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白玉抄  作者: 青児
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 敢えて、彼の言い訳その他は省く。

 二夜目、白隆は妻の家に在った。そして庭で妻に会った。

「げ」

 言ったのは妻の方である。

 彼女は対屋から庭に下り、今まさに外出する所だった。着物は昨日と同様の簡素なものだった。渡殿から自分を見下ろす夫の姿に唖然としていた。唖然とされた夫の方も唖然としていた。

「心外だ。己が妻を訪ねて何を驚かれることがあろうか」

 そんな夫婦を見て、さっき白隆を迎えた女房の篠はくすくすと笑った。

「今日も出掛けるのか?」

 妻は首肯した。

「ですので、今夜もお相手は出来ません。どうぞお引き取りを」

「いや、同行しよう」

 申し出に妻は目を見張った。そして険も露わに、

「お引き取りを」

「理由は」

「白隆様にはご理解頂けぬ生業ですので」

「それは目にしてみなければ分からん」

目に出来ない(、、、、、、)からそう申しております」

 ばちばちばち。

 すると、白隆はにやっと口角を上げた。猫の皮を全部脱いでしまっている状態なので、美貌に裏打ちされたその笑みは一層悪く見える。

「屋敷の外に出てしまえば、お前に行いをとやかく言われる謂れはないな。喜んで退こう。門を出たら勝手について行く」

 妻は唇を真一文字に引き結び、速足で門に向ってしまった。白隆はその背を見つめ、歯を零して笑った。

 二戦目は夫の勝ちとなった。







 南へ歩いた。道中すれ違った巡回の検非違使は、夫婦を妻問(つまどい)に行く主とその従者と思ったらしい。被衣もなく歩いているのだから無理もない。無論、凹凸が余り目立たない身体つきであるのも理由の一つだ。誰の、とは明確にしない。

 辿り着いた先は下位の役人達が共同で暮らす寄居(よりい)だった。広いことは広いが庭草は生え放題伸び放題、家屋もかなり痛みが激しい。今はここに十二人が起居している。

 下手な宮仕えは時に市井の暮らしより悲惨である。寄居に入っている者の多くは望みのない出世に期待して日々を送っている。故にそこを寄居、つまり仮住まいと呼ぶ。いつか宮廷に近い北の邸宅地へ身を移せるように。

 夢物語のようでも、都の南から人が消えたことはない。

 斯様な寄居人(よりいびと)からすれば夢の中の雲に立つ人、明木白隆は物珍しそうに荒れた家屋敷を眺めた。

(ここに人間が棲めるのか)

 などと優雅に考えていた。その端で畏まった住人達は当然ながら、来訪の貴公子に肝を抜いたり潰したりしていた。

 中の一人が意を決した様子で、ここ最近常客になった女に話し掛けた。

「こ、こちらの御方は……」

「どうぞ気になさらず。岩か割れ椀とでも思っておけば宜しい」

 それはかなり難易度が高い。

 あってないようなものか、或いは役に立たないものとして扱えば良い。その皮肉はしっかりと白隆の耳に届いた。異空間への好奇がやや薄れ、妻が男所帯へ出入りしている事実に不信感が再燃した。

「それで、まだ今夜も止みませんか?」

 女は落ち着いた声で訊ねた。男は恐縮を解けないまま、

「はい、その、まだ聞こえます。今日も釣殿の向こうから」

「では行きましょう」

 その後に寄居人達も幾人か、ずるずると連なって歩いた。

 途中、白隆は妻に訊ねた。

「何だ?」

「……先々月の終わり頃から、ここで女の啜り泣く声が聞こえるようになったのです。時間は決まって夜更けで、晴れの日は特に酷い。そして声はすれども姿は、というもので、この屋の誰にも何も見えないのです」そこで一端言葉を切り、「今、白隆様が考えていらっしゃることを当てて差し上げられます」

「それは凄いな」

「やはりお帰りになられては?」

「断る」

 女はそっと溜め息を吐いた。いや、盛大に、の誤りである。白隆にも彼女の思考は当てられる。ついて来て欲しくなかった、とかそんな所に違いない。

 釣殿は既に貴族的な役割を放棄して久しい。泉は水を引いていないので枯れてしまったし、張り出した部分の床の隙間からは草の頭が覗く有様である。辛うじて泉の名残を思わせる地面の窪み、そこにわらわら生える雑草の群生には踏み慣らした細い小径(こみち)があった。(みち)の入口で寄居の男は足を止めた。

「女の声など」

 聞こえないぞと言いかけた白隆は口を噤んだ。

 ひく、ひく、と喉の鳴る音を聴いたのだ。気のせいかと思ったが、鼻を啜るくぐもった音に背筋が粟立った。

(反響している)

 音がぶつかる壁などない。だのにどうして重なり合うように聞こえるのか。時折混じる嗚呼という嘆声(たんせい)は二重にも三重にも響き、薄い氷の膜を重ねるように白隆達を襲った。

 細い声は誰かの名前を呟き一層激しく泣いた。名前の音に泣き声が被さるので何と言っているかは分からなかった。今や荒波の勢いと同じだった。

 灯りを持つ寄居の男はがくがく震えていた。ぶれる陰影の先に誰が居るのか。白隆は目を凝らした。しかし夜闇が深過ぎて釣殿の奥の柱さえ見えなかった。

「誰か釣殿の燭台へ火を入れてここを照らして下さい。他の方はもう一歩後ろへ下がって、声を出してはいけません」

 女は幼さの残る顔にそぐわぬ引き締まった声で冷たく澱んだ空気を両断した。がっしりとした男が転げるように進み出でて釣殿によじ登り火を点けた。ぽつぽつと橙の光が滲み、一帯は明るくなった。

 小径の先には誰の影もない。折り重なる泣き声だけが続いていた。

 白隆には見えない。見えないということを知ったに過ぎない。手にじっとりと汗が滲んだ。

「大丈夫ですよ」

 驚くほど優しく妻が言った。


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