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白玉抄  作者: 青児
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-7

 頼定の娘は帰邸の後、直ぐに褥に潜り込んだが、いつまでも寝付けず苛々していた。酷く疲れていた。頭も目も痛い。身体がだるい。本当ならば横になってすこんと眠ってしまえた。

 あの女の泣き顔が、今日に限って頭から離れない。

 幾ら慰めても、泣くのを止めてくれない。途切れ途切れに男の名前を呼び、またむせび泣く。傍らに人がいるのには気付いているらしく、時折縋るように白く薄い手が伸びて着物を掴む。やがて、すうっと消えていく。同時に苦いものを残していく。

 朝日の気配が彼女を追い立てるが、その濃密な悲嘆を和らげる訳ではない。建物の影へ、人の影へ、一度散り散りになって潜む心は、日暮れと共に再び寄り集まって、女の泣き声と、虚ろな形を作る。

(綺麗な人であったのだろう)

 頼定の娘には、寄居人達や夫には見えなかった姿がずっと見えていた。

背を滑る緑の黒髪。瞼はすっかり腫れてしまっていたが、涙の雫を湛えて震える睫毛は美しい影を頬に落としていた。ふっくらとした唇に赤をつけて微笑めば、さぞ優美なことだろう。都に響く美しさであったかもしれない。

 実際、在りし日の彼女がそんな女だったとしても不思議でない。そう思うほど、余りに形がはっきりとして生々しい。

 あれが、人の情が為す(わざ)だという。

(討てる筈がない……)

 しかし。

 今は泣いてばかりの彼女が、寄居の誰かを祟り殺してしまったら。

 都に災禍をもたらしたら。

 自分に牙を向けたら。

 もし。

 誰かが彼女に矢尻を向けたら。

 例えば兄が。

 例えば、白隆が。

(その時、私は死者の前に立って盾になることが出来るだろうか)

 白隆は必要ならば躊躇なく妻諸共討ちそうだ。容易に想像出来てしまって、娘は思わず(うちぎ)の中で微笑んだ。

(……そう言えば、頬を張ったこと、きちんと謝るのを忘れていた)

 寧ろ、すまないと向こうに言わせてしまった。

(分からない人だ。今上の妻に手を出したとか出さないとか噂になるくらいだから、物凄く軽薄で傍若無人な奴だと思っていたのに)

 見た目は成る程、浮薄な貴公子だった訳だが――妖しい存在に寄り添う女の夜道を心配するとは。あの容姿でその実、誠実なのだとしたら娘にとっては笑える話だった。

 ますます自分には荷が思い結婚相手だ。しかし来る夫を門前で追い返すのは流石に気が引ける。というか後が怖い。やはり、白隆が頼定の娘に飽きるか嫌気が差すかして、脚が遠のくようにするしかない。

 これで亡霊を慰める様を不気味だと思われなければ、後はもう彼の目の前で蜘蛛や蜥蜴を食うことになるだろう。他に手が思いつかなかった。後生だから今晩は訪れないで欲しい。

 娘はごろりと寝返りをうち、一つ二つ唸った。すっかり陽が昇ってしまっていた。

「――姫、姫、大変です! 寄居に影が!」

 (しの)の声に娘は飛び起きた。







 ほぼ同じ頃、白隆も寝不足で軋む頭を抱え、明木の三条邸で参内の身なりを整えていた。雲がちらほら浮かぶまずまずの青空。日の光が目にしみた。

彼の乳母は疲れた様子を見てぷりぷりと文句を言った。

「朝のお支度は殿方がお通いあそばせた先が面倒を見るのが通例だというのに。お食事も出さず、まったく何ということでしょう」

 口煩い乳母に、門前で言葉も交わさず別れて帰って来たのだとは言えず、丁重に断ったのだと誤魔化した。

「しかし、若様……」

「一足飛ばしで結婚を了承して貰ったのはこちらだから、そう言い立てるものじゃないよ」

「そんな。わたくしはただ情けないのでございます。もっとご実家の立派な方を娶られて良いところを、津瀬の三の姫だなんて」

 他の誰でもなく、この家の主が強要した相手だった訳だが、乳母は徹底的に気に食わないらしい。小姑のようだ。これで貧民の格好をして夜な夜な亡霊の元へ通っているなどと全容を話せば憤死しかねない。

 尤も、昨日一昨日の白隆も彼女と似たり寄ったりのことを考えていたから、憤りを非難する立場でもないが。

「愚痴はもう良いから、母上のご機嫌でも伺ってきてくれ」

 煙たそうな白隆の口調にびっくりしたような落胆したような顔をして乳母は引っ込んだ。白隆の母は良く言えば鷹揚な、悪く言えば冷めた人だから、乳母が多少誇張して告げ口しようと鼻も引っ掛けないだろう。そう願う。

 それよりも問題なのは父の方だ。津瀬の屋敷に通い始めてからまだ一度も顔を合わせていないが、そもそも彼女を息子の妻にと望んだのは父が先であるだけに、何をどこまで話せば良いか計りかねた。仲良くやっていますよと取り繕ったところで、月日が経てばぼろが出るだろう。少なくともこのままだと孫は無理だ。

 やはり無茶な結婚だった。

 白隆はずきずきと痛むこめかみを檜扇で押した。余計に痛んだ。

「――明木白隆殿」

 白隆ははっと顔を上げた。見れば、廂に見慣れぬ男が佇んでいた。年の頃は同じか少し下に見えた。痩せぎすで白皙。目尻の吊り上った、きつい顔立ちしていた。

「誰か」と、白隆は問うた。

「津瀬の屋敷の者だ」

 男は臆面なく答えた。そして白隆をじろじろと眺め、くすりと笑った。

「頼昭殿か?」

 不快な色を押し殺しながら白隆は再び問うた。

「いや。それは私の主だが、今日は妹の方の使いで来た」男は超然とした微笑で、「あんたの妻のことだが」

「あれがどうした」

「寄居の一件は既に知っているな。今朝方、法師が一人そこに招かれた。莫迦共が、物の怪に女の亡霊を喰わせて一気に片を付けようとしている。法師がへぼならば――恐らく十中八九へぼだろうが、都の人間を半分くらい喰って行くだろう」

 男はこともなげに言った。白隆はさっと血が引いていくのを感じた。

「まさか、あれは寄居に行ったのか?」

「行った」

「莫迦者、一人で行かせたのか!」

 白隆の怒声に男は表情一つ変えることなく、

「私が同行することをあの子が望まないのだから仕方ない。それであんたを呼びに来た」

「私にはああいう類のものが見えない」

 白隆は吐き捨てるように言った。

「知っている。断っても構わない。あの子は多分、私があんたの元へ知らせに走ったと聞けば怒るだろうし。それにあの子が首尾良く喰われてしまえば、あんたは身が軽くなって都合が良いんじゃないか?」

 白隆は男に掴み掛りたい衝動をどうにか押さえつけた。

(あれを見殺しにだと)

 行った先でどういう後悔をすることになるかは大体想像がついた。

 行かなければ後でどんな後悔をすることになるかも想像がついた。

 理屈は色々ある。

「ご苦労だった」

 足早に去ろうとする白隆を見て、男は興味深そうに目を細めた。

「どちらへ?」

「妻の元へ行く」

 それは悪くない。男はにやりと笑った。悪くない奴だ。知らん顔をしたなら、それはそれで面白かったけれども。

 男は白隆を呼び止め、ゆったりとした足取りで近寄った。

「お送りしよう」

「何だと?」

「私の方が早い」

 男の身体は陽炎のように揺らめいた。輪郭がぼやけて後ろの草木に滲み始めたが、すぐに中央に寄り集まって新しい輪郭を作り出した。毛並みの美しい、馬ほどの大きさの犬の形を取った。色は金色。毛先が光に反射して白く輝いた。巨体が動いても床板は全く軋まない。重みが最初から存在しないような。しかし、生き物の温度は間違いなくある。実体も、この場所にしっかりと在る。そういう種類の生き物だった。

 犬は綱のような細い尾を振って、背に乗れと合図した。


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