といい……。
もとをたどれば、少女がさんざんな目に遭ったのも、この笛吹の旅人に出会ってからのことだ。
だいぶ、こじつけがましいとは思うが、けして間違いではない。
実は、老婆の件も作り話で、あの鞄の処遇に困り果てていた顔も、うまいこと演技をしただけなのかもしれない。
パァンは端っから、少女をこうした珍事に巻きこもうとしたのであって、ならばネコたちとも、実はグルだったりするのではないか。
とはいえ、面倒なこともあれば、楽しいことだって同じくらいあったのだ。
少女はそんなふうに、笛吹のパァンを怪しむ傍ら、たんに、お互いがいつもより、奇妙で不思議な一日を濃密にすごしただけだろうとも思った。
なんせ、霧に囲まれたこの世界では、とつぜん何が起こってもおかしいことはない。
しかし、それでもパァンが、不思議であることに変わりはなかった。
彼は今、紫水晶の瞳を澄ませて、壁に寄りかかっているが、あの目にしたって、ときおり色を変えてみせる。
何かしらの秘密があるに違いない。
少女は、そうやって考えを巡らせていると、疑いの目よりも、好奇心をパァンに抱きはじめていた。
何か彼女の知らない、大きな目的でもあるのではないか。
しばらく彼女は、パァンの裏の顔を探ってみたが、何もわからなかった。
(ああ、もう、やめた!)
面倒くさがりの彼女は、すっぱりと考えることを止め、階段を一つ飛ばしでゆっくりのぼりはじめた。
パァンは両手を頭のうしろに組んで、壁にもたれ返すと、階段を上りきった少女と正対した。
「まっ! いい酔い覚ましになったんじゃない? これで、ここでのことも、きちんと忘れずにすむ!」
パァンは適当なことを言う。
「はぁ……なんだか、トラウマになりそう……」
濃密な一日をすごしてきたせいなのか、少女は、今はいろんな感覚が麻痺している。
だが、それも明日になれば、すぐに正常に戻る。
むしろ、戻った感覚はかえって、普段の生活を鋭敏に捉えすぎ、執拗に物事を疑いだす悪い癖がつくだろう。
少女はそう思った。
「まぁ、あいつらのことはよく存じませんが……あぁ、胸糞悪いです! いったん忘れましょう! 忘れましょう!」
かんばんは、その顔を子供の落書きのようにさせると、きれいにリセットした。
「……いやはや、それよりもですね! ここは『真実の迷宮』と言いまして、当遊園地の目玉となっているところなのです、はぁい! ネコたちは、よく知っていますよね?」
「あひゃ? 『めーきゅー』?」
「『めーきゅー』?」
かんばんの質問のふりに、ネコたちは、互いに目を見あってわからない顔をした。
「やですねぇ! いつも、ここに来て遊んでいくじゃないですかぁ! アハハー!」
ネコたちは首を傾げ、しばらく腕を組んで考えた。
だが、何も思い浮かんではこないようで、頭から、本当に焦げた煙が立ち昇った。
思わぬ反応に、かんばんも口をあけたまま、しばらく立ち尽くすのだった。
「あぁ……。いつも夢見がちなネコには、ここでの体験は、日常のつづきみたいなものなんでしょうか。ここが遊具施設であることも、すっかり忘れてしまったのですかねぇ……」
かんばんは、少し悲しそうにした。
「とりあえず、ここは、巨大な宮廷を利用した迷路でして。そこに用意された問題や仕掛けを解いて、真実にたどり着くという遊びです。まぁ、『謎解き迷路』とでも言うのでしょうか」
「あー! 『謎解き迷路』なんておもしろそう!」
少女は、波間に散らばる光の粒子のように目を輝かせ、かんばんの話に食いついてきた。
かんばんは、自分に立ちこめた、暗く嫌な雲をここぞとばかりに掻き消し、晴れやかな気になったようだった。
「はっ、はぁい! しかも、ちょうど本日は、リニューアルを祝って、関係者向けに試験を兼ねた前座営業をいたしております! 今回、ネコたちを招待したのは、その前座営業に参加していただくためだったのですがね」
ネコたちは、ぽかんと間抜けな顔をして、かんばんを眺めている。
彼は気にせず、いっそう鼻息を荒くする。
「それはそうと、改装後の迷宮は、定期的に仕掛けや問題を変える自由度に加え、難易度もアップ! コースも3つの扉から、選べるようになっております!」
言いたいことをすべて言い終えると、かんばんは酔いしれたふうにのけぞった。
パァンは、軽く目を閉じ、
「ふーん。となると、頭を使うのが苦手なのかもな。『あいつら』は」
と、淡々に述べるや、すかさず少女は、
「なるほど! これで、ネコの『忘れん坊』の件もなっとくー!」
と言って、うんうんとうなずく。
そして、ネコをちらりと横目に、口をすぼめてみせた。
さすがのネコも馬鹿にされたとわかり、少女に唾を飛ばすようにして怒りだした。
「おくちきかないよ!」
「きかない!」
「わーわー! うそうそ! お口聞いてよぅ!」
ネコたちのあまりの怒りっぷりに、少女は懸命に取り繕おうとした。
彼女はどうも、ネコには甘くなってしまう。
大人の二人たちは、もう、子供な少女らをほったらかすことに決めた。