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白玉抄  作者: 青児
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 向けられた先は白隆ではない。妻は見えない誰かに言ったのだ。

「大丈夫、今夜もたまが参りましたよ」

 はっとして、小径を辿らんとしている妻の腕を掴んだ。何も持たずに進もうとしているのだ。無防備が過ぎる。

 邪魔をするなと言われるかと思ったが、振り返った視線は穏やかで責めるものではなかった。

「大丈夫です」

 この言葉ははっきりと白隆に向けられた。

 おもむろに、白隆は手を離した。

 細く頼りなげな――夜影に半身が溶けているので余計にそう見える――身体を滑らすようにして奥に進んでいく。やがてその途中で屈み込み膝をついた。何かを囁いているようだが、頭の中を嘆きの声が占めてしまって聞き取れない。皆、固唾を呑んで後ろに控えていた。

 直に、わんわんと響いていた高い音が少し小さくなった。女は、白隆の妻は、腕を伸ばして(から)の傍らを撫でさすった。

 ゆっくり、ゆっくり。

 時に、重さを全く感じさせない動きで同じ場所を叩いた。

 ゆっくり、ゆっくり。

 長い時間、慰め続けた。風で蝋燭が何本か消え、足下が暗くなってしまってもその場を離れなかった。

 嘆声はやがて途切れ途切れになり、ひやりとする余韻を残すと完全に消えた。







「奇っ怪だったでしょう」と、戻り道で妻は言った。「何か見えましたか?」

 闇はだいぶ薄く、手ぶらで歩ける時間になっていた。

 並んで歩く白隆は首を横に振った。

「声だけが聞こえた」

「そうでしょうね」

 落胆を感じたのは気のせいか。

「奇妙と思ったことは否定しない。恐ろしいとも思った」

 妻は頷いた。

「あの御方は何十年も前に亡くなって、この世の方ではありません」

「そうであろうな。お前の仕事とは、ああいうものを払うことなのか?」

 悲しさの混じる苦笑で返された。

「私には、退ける術の素養がありません。目を合わせ、言葉を交わし、手を触れるだけです。他は出来ません」

「義兄上は陰陽頭と聞いているが」

「逆さにして振ったとしても、兄から陰陽の術など出て来ません」

 白隆は困惑した。

「私には分からぬ」

 伝説は幾らでもある。鬼を討った話、巨大な蜘蛛を退治した話、夜陰に連なり飛行する怪異の集団に喰い尽くされた都人など。どれも力ある人間が特殊な業で以て退けたと述べる点で共通する。

 妖しい存在は人と対立するものである。古代よりそのように言い伝えられている。人ならぬものに立ち向かう時に闘争と流血は付き物であった。

「ならば、お前はどのようにしてあの声の主を滅した?」

「そんな物騒なこと」と、妻は呟いた。「私はただ慰め申しただけ。他のことはしていません。それに、あの方はまた現れるでしょう」

「声は消えたが、居なくなった訳ではないのか?」

「はい。もう十夜以上、あすこに通っています。朝まで待ってもいらっしゃらない晩もありましたが」

「何という……」

「根の深いことなのです。人の情のことですから」

「あれが何故そんなにあの寄居に拘るか、理由を知りたいな」

 何気なく言ったのだったが、

「面白半分にお尋ねになることではございません」

 妻はぴしゃりとはねつけた。白隆はむっとして、

「化け物のことであろうに」

 と、つい侮りを口にした。妻は即座に目を剥いて応戦した。

「あの御方は今でこそ、ああして人ならぬ身でこの世をさ迷っていらっしゃいますが、元は人です。身体だけが人の世の理から抜けてしまって、情がそれについて行けなかった方です。もう縛られなくても良い理に縛られていらっしゃる。それはあの御方が人としての本質を棄て切れないからだとは思いませんか? それをまるで、卑しいもののように仰って、何と情けないことでしょう」

 白隆は冷笑を浮かべながら、

「では問うが、お前は死者と生者を秤にかけようと言うのか」

 不気味な騒音の中での熟睡は厳しい。あの寄居の住人達は等しく睡眠不足に悩まされている。地方から出て来た者ばかりだから都に伝手もなく、懐は寒いので余所に避難するのも儘ならない。

「下らん。死者の情に生者の生活をあてがうなど」

 白隆は鼻を鳴らして嘲笑った。妻が口を開きかけるが、それを遮るように、

「下位と言えど官吏は官吏、国の礎だ。泣いてばかりの女が苛んで良い道理などあるものか。さっさと討ち払うのが良策だ」

 それも又、間違いではない。

 妻は夫が宮廷人だと改めて認識した。今までは紛いもののように思っていた。

「見えないというのは幸せですね」

 皮肉っぽい口調で妻は言った。夫も負けず劣らず、冷たい言葉を返した。

「その上、情の深い女君を持てて私は幸せ者だ。それに、これほど様々にものが見えて視野が繁雑ならば、私がどこか遠くで浮気をしようと見つけられないだろうからな。まったく出来た妻だ」

「行った先で寝込みを襲われないようになさいませ。貴方のような方でも心の底から情を注いでくれる奇天烈な姫が、まあ来世辺りには現れてくれるかもしれませんからね。軽んじてばかりだと祟られますよ」

「お前は祟るよりも、生きている内に刺してしまいそうだな」

「何で私が貴方を刺さねばならぬのです。大根でも切った方がましです」

 明けの澄んだ空気の中を二人は歩いた。

 大路の方が徐々に騒がしくなって来ていた。(くろ)の衣がちらほらと北に向かって歩いて行く。朝一番の出仕だろう。

「貴方は急がなくて良いのですか?」

 この問いも皮肉だ。喩え日暮れに出仕したとしても、公然と白隆を責める官は実父以外に在るまい。だが彼が参内するのは大抵陽が高くなり始めた頃だ。早いと周りが要らぬ気を遣う。

 白隆は薄い唇で上品に微笑んだ。

「貴女を門まで送る余裕くらいありましょう。――ところで、いつも衣も扇もなくこんな時間まで一人で外を歩いているのか」

「え?」

 妻はぱちぱち大仰な瞬きをした。わざとだ。

「頭の悪そうな顔をするな」

「貴方こそ供の方をつけずにお出でになるでしょうに」

「私はお前と違って、首の骨を折る術を身に付けているから構わない」

 おや、と妻は意外に思った。見るからに、筆より重いものは持ったことなどないという上品な姿なのに。整備済みの出世街道を進行中とは言え、近衛は近衛か。

(欠点はないのか、この男は)

 冥土の父と右大臣、不本意ながら今は義父に、言いたい。夫は私にとっては重過ぎますと。

「討ち払えないのなら捨て置け。じきにその道の者があの女を上手く黄泉に送るだろう」

「そんな無責任なことが出来ますか」

「せよ。夜分に一人で外へ出るな」白隆は至極真面目に言った。「いつの世も、真に恐ろしいのは生身の人間だ」

 それから夫婦は津瀬邸の門前で別れるまで一言も口を利かなかった。





 その道。

 鬼を見、呪詛を操り、星を観て未来を言い当て、病を直し、災禍を鎮めるという。政の場では欠かせない存在だった。そういう時代があった。今は失われている。

 人は総じて鈍くなった。感ずることが出来ないのだ。道行きの途中で女が鬼に食われたり、左遷先で死んだ男が怨霊と化して内裏に雷を落としたりという類の話は波が引くように消えてしまった。

 単に人が鈍くなったから、百鬼夜行も生き霊もなくなったように思うのだ。見えず感じないだけで、そこここの闇に今も存在することは昔と変わらない。

 と、言う者もいる。

 反面、弱体化したのは人ならぬもの達の方だと言う者も在る。人が恐れなければ存在出来ないもの達なので、関心の薄れた昨今、多くは形を留めておけなくなって消えたのだ。

 真相はどちらか。恐らく、どちらもであろう。

 そんな時代にも、禍々しい存在を視認出来る者は僅かばかりいた。殆どは市井に在って、払い屋とか退魔法師とか好き勝手に名乗っていたが、まともな者は聞く限りない。頼定の娘は「まだまし」な方である。少なくともぺてん師ではない。

 乾水(けんすい)法師も「まだまし」な払い屋である。山深い寺で長く修行に努めていたが、ある日出奔して野に下った。壮年を幾らか過ぎて白髪も目立つ。都に入るのは生まれて初めてのことだった。

 招いたのは、あの寄居に住む一人の衛士である。都の正門、胡成(こせい)門で他の衛士や官吏に混じって乾水を待っていた。

 臣民が都を出入りするには、どうしても胡成門を通る必要がある。開門は通常、朝夕の二回のみ。出入りの審査は厳しいものだった。特に都の外から無官の者が入る場合は。

 如何なる次第でか、審問官達を巧いことやり過ごし、乾水は入京を許された。衛士がこっそりと彼に近付き、

「お待ち申しておりました。どうぞ我らをお救い下さい」

 と、涙目で懇願して寄居への地図を握らせた。

 ――もう、これ以上あの妙な女には任せておけない。

 衛士は誰より切迫していた。

 乾水は尊大な様子で地図を受け取ると、その寄居へ赴いたのだった。

 果たして、屋敷には気鬱が悪化して身体にも不調を来した者が三人ほど休んでいた。長引けば官位を剥奪され、都での居住権も失いかねない。彼らには、生死の懸かった問題だった。

 乾水は屋敷を一巡りし、姿なき声を慰める女の話を訊いた。

「怨霊と親しげに話します」

「肩を抱くようにします」

「さすって慰めているのです」

 乾水は首を傾げた。

(はて、そんなやり方は聞いたことがない)

 或いは、物の怪同士が手を組んで住人を祟り殺そうとしているのか。

 女の払い屋というのも、腑に落ちない話だ。市井では珍しくもないが、彼女達は儀式と称して身体を売る。客も承知でそれを買う。乾水も若い頃は払い屋や巫女を買った。

 しかし、ここに来ている女はそれらとは違うらしい。

(まあ、かたりには間違いない。怨霊が下手に気分を害していなければ良いが)

 一先ず、乾水は怨霊を邸内に留めようと塀の内側に札をばらまいた。床についている寄居人達にも同じ札を握らせた。

 頬がげっそりとこけた男が不安げに訊いた。

「これは、何です?」

 乾水は太い声で、

「夜が明けて、怨霊は影に沈み隠れてしまっている。これから物の怪を放して追い立て、喰わせるのです」

「も、物の怪!?」

「誤って貴方達を喰ってしまわないよう、札は握っていなさい。大丈夫、すぐ終わる」

 その場にいた男達は札がくしゃくしゃに縮むくらい強く掌を握り締めた。

続いて乾水が懐から取り出したのは、薄汚れた竹筒だった。手垢や正体の分からない汚れにまみれて黒光りしていた。どす黒い。何か禍々しいものが内側から滲み出て来ているようにも見えた。口には紙が何重にも貼り付けてあってそれを蓋としていた。

 物の怪に物の怪を喰わせるやり方は、太古から受け継がれる秘術。だが、時の流れと共に多くの「道具」が、在るべき場所から力のない者、或いは未熟な者の手に渡った。それにも拘らず、人の世が崩壊する兆しを見せないのは、やはり人の力だけでなく、人ならぬもの達の力も弱り消え失せつつあるという仮説の証明なのかもしれない。

 乾水は寺の地中よりその秘術を掘り返して数十年、一度も術をしくじったことはない。己が本物の術者か否かを疑問に感じた経験もない。震え上がる凡人を傍目に物の怪を操るのは代え難い悦びだった。筒に閉じ込められた物の怪は決して大人しくはない。乾水の気分一つで都を空にすることも出来るし、加減を間違えれば真っ先に乾水が飲み込まれる。

 そういう危うい存在を己は意のままに御している。まず、他のものでは味わえない愉悦だ。

 筒を釣殿の日陰に翳すと、冷えと微かな振動が乾水の腕を這った。中の物の怪は大層興奮しているらしい。この度の相手は随分気配が薄いように感じるが、一体何が気に召したのか。

 ――びり。

 乾水はぞんざいな手付きで蓋を開け放した。病床の男達は息を呑んだ。

 乾水にだけ、見えた。

 黒い影。陽が作るより更に濃く、夜のものより深く、粘り気のある黒い影の塊が乾水の鼻先を掠めて口から飛び出した。そしてあっという間に膨れ上がった。胴体は蛇のようであり、頭部は巨大な猫のようである。影はいつも姿を変える。いつも不格好だ。形の定まらない尾をずるずる引きながら筋肉をほぐし、獲物に食らいつく好機を悠々と待っているようだった。乾水には物の怪が何を考えているか、面白いほどよく理解出来た。

 悲鳴は突然轟いた。


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