-4
東の空に掛かった雲に影が少し浮かび始める頃、彼女は帰邸した。部屋の灯りは消えているようで、あのいけ好かない夫は帰ったか別の女の元へ行ったのだろうと思った。
御簾を捲ってく中に入ると、板の間に大の字に寝転がっている男の影が先ず目に入って来た。
居たのか。というか何故居るのか。
夫は眠ってはいなかった。戻った妻の顔を目を凝らして見つめた。外さえまだ薄暗いのだ。何をそんなに見るものがあるのだろうと妻は思った。
今、表面にこそ出ないものの、白隆は落ち着きを欠いていた。帰って来たらどうしようと考えに耽る間に彼女が帰って来てしまったのだ。殴られた側の挙措とはどういうものが正解なのか分からない。
これは妻の方も似たような心境であった。混乱していた。権力の権化に手を上げた自らの行いに今更ながら大混乱だった。掌を意味もなく握ったり開いたりして、視線を盛大に泳がせた。
部屋が暗くて良かったと二人は思った。
ややあって、白隆が荒っぽい仕草で上半身を起こしたので、娘は肩をびくりとさせた。彼女は莫迦なことに、
(このまま殺される!)
と半ば本気で考えていた。ある訳がない。
白隆は何だか自分が来た時よりも覇気の薄れた妻を奇妙に思った。彼からの制裁を恐れているとは見当もつかなかったので、
「どうした? 寒いのか」
と、訊いた。
「いいえ……あの、何で……」
震える声に白隆は一瞬戸惑ったが、このままここで朝日が昇り切るまでまごまごしているのは御免だった。この情けない面を見せるのは矜持が許さない。
すらりと立ち上がった彼は妻に一歩詰め寄った。彼女は身体を硬くして身構えた。
「先程はすまなかった」
謝罪の言葉は言い慣れていない。何故こんなに気まずく落ち着かないのだと当てる場所のない苛立ちを感じた。
「いえ、こちらこそ申し訳―――」
白隆は彼女に最後まで言わせなかった。物凄い勢いで歩を進めたかと思うと、御簾を掻き分けて出て行った。
眼の奥が痛い。
寝不足のまま参内した白隆は、急を要する書類だけ適当に片付けると私室に引っ込んだ。官位の高い者は宮廷内に個人的な部屋が与えられる。使い方は様々で、仕事部屋とする者もあれば、下働きの女官を引っ張り込む者もいる。概ね呑気なものだった。
今日はもうここで独り心を休めていようとしたのだが、午を過ぎて間もなく、客があった。
「少将の君」
呼び掛けに白隆は唸った。
「何だ。今日はもう仕事はせんぞ」
「左様ですか。では、ちょっとお邪魔致します」
言葉は慇懃だったが無遠慮な所作で彼は入って来た。脇息にもたれる少将の向かいにどっかりと腰を下ろし、にやにやと笑った。
「ご結婚おめでとうございます」
「煩い」
客は笠岡義次。少将の乳母の次男で長い時間を彼と過ごした。髪も肌も色が薄く、小柄で細身なので儚げな印象を与える。実際は白隆も辟易する健啖家で大酒飲み。病弱とは縁遠い。
「で、どんな凄い美人だったんです?」
義次の質問に白隆は目をぱちくりさせた。
「は?」
「噂になっていますよ。貴方が右大臣の命とは言え、御手をつけにわざわざ通われたのだから、きっと凄い美人なのだろうと」
「……思い出したくもない」
「顔は美しくても性格は意地悪い方だったのですか?」
「違う」
何か色んなものが少しずつずれたり、曲がったりして伝わっているらしい。噂とは総じて不本意な方向へ化け増えていくものと分かり切っているが厄介だ。
白隆はうんざりした。
「大体、通い始めたのは昨夜からだ」
「では、ご覧になっていないと?」
直截な言葉に白隆は閉口した。幼馴染みは気兼ねがない分、己を取り繕うのが難しい相手である。
結果、話した。
「見たよ。顔は、そうだな、目が大きかった。顎が細くて、口元にほくろが一つあったな。美人でも何でもない。子供だ」
「白隆様……楊貴妃も藤壺の女御も昔は皆子供だったのですよ」
「お前の言わんとしていることは分かるが、それにしたって程度がある。あれは容色如何というより、性根の問題だ」
「へえ。どのような方でした?」
どう? 彼女に適切な表現があっただろうか。女の性格を褒める言葉と言えば、女らしい、たおやか、品がある、気遣いが細やか―――駄目だ、どれもそぐわない。
「子供だ」
それしか言えない。
義次は失笑した。どうやら一筋縄ではいかない事情があるらしい。
悪いことではない。
白隆は妻を何一つ理解していない自分が嫌になった。昨晩を限りに二度と通わなければ良いだけの話なのだが、その辺りのことは彼の頭からすっかり抜けていた。
「義次、お前、三の姫について他に何か聞いていることはないか?」
「白隆様の方がご存知だと思うのですが」と、義次はにこやかに言った。「ご本人のお話は、この度のことがあるまでとんと噂に上りませんでしたね」
件の婚約話は頼定が鬼籍に入って以後、やはり「最早有り得ないこと」として公然には処理され忘れ去られていたのである。
「同腹の兄と姉二人がいるのは知っている」
「ああ、兄君は陰陽頭の頼昭様ですよ」
古い時代の名残で、陰陽寮というものは未だに存在している。但しこの時、所属は頼昭を含めて四人しかいない。閑職中の閑職と言って良い。
姉二人は何れも五位の中流貴族の元へ嫁いでいる。
「改めて考えると、私は妻自身のことを何も知らん」
義次はむすっとした少将に微笑んだ。
「構いやしないでしょう。これから知り合えば良いのです。私は何だか、お二人が上手く行くように思いますよ」
少将はそんな莫迦な、と思った。今、都中で一番上手く行っていない夫婦は自分達に違いあるまい。
「お前、その自信は一体どこから来るんだ?」
義次は誇らしげに、
「そりゃあ、私は由緒正しい中流官吏一族の生まれですから」
そう言った。