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白玉抄  作者: 青児
8/9

‐8

「何という――惨いことを」

 頼定の娘は戦慄した。

 竹筒から解き放たれた物の怪は、その場にいた誰の目にも黒い影として映った。くるくるとあらゆる鳥獣の形をとっていたが、今は不格好な(まり)のように膨れていた。丸い巨大な胴体の両脇からは子供のもののような短い脚が何本も突き出て、空間に爪を立てていた。

 その口。裂け目と言った方が正しい口腔には猛獣を思わせる歯が並び、上顎の辺りから伸びる犬歯はどの獣のものより一際長く見え、どうやら自らの下顎を貫くほどであるらしかった。口からは透明な雫がぼたぼたと零れていた。色のない、水のような血液が。草むらに倒れ伏した女の身体は頼定の娘と、乾水だけに見えた。身体は胸から下が喰い千切られ、両腕は辛うじて肩に繋がっており、傷口から溢れ出す塩水に半分浸かっていた。

 獰猛な唸り声だけが響いた。

 屋敷から単身、脇目も振らず走って来た彼女が敷地に踏み入るや否や、獣はにおいを嗅ぎつけて姿勢を変えた。頼定の娘に獲物のにおいを見つけたからだ。十夜を超える訪問の結果、娘の身体に染み付いた死のにおいだ。

 しかし、彼女に飛びかからんとする物の怪を素早い動きで乾水法師が押し留めた。物の怪は不満げに、地面が振動するような唸り声を漏らした。蔀戸の隙間から様子を窺っていた寄居人達は怯えて奥に引っ込んだ。

 娘はぐっと腹に力を入れ、言った。

「どこの誰か存じませんが、今すぐその影を納めなさい」

 乾水は闖入者をとっくりと眺めた。(なり)はみすぼらしいが、餓鬼ではない。

これが亡霊に献身する払い屋の正体か。においは兎も角、中身はただの人間らしい。

「拙僧はお前の尻拭いをしているまで。口を挟むな」

「あなたは己の獣が何を貪っているのか見えているのですか?」

「無論。女の亡者だ」

 それがどうしたと言い捨てた乾水を娘は睨みつけた。

「あなたはその言葉の意味を分かっていない」

 絞り出すように娘は言った。

「その方の半分は、まだこの世に在るのです。蔑ろにして良いものではない」

 乾水は鼻を鳴らした。傍らの物の怪がじれて脚を踏み鳴らした。

「稚拙なことよ」

 淀んだ声に気持ち悪い汗が背中の窪みに沿って滑るのを感じたが、娘は一歩も退かなかった。

 意地だ。それでも精一杯の威厳をかき集めた。

「影を納めなさい」

 そんな女童(こども)の言葉に、彼は怯むでも憤るでもない。寧ろ心底憐れんでいた。非力な生き物と娘が重なって見えた。例えば羽虫であるとか、骨の細い子猫。一挙で殺せるそういうものと娘は同格だった。

 哀しいことだ、と乾水は思った。年端も行かない女童が怨霊の情に絆されて、火の中へ身を投じようとしている。乾水はこれを殺さねばならない。殺せる術を会得したばっかりに。助けを求めた人間がいるばっかりに。

 娘への憐憫は尽きることがない。

 しかし彼の両眼は艶をなくし、夜闇の如く濁っていた。

「全てが終わったら、そこの亡霊と一緒に弔ってしんぜよう」

 ふっと物の怪を抑えていた圧力が失われた。脚は勢いのまま空を蹴り、口は欲のまま大きく開いて二本の牙で以て娘の胸を貫かんとした。娘は反射的に右へ倒れ、一撃を辛うじてやり過ごした。物の怪は悠々と舌なめずりをして態勢を直した。

(どれだけ惨たらしいやり方で喰うつもりなのか)

 草むらに転がった涙の亡骸が脳裏を過ぎった。なぶられ、なぶられ、あんな姿になったのだろう。悔しさと恐怖がない交ぜになって目頭が熱くなった。だが、耐えた。

 非力な二本脚が立ち上がるのを獣は待っていた。娘を喰うことより、殺すことより、恐怖を煽ることを至上の楽しみと認識しているようだ。その浅ましさ、惨さ――まるで人間のような。

 いや、人に近過ぎる。

 娘はのろのろと起き上がり、二撃目も避けた。恐怖に震え、逃げ惑う姿を望むなら、生死の淵で右往左往する様を向こうが飽きるまで見せてやるつもりだった。娘にはその次に獣が何を望むか想像出来た。痛みに悶え苦しむ姿だ。頭から呑むような真似はしないだろう。腕を持って行かれるよりは、まだ大丈夫。

 ここで思考を放棄して取り乱せば死ぬしかないのだ。

 爪や牙から逃げる一方、先に獲物になってしまった彼女に意識を向けた。微動だにしない姿は本当に、生身が裂かれたようで背筋が寒くなった。このまま何十年と抱えてきたしこりを胸に残して消えて欲しくない、と娘は思った。

「楽しいか?」

 乾水が影に呼びかけるのが娘にも聞こえた。影は犬に似た吼え方で答えた。

「そうか。私も楽しい。楽しくて哀れで仕様がない。しかし余り遊ぶな」

 にやりと乾水の唇が歪んだ。

「生身の人間は骨まで喰うと時間がかかる。夕方の開門に間に合わせねば。――さっさと済ませてしまえ」

 堪え切れず、娘は悲鳴を上げた。じゃれ合いが狩りに変わり、影は滑るように速い動きで娘に迫った。逃げ回る娘の背にぴったりと張り付き、しばらく機会を計っていたが、巨大な身体を一度沈めたかと思うと、絶妙な距離で娘の背に向かって飛びかかった。

 黒い牙の一本が脇腹の柔らかい所を深々と刺し貫いた。それを一度外れると、今度は前脚の爪が首根っこを掴んで娘の身体を前に押し倒した。娘は痛みよりも肺の圧迫に苦しんだ。満足に息が吸えない。

 限界まで開かれたあぎとの裂け目に娘の首は招かれた。

 ――無情の色。

 ――悲哀の温度。

 ――憤怒の味。

 ――そして傲慢のにおい。

 影の中に満ちるものは意思を以て、娘の身体に入り込もうとした。

娘は真っ先に息を止めた。口を閉じた。だが両眼はしっかりと見開いたまま、闇色の蠢きから視線を閉ざさなかった。又、温度を、煮えたぎる冷たさを、決して忘れないと薄れる意識に刻み込んだ。

(……ああ)

 この先も暗いのか。しかしずっと清涼だ。

 もう苦しくなかった。

 ただ芯から冷えるばかりだった。

 ――やがて意識を失った娘の身体を、影はぺっと吐き出した。遠くから観察していた乾水は瞠目した。 

「何故、喰わぬ」

 慌てて娘の身体に近寄り調べると、細いながらも呼吸は続いていて、本当に失神しているだけだった。

「莫迦な。何故喰わぬ。生身の人間の血肉だぞ? 何が気に入らんのだ」

 主の追及に、獣はそっぽを向いた。

「ええい。早よう、喰ってしまえ」

「そりゃあ無理というものだ」

 門の所に金色の山犬と美丈夫が立っていた。山犬は顔面蒼白の男をその場に残すと、風のような速さで宙を低く駆け、乾水の胴に食らいついた。乾水は絶叫したが、僕の獣は動こうとしない。一方、茫然自失の状態から覚めた白隆は、娘の方に駆けつけた。息をしているのを認めて、腰を抜かした。

「……い、生きている」

 白隆が彼女の頬を少し強く叩くと、鼻が動いて小さくくしゃみをした。それに驚いて目が覚めたらしいが、傍らの白隆などまるで眼中にないようで、山犬が人間をくわえているのを見て目を剥いた。

 やめろ、と娘は叫んだ。

 山犬は冷え切った視線を娘に向け、馬鹿にするように法師の身体を宙に放り投げた。そして大口で頭から受け止めた。彼は一言も発せず、山犬の腹に収められた。辺りが静まり返ったのも束の間、物の怪の影がおぞましい音と共に爛れたようになり、幾らも経たずに地面に崩れ落ちてすっかり染み込んでしまった。

 山犬は娘に向き直り、嘲る調子で言った。

「呆気なかったろ」

 娘は一言も言い返さなかった。山犬はそれをまた嘲笑った。







 白隆にはただ、娘の身体が糸の切れたように崩れ落ちて、法師が犬に食われたのが見えただけだった。

「幸せ者だな」と山犬は言った。「あの子を見ろ。あんな術を備えているばかりに、ああいうことになる」

 娘は白隆が止めるのも聞かず、草の上を這いずって件の亡霊の元へ行った。白隆がそわそわとそちらを窺っているのを見て、山犬は二人の会話を面倒くさそうに教えてやった。

「あの子はひたすら詫びているよ。女は死人とは言え、胸から下を喰い千切られているのだから、まあ良い気分はしない――女はもう泣いていないな。嗚咽で喉を潰してしまって酷い声だ。本当に女だったのか? いや、まあいい。あの子がまた――ふん――おい、女は消えた」

「どこへ?」

「知ったことか。ああいう女の行く先なんて想像もつかん」

 山犬は器用に前脚で鼻を掻いた。白隆の視線の先で、娘の上半身が傾いだ。白隆はすぐさま駆け出し、地面に丸くなっている彼女を腕に抱えた。青く血管の浮いた両手が顔を覆っていた。

 白隆は声を掛けようと思ったが、何と言うべきか分からなかった。名前を呼ぼうとして、彼女の名前を知らなかったことを思い出した。

 娘の肩が震えているような気がした。

「おい」

 上擦った声で呼び掛け、短い髪を指で梳いてやった。泣いているのかと手首に触れると、身を捩られた。

 困惑のまま、それでも彼女の身体を放さないでいると、

「出仕なさらなかったのですか」

 白隆は苦笑した。

「ああ」

「最悪です」

「ああ、まったく」

「貴方のおっしゃったことは正しかった」娘は絞り出すように言った。「寄居の住人達の憔悴にもっと気を配るべきでした」

「そうだな。愚かだったかもしれない」

「愚かだったのです」

「だが皆、利口では、私のような人間ばかりになるだろう」

 白隆には彼女が失笑したのが分かった。

「それに貴女が愚かでなければ、彼女は誰にも救われない。あの(ひと)は、貴女に何か言ったのか?」

 娘は一言、それを呟いた。白隆には聞き取れなかった。だが、聞き返すことはなかった。

 絶えず髪を梳く広い掌に、やっと心地良さと安堵を得ながら、娘は目を閉じた。己の涙に目が染みた。

 次に目を開けた時、彼女はやはり夫の腕に抱かれていて、周囲を眩しく感じ顔をしかめた。山犬の背に白隆と二人乗せられ、帰路に在った。白隆は馬の背との感覚の違いに――詰まるところ、酔いに苦しめられていたが、弱々しくも微笑んだ。

「眠っていなさい」

 娘は身じろぎ一つせず再び眠りに落ちた。

 見知った間柄である筈の山犬は冷淡に、

「まだ生きていたか」

 そしてくつくつと笑った。

「余り笑わないでくれ、振動でこっちの腑も揺れる」と、白隆は呻いた。

 山犬は呆れたように、

「情けないことだ。このままでは朝になっても着かん。蟻の速さで進んでいるようなものだ」

「すまん」

「頼定もこんな男と予知しておれば、あの子の伴侶にはもう少しまともな奴をあてがっただろう」

 白隆にはぐうの音も出せなかった。

「しかしまあ、あの愚か者共を始末……痛めつける術くらいはあるのだろ?」

「無論だ。あの場に居た全員が明日には門の外に出される」

「ふん、殺してしまえばいい」

「自分でやれば良いではないか」と、白隆はうんざりしながら言った。「法師を食ったように」

「あの阿呆は既に物の怪の一部だった。タチの悪いものは、同じくタチの悪いものを好む。あれは長い時間をかけて、本人にも気付かれないように食い進めたに違いない。皮一枚で辛うじて人としての体裁を保っていたのさ。あの様をとても生者とは言えない。阿呆も過ぎるといっそ哀れだ」

「法師の心に付け入ったのか……」

「物の怪は傲慢や憤怒の味が大好物だからな」

 山犬は首を反るとにやりと牙を見せた。白隆は山犬が人間の手足を食い千切っている光景を思わず想像してしまい、新たな吐き気に口を押えた。

「お前も人を食うのか?」

「ミスズ、だ」山犬は不機嫌に名乗った。「食える。美味いと感ずることも出来る。が、食わん」

「津瀬の姫と取り決めたから?」

「まあ、似たようなものだ」

 津瀬邸が既に眼下にあった。


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