プロローグ 白昼夢
※「カクヨム」でも掲載しております(2016/3)
ひとーつ。
ふたーつ。
青白い靄に、見え隠れする二つの光が、じょじょにこちらへと近づいてくる。
ここはどこで、どういった世界であるのか。
現実の事象なのか夢なのか、はたまた、何らかの過去や記憶であるのか。
いや、そもそもこの事象が、自分や他人のことなのかも、はっきりとわからない。
ちょうど、吹雪は弱まっていた。
だが、信じがたいほどに冷えきったこの世界は、ただ、ただ重く、暗く、その色彩はおろか、ときに雪の白ささえ判別できなくなる。
ふいに、一つの光が忽然と消える。
と、すぐに、もう一つの光も、つられて消える。ほんの数秒間だったろうか。
あたりには静寂が芽生えていた。
するとまた……
ひとーつ。
ふたーつ。
青白い靄に、見え隠れする二つの光が、じょじょにこちらへと近づいてくる――
***
汽車は煤けた黒を吐き出し、軽妙にくしゃみをした。
緩やかにのぼる線路上に、外板のパステルみたいな緑が陽光を散らし揺れている。
煙突の鼻先はようやく落ち着いた。
ふたたび先頭の客車内では、突き上げるレールの継ぎ目を感じられるようになった。
継ぎ目は何度も車輪をつたい、規則正しく木の床を叩いてとおり過ぎていく。
その客車中央には、一風変わった旅人がいた。
彼は腕を組み、革の帽子を膝に抱え、横座席の窓側にもたれて静かに眠りに就いている。
ときおりレールの継ぎ目の音に、銀色の髪が小刻みに揺れる。
鼻筋のとおったきれいな顔立ちは、穏やかに崩れない。
少年というよりは青年だろうか。
旅人は二十歳か、そこらは超えていると思われるが、これまで長い歳月を重ねてきたような、妙に落ち着きを払った印象が深い。
それとは反対に、個性的な深緑のジャケットに、重厚で歩きにくそうな黒いブーツなど、一般的な旅人の服装とは、どこか異質を放つ風貌をする。
そんな彼の首もとには、ひときわ目立って、わりと大きな〈青いもの〉がぶらさがっているのだった。
けれども、それが何であるのかはわからなかった──
やがて汽車は、初夏の匂いをわずかに添え、色濃く影の落ちる森へ入りこむと右へ斜めに傾いていく。
くねくねした木々のアーチをくぐり抜けるように、車体は大きく右カーブを描いて黒い煙を螺旋状に巻きこんだ。
乗客のほとんどは大きく咳きこみ、傾いた車内を必死になって窓を閉めにかかろうとする。
「えー、本日はご乗車、まことにありがとうございました。まもなく終点、終点の『ヘイルハイム』。なお、西方線に乗り換えの方は……」
客車前方にある壁棚の上。
色あざやかなオウムが羽をばたつかせ、よくとおる声でアナウンスをはじめた。
混みあった車内の客は、荷造りや身支度をしはじめ、降車口に向かって、さあ急げとざわつきだす。
すると、きゅうに聞いたこともない、さまざまな言語を口々にしだす――
quaak! qwe qwe? quaako! qwe qwe qwe?......
kef kef. gaf gaf.
poparap? pohoho!
kohuugo ton ton……
3人の子を連れた、水掻きつきの三本指の蛙人の若夫婦に、耳の垂れた犬人の団体……。
ほかには、色あざやかな革の鞘に、お尻の針を収めて着飾る、蜂人の女2人に、背中に羽を持つ翼人の幼い兄妹……。
降車口に並ぶ面々は、奇妙なものたちばかりいる。この世界――「マーヴル」――では、もうずいぶんと見慣れた光景である。
ほどなくして汽車は、白い煙を車輪の下から撒き散らして止まった。
焦げついた臭いが、窓枠の隙間から入りこむ。
サンドベージュの石畳のホーム。
白い壁。
オレンジで統一された、柱や屋根、葡萄の蔦や花、猫や鳥などの小動物をあしらったタイルや点画模様――長大でユニークなヘイルハイム駅には、色鉛筆のような汽車が何本も乗り入れている。
まもなく駅員が扉をあけた。
降車口に集まった客は、霧のことなどすっかり忘れてしまったかのように、意気揚々と降りていく。
ついでに、アナウンスを終えたオウムも、外の雑踏へと紛れていった。
もう、そこに残るのは、旅人と忘れ物と太陽の微睡みくらいだろうか。
車内の空席は新しい陽光に占有され、ちゃっかり陽だまりをつくっていた。
「もしもし? お客さん、お客さん!」
見まわりをしていた大きな身体の駅員が、眠りつづける旅人前まで歩み寄ってきていた。
駅員は、肩を軽くたたいて彼を起こそうとしたが、起きる気配はまったくない。
駅員は、今度は旅人の肩に手を置き、軽く前後に揺すって起こそうとする。
「お客さん! もしもし、お客さん!」
耳もとで駅員が呼びかけると、ようやく、旅人はうっすらと目をあけた。
陽光がまぶしかったのだろう。
彼は額に手をかざし、窓から差しこむ光を遮ると、ゆっくり、呼ぶ声のするほうを仰ぎ見た。
紫水晶のように透きとおった瞳には、ぼんやり――二本足で立つ大きなワニ人の駅員が、申しわけなさそうに映りこんでいた。
旅人はしばし、目の前のワニ人を見つめると窓の外を見やった。
まっ白を下地に、オレンジの映えわたるホームは、すでに閑散としている。
旅人は、すぐに状況を呑みこんだようだった。
「あぁ……ずいぶん、寝坊が過ぎた……。あの、申しわけありませんが、ここは?」
旅人は少し微笑みながら、まっすぐワニ人に向きなおった。
「えっ、えぇ。ここは、終点の『ヘイルハイム』です」
「あぁ……そう……」
旅人は少し考えるように、鼻の頭を指で掻いた。
ワニ人は、そんな彼を見て、
「その……お疲れのところ申しわけないのですが、もうじき、この列車は〈回送〉に変わりまして……」
と、また申しわけなさそうに、頭のうしろを手でかいた。
すると旅人は、
「あー、〈回送〉ね……ちょうど、僕も〈回想〉をしていたようです……夢中になるほど……」
と笑って膝上の帽子を手に取り、ゆっくり立ち上がった。
「はっ? はぁー?」
わけのわからない旅人の返答に、ワニ人は困惑しながらも、律儀に回答を模索しようとした。
旅人は、そんなことはおかまいなしに、両腕をゆっくり上に突きだし、力強く背伸びをしてみせる。
ちょうど雲に隠れでもしたか、陽射しがきゅうに弱まった。
旅人も。
ワニ人の顔も。
あたりの現実も。
しっかりと彫が浮かび上がり、把握することができた。
窓から見える振り子の柱時計は、正午を過ぎたところを示す。
どおりで陽射しが強いわけである。
だが、いったんは、露わになった現実も、そう長くつづくものではなかった。
いつしか陽光は、たった今、互いの目の前で描いていた絵を、軽くスポイトの水でぼかすように遮った。
彼らの視界を、現実を、意識を……午後の光は、しつように邪魔しようとしてくる。
「こう、きゅうに午後の陽射しがまぶしくなると、いったいどれが現実で、どれが〈夢〉なのか、よくわからないものですね……」
旅人は、窓側のフックにかけておいた、同じ茶色のフードマントとポンサックを手に取り、ワニ人に会釈するとそのまま汽車を降りていく。
陽射しを背に、ぼんやりとたたずむワニ人の時間が、一瞬、止まったかに思えた。
「えっ……あぁ! なるほど!!」
ワニ人は慌てて旅人を追いかけた。
そしてホームに飛び出すと、勢いよく袖をまくり、手巻きの腕時計を確認しはじめる。
「あ、あのうっ! 本日の『傾斜の刻』は、〈13時07分32秒から同14分04秒〉までの、およそ6分半ほどです。本日は、『本ノ間の日』で混みあっておりますが、まだ1時間はあります。近くでお昼を取ってからでも、おそらく間にあうかと。ただ、街は異常気象のあおりで、混雑しているのが気になりますが……」
ワニ人は、また頭のうしろを手で掻き、申しわけなさそうにうつむいて、ふたたび時刻を確認しようと、しきりに腕時計を見た。
片目をつぶり、鋭い目をさらに鋭く、小さな時計の針を見まいと、腕を遠くへ、近くへ。
頃合いのよい位置を見つけ、ワニ人は、ぐっと腕に力を入れて止める。
しばらくしてワニ人は、やっぱり、という表情で苦笑いした。
晴れ間が多く、太陽の恩恵を授かるヘイルハイムは、太陽を「アポロ」と呼び、崇めている。
この街では、その陽光の祝福を最大限にあずかり、祈りを捧げようと、街のシンボル、「アポロの塔」にある仕掛けが施されていた。
それは太陽が傾きはじめ、一定の気象を満たしたときに、ほんの数分間、街全体をやわらかな光に包みこむという〈カラクリ〉だ。
その現象は、やわらかな陽光の質と太陽の傾きから、「アポロの傾斜」と呼ばれる。
「傾斜の刻」とは、その予定時刻で、「本ノ間の日」は、その現象が、今年一番となる日のことであった。
「ふーん。『傾斜の刻』ね……」
朗らかな笑みをこぼし、旅人はボンサックを肩にかけなおす。
ポンサックに括りつけられた銀の懐中時計が、ちかちかと光を反射させた。
彼は帽子に手を軽く添え、もう一度ワニ人に会釈をするとマントを翻した。
「あぁ! 一つ、いい忘れておりました! お昼は、ここの駅の社食を利用することもできます。改札付近の駅員にたずねてみてください!」
「そう! わざわざありがとう!」
旅人は、顔を少しうしろに見やり、片手をふって別れを告げると、颯爽とホームを歩きだした。
どこからともなく、光の射しはじめた午後の微睡みの中へ、靴音の余韻だけを残し、消えていく――
ワニ人は呆気にとられた。
午後の陽射しはいっそう力強く、しかし、やわらかにあたたかい。
その光は、一風変わった旅人の一部始終を、印象的にも幻想的にも映し出していた。
すると目の前の現実は、どこか疑わしく、今にも忘れてしまいそうになる。
「私は、変な『夢』でも見ていたのか……?」
ワニ人は、旅人の自由気ままで、突拍子もない言動に困惑しながらも、とりあえず、せいいっぱいの回答を述べられたはずだった。
しかしながら、この不思議な感覚に気がつくと、その達成はうれしくも、少し残念な気持ちに傾いているのだった。
それは、駅員という肩書きにとらわれず、「私」というもっと自由で、もっと素直な性質で、その旅人と同じように交流できなかったものかと……せっかく、これが「夢」であるならばと……
ワニ人はこの一部始終が、〈白昼夢〉ではないかと思いはじめていた。