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白玉抄  作者: 青児
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 頼定の娘は右大臣の子息の目に自分がどう写ったかを察した。口元はしっとりと微笑んでいるが、眼には隠し切れていない侮りの色がある。身分、容貌、そして立ち居振る舞い。あらゆる部分で噛み合わせの悪い妻であることははっきりとしている。

「貴女はとても面白い方だ。今の都で貴女のような方を探すのは難しいでしょうね」

 しかし、と白隆は一段低い声で続けた。

「こうして私の妻となったからには、好まずともそれなりの体裁を整えて頂く。貴女は将来御上にお仕え申す子を産むかもしれぬのです」

 女は屹然とした様子を崩さないまま、

「ご心配には及びません。私が白隆様の御子を授かることは一生ないでしょうから」

 吐き捨てるようにそう言うと、白隆の横をすり抜けて部屋を出て行こうする。白隆は反射的にその手を掴んだ。

「待て!」

 思ったより細い手であった。

「どういうつもりか」

「どうもこうも。白隆様はこうして寝所に入って私の顔をご覧になった訳ですから、もう十分でしょう。義理は果たして頂きました」

 何て女童(こども)なのだ、と白隆は思った。

「そういう問題ではない」

「いいえ、これで良いのです。御自身の色事の問題に私をこれ以上巻き込まないで下さい」

 白隆の柳眉の根が寄った。娘は腹の中でほくそ笑んだ。

「当世では殿方は幾人もの方と結婚するもの。お気遣い頂いた三条様には心苦しいことですが、私のような者を離縁しようが捨て置こうが誰も貴方を責めますまい。つきましては、私との夫婦生活はこれにて終了ということで、どこか余所に、貴方の望む体裁を産まれ持っていらっしゃる方の所にお通い下さい」

 痛烈な言葉だった。だが尤もだった。私を捨てないでと袖に縋られ悋気を起こされるよりも遥かに楽だと寧ろ喜ぶべきだ。

白隆は苛々と妻を睨み付け、無意識に彼女の手を掴んだままの指に力を入れた。

「いたっ」

 甲の骨が圧迫される痛みに彼女は思わず声を上げた。白隆ははっとして手を放した。

 彼が臍を曲げたのは、偏に貴公子の自尊心を叩き折られたからに過ぎない。要するに、女からいい加減な扱いを受けたのが口惜しいのであった。顔も家柄も良い男の性格は非常に厄介なものだった。しかし一先ず、頼定の娘は夫に一勝した。

 潔い勢いで背を向けた妻に白隆は苦し紛れに声をかけた。

「それで我が女君(おんなぎみ)は何処へ行かれるのか。母屋で独り寝か? それとも、貴女も誰か慰めてくれる別の良人(おっと)の元へ泣きに行くのか?」

 妻は振り返った。月のまろい光を浴びた片側の頬は陶器のように滑らかに見えたが、軽蔑を携えた輝きだけにぞっとするほど冷たい表情だった。

「そうしたいのは山々ですが、こんな身でも忙しいものでして」

「何?」

「仕事です」

 女人の仕事とは家政が第一となる。貴人の娘ならば第二は入内を含む後宮勤めで、それ以下はない。息女が庶民と同等の労働に勤しむというのは没落の極みであると同時に恥の極みでもあり、大抵はそうなる前に地方の豪族に嫁がせるものだ。反面、世間の口には上らない仕事も割と多く存在する。特に下級役人などは、縁故による昇進を狙って娘を上役の愛妾にさせる者が多い。上流でも下流でもやっていることの質は大して変わらない。

 仕事と聞いて白隆の脳裏に真っ先に浮かんだのが、この妾職とでも言うべきものだった。彼らの常識や道義は彼ら以外の者達とは隔絶されているので、仕様がないと言えば仕様がないのだが、白隆はぽつりと本音をそのまま言ってしまった。

「卑しい女め」

 短いが重い沈黙の後、平手が頬を張り飛ばす音が炸裂した。妻は眼を爛々と光らせ、張った方の掌をさすった。思いの外、痛かった。

「恥を知りなさい」

 怒りよりも興奮を多く抱いて妻は外へ出て行った。

 残された夫は衝撃で動けなくなっていたが、やがて叩かれた頬にそっと手をやった。力は弱かった。今はもう痛くも熱くもなく、感触も残っていない。幼い時分に父母から受けた躾を思い出した。今まで二十年以上誰かから手を上げられた覚えはない。しかも通った先の女になど。

 彼女は傷付いた顔をしていなかった。酷く怒っていて、軽蔑も露わにしていて。

 それはある意味、泣かれることよりも後味の悪いことだと彼は知った。


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