連なる一郎たち
4.連なる一郎たち
4‐1.一郎ちゃんと天場と一郎さんとテンちゃんとイチロー
「え? 他に……?」
「誰かいたっけ?」
「コロの弟とか? 俺アイツと相性悪いんだよな」
「それだったらお前を刺すんじゃね?」
「ソラの使用人たちは? 将来、こんなのにこき使われるとかたまったもんじゃねえ、ならいっそ芽は早い内に……みたいな」
「それを実行に移したら、現在のご主人様から死ぬより怖い目に遭わせられるだろうな」
チサトさんの思わせぶりなセリフを吟味してみたが、誰のことを言っているのかさっぱりわからなかった。
「あ、俺たちの中の誰かを疑ってるとか?」
「いや、それは真っ先に否定されたはずだろ?」
「違うわよ。でも惜しいわね」
チサトさんは簡単な問題を間違える劣等生を相手に人生の何たるかを説くかのような疲れた仕草をして見せる。
「誰かひとりが犯人だということに無理があるなら……全員犯人か?」
「それはおまえ自身も含んでるんだろうな?」
「じれったいわね。イチローが犯人って可能性があるでしょ?」
「え? 俺?」
チサトさん担当のイチローがいきなり呼ばれて反応する。
「ああ、ええと、そっちじゃなくて……あんたらがホンタイって呼んでる方のイチローよ」
「え? だってあいつを探してるんだよね?」
「で、一郎が天場一郎を殺すってことは……」
「まさか自殺?」
「死んでるのに俺たちを殺しにくるのか?」
「勝手に殺すんじゃないの。誰もイチ……ホンタイが被害者になっただなんて言ってないでしょ」
言われてみればそうだ。音信不通になっただけだ。
「つまり、自分の意思で姿を隠してるってこと?」
今度は物分りの良い生徒に対する教師のように鷹揚に頷く。どうも教師は教師でも簡単な問題を解いても大げさに褒める小学校教師風なのが気になるが。
しかし、ホンタイが女の尻を追っかけて帰ってこないなんて珍説は即効で却下していたものの、「帰ってこない」のと「隠れている」は込められた意味合いが異なってくる。ある目的のために結果的に帰ってこないならば暢気な理由も推測できるが、目的を果たす手段として隠れているとなると途端に剣呑さが見えてくる。
それに、俺たち分裂体が犯人であり得ないとする根拠には、ホンタイを殺してしまって、分裂しただけの自身がどうなるかわからないという不安があった。だが、主従をひっくり返した場合にはそこまでの危険性を感じないとしても自然だ。
もちろん、ホンタイが俺たちを殺そうとしていると仮定してもすっきりいかない部分もある。
「え、でもそれっておかしいでしょ? なんで俺が俺を殺すのさ?」
そう、動機の問題だ。自分を殺すことに何の意味があるのか。
俺たちの視線を集めながらもチサトさんはたじろがない。
「あんたたちが可愛い彼女と連れ立ってどっか消えていくのをホンタイ――あいつはどんな想いで見ていたのかしらね」
「え、そ、それは……」
それはまったく異質の緊張を呼び込んだ。常に女に置いていかれる存在である「本体」。しかし、恋という幸せを享受できないまま「天場一郎」の影に沈み込み、自らが決して出られない日の当たる側との隔絶を感じていく。冷たさ暗さが育てた彼が「分裂できない者」そのものとしての自我を持ち、嫉妬から恨みへ、今も息を潜めて一郎たちの鏖殺を狙っているのかもしれない。
俺たちの誰も咄嗟に言葉を探せなかった。言われて初めて気づいたことだ。今では5人もの彼女持ちである天場一郎も、そのホンタイだけは孤独なのだ。触った端から自分のものでない肉体が自分に心を寄せてくれている女性と消えていく。そんな状況がずっと繰り返されてきた。言い知れぬ寂寞感が押し寄せていたとしても不思議ではない。
ただし――
「そうだ! 俺たちは分裂するまではあいつと文字通り一心同体だ。それもホンタイが姿を眩ますまでならたかだか数時間しかない。だからそんな強烈な心境の変化があったらわからないはずがないよ」
一郎さんがまさに俺が言おうとしたことを代弁してくれた。残りの皆も同じだったらしくしきりに頷いている。
「ところが、あの日に限ってはそれが成り立たないのよ」
「え?」
「あの日、天場一郎は新たな変化を迎えた」
そう言って、チサトさんは外見年齢と懸け離れた色気でイチローへと流し目をくれる。その日起きた新しい変化……ああそうか!
「イチロー、お前が出てきた。それを見て――え? どうなるの?」
俺たちにとっては1人増えようが2人増えようが大差なく感じる。イチローの前がトナ担当で半年も経っていない。だからそこまで劇的な変化をもたらすとも思えなかった。
「不正解。あの日、天場一郎はアタシと運命の再会を果たしたのよ!」
「……はい?」
再会した。それは良いだろう。イチローが出てくるためには、チサトさんがホンタイと接触し、引っ張り出す必要があるからだ。だけど、それが運命の再会って……まるで俺らがチサトさんを何年も心待ちにしていたようじゃないですか。
俺たちが付いて行けていないのにもお構いなし。自分の頭の中だけに広がる自己中心的ストーリーを臨界突破しまくりでだだ漏れさせ続ける。
「やっと二人が結ばれると喜びも束の間、突然現れた新たしい男が幸せを横から掻っ攫っていくのよ! その名はイチロー、近くて遠い存在よ! ああ、自分にはもう未来はないと諦めてしまったホンタイは――」
「未来なくなったのって、むしろイチローじゃね?」
思わず口に出してしまったが、チサトさんはまるで聞いていなかった。
「――絶望に駆られたホンタイのイチローは生きていく価値を見失い、道連れを探して彷徨っているの! いずれアタシが分裂現象を食い止めて見せるのに……バカなイチロー……!」
「チサトさんって結構バカかもなあ」
「なんでそんな自信に満ち溢れてるんだろ」
「そこ、聞こえてるわよ」
チサトさんがいつまでも酔ってると油断したやつらが一瞥で震え上がった。バカなやつらだ。
「当然、統合してからも教育的指導が必要よね。むしろそっちが本番で」
はぁ……ホンタイ死んでてくれないかな。俺がとばっちりを受けないために。
「この期に及んでホンタイがいなくなれば良いのにっていう心境がわかった気がするよ」
「そうだな……とりあえず俺たちはターゲットじゃないっぽいし」
「俺はホンタイがお前らを消したい気持ちがわかりそうだよ」
「あいつがこれ聞いてたらどう思うんだろうな」
「そういや、忙しくて電話してなかったな。繋がるかな?」
俺はケータイを取り出し、ホンタイの番号を呼び出す。まず発信音が聞こえる。続けてコール音。
繋がっ――たという歓喜の声はかき乱された。まさか、このタイミングで……。
プルルルル……プルルルル……
標準で設定されていた普通の呼び出しのアラームだった。
それはいまどき珍しい程にありふれた。
だけどよく耳にする。
だってそれは――俺のケータイと同じだから。
回数にして3回半。素っ気無い機械音が途切れる。そして、俺の耳元でのコール音もプツリと消えてしまう。偶然で片付けてしまうには余りにも異常な出来事だった。
俺はその場にいた全員を見渡す。もしも、何かの間違いで俺と同じケータイの着信音が鳴ってしまった奴がいたら名乗り出て欲しかった。そんなことはありはしなかった。ただあったのは、同じ結論に行き着いた青ざめた俺と同じ顔だけだった。
天場一郎の本体が、今現在、この場所に、存在している。そして、その事実を隠そうとした!
たまたま帰ってきたなんてことじゃないのは明らかだった。そう考えるには、なぜなんでもないように姿を現さないのかが解けない。
俺たちの力量はほとんど一緒だ。しかも、それが5人いる。
1人が相手をするとして5人もいるのだ。対等の力を持ちながらも数で圧倒されている場合に、絶対的勝利を掴むにはどうしたら良いか。
その答えのひとつは――「暗殺」だろう。どこから襲い掛かってくるのかわからない相手を手玉に取るために、姿を隠す。それは思いついてしまえば至極真っ当な流れであったように思えてくる。
「遅れてごめん、いやあ、そこで電話鳴っちゃったけど、今更? って感じで切っちゃったよ。はっはっは」
そんな風に爽やかには現れてくれない。突然電話が掛かってきたことに怒っても良いから、宥めすかしなんでもしてやるから、ただ今は隠れてないで出てきて欲しかった。
でないと、隠れる必要がある物騒なことが頭の中で大きくなっていくばかりだ。チサトさんの冗談みたいな妄言は現実と交差していたのか?
現実はどこにあるんだ。分裂なんてこと現実に起こりえるのか。夢ならば醒めない悪夢か。これが悪夢ならばいつから始まっていたんだ。一郎が消えた時からか、チサトさんがひょっこり帰って来た時からか、トナに放り投げられた時に本当は死んでいたんじゃないのか、ソラに、オミに、コロに……どこから始まっていても、すでに終わりなんて望みようもないじゃないか。
みしりっ……。
それはほんの小さな音、誰かが体重移動をしただけでも鳴る程度の僅かな軋みだったろう。だが、息をするのも躊躇われるほどの静寂によく響く、日常に走る罅そのものだった。
それはただの空耳だったのかもしれない。俺たちは思い思いの方向へ目を走らせている。聞こえない音を聞き、見えないものを見る。冷たい汗が俺を支配する恐怖を知らせていた。
どのくらいじっとしていたのかわからないが、動いたのはチサトさんだった。
「おしっこ」
俺たちの注視を受けて彼女はさらりとそんなことを言う。
とたんに馬鹿馬鹿しいほどの張り詰めが緩み、力が抜けていく。
「もー、そんなびくびくしてちゃ動くべき時に動けないわよ。もっと普通に、リラックスしてなさい」
俺たちの緊張を解くためにやってくれたことのようだ。
「あ、おしっこはホント」
羞恥など微塵もなく平常心丸出しでトイレへととたとた小走りに移動していくチサトさんを見守る……というのもおかしいので反射的に目を逸らす。
と、その意識の間隙に不意打ちを食らった。
ガタン!
確かに聞こえた物音は俺たちの誰かが発したものではなく、また屋外でもない。家の奥の方からの突然の大きな音に今度こそ戦慄が走る。
動物は飼っていない。誰もいない。鳴る筈のない音がしたのだ。
あっちは裏口だ。鍵は掛けてある。鍵を持っている人間はいる。この場にいないあいつが持っている。俺と同じ鍵を、この鍵と傷まで同じな、普通のスペアキーではありえない鍵を持っているのは、天場一郎だ!
もう隠れるのも限界だろう。俺がそう考えれば、相手もそう考えているはずだ。ならば逃げるのか? だがもしも恐ろしい目的を持っているのならば。逃げ隠れも潮時だと開き直ったならば。
次は強硬手段に打って出る――そこまで考えた瞬間、物陰から飛び出した何者かがチサトさんに踊りかかった。
「チサっ……!」
警告を発しようとした時にはすべてが終わっていた。
思い出した。俺がチサトを苦手に思ってた理由。性格がどうとか、アプローチがこうとか、もちろんそういうのもあるけれど、もっとシンプルな、子供心に深く植えつけられる強固な理由があった。
「ウウッ……!」
床で苦悶の呻き声を漏らしているのは、金髪の一見して欧米系外国人。圧倒的力の前に屈服し、後悔の海で溺れる愚者。いや、打ち上げられた海獣か。その巨躯を横たわらせた姿はそちらの表現が似つかわしい。
2メートル近い大男の足元に、死人のような目をしたチサトがいた。焦点の合わない病的な眼は、どこも見詰めず――ただすべてを見渡す。大男が掴み掛かってきたとかそういうことは関係なく、ただその視界を掠める敵を、意図的な反射という武の極みで叩き伏せた現実を、足元に転がる異国の男が物語っていた。
「いや、相変わらずというか……」
「思い出したくもなかったというか……」
「近所の姉ちゃんに放り投げられ宙を舞う幼少期なんて黒歴史確定だよな」
「あの経験があればこそ信じられる光景でもあるのかもしれないな」
「端的に言ってバケモノ過ぎる」
「いや、今のは俺じゃない、あいつあいつ」
ぎろりと睨み付けてきた鬼神に恐れをなして言い逃れをして罪を他人になすりつけようとしたとしても責められないことだろう。
滅茶苦茶強いのだ、この人。当時でも大人が敵わなかったくらいだ。1ミリも身体は成長していなくても、その破壊力は磐石、いや、この結果を見ると磨きを掛けまくった金剛石だろう。
「ていうか、今6人いなかったか?」
直前のセリフをカウントしてみる。反射的に出た言葉なのでひとりひとりが短い。その割りに繋がっている。
「……確かに6人分だな。えっと、1、2……」
声のした方を指差して数を数えていくと、裏口へ抜ける廊下で手が止まる。その方向には、チサトさんと大男が。つまり、大男が飛び出してきたのはそちら側なわけで。
誰のものともつかないゴクリと喉を鳴らす音がした。
しかし、俺たちの緊張とは裏腹に、電気のスイッチを入れ、この3日間散散探し回っていたそいつは堂堂と出てきていた。観念したのだろうか。
「おい、今までどこ行ってたんだよ!」
「待て! それ以上近づくな!」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。誰かが思わず声を掛け、一歩を踏み出そうとしたところだったからだ。近づくなって、普通逆じゃないのか。
「こうして姿を見せたのもあんまり近寄られると困るからなんだよ。頼むからもうしばらくそこから動かないでくれないか?」
咄嗟に出てしまった大声が与えてしまった緊張を解すためだろうか、柔らかな物腰になっていた。
俺たち全員を目で確認すると、照れ笑いを浮かべてそいつが逆に一歩近づいてくる。
「ごめん、こそっと寄るだけのつもりだったんだけど……」
ちらちらとチサトさんの方を伺いながら姿を現したのは消えた時と同じ格好の――天場一郎だった。
4‐2.一郎ちゃんと天場と一郎さんとテンちゃんとイチローと、一郎
射抜くようなチサトさんの目を避けながら姿を現したのは、活躍場面を取られて益体も無く立っている俺たちと同じ顔をした天場一郎だった。これで本体、分裂体合わせて6人全員集合したことになる。
「やれやれ。今も言ったけど、お前らは近づかないでくれよ。今更統合したらせっかくの苦労が水の泡だから」
「は? まあ、いいけど。こっちもその口から直接釈明を聞きたいし」
「オーケー。こうなったら説明くらいいくらでもしてやるよ。チサトさんもその人の上からどいてあげてくれないかな」
退治した鬼の上を踏んづける御伽噺の主人公のようにふんぞり返っていたチサトさんだった。容赦がない。
「その前に、お前がホンタイかどうか確認したいんだけど、統合はダメなのか?」
「ああ、ちょっとカンベンして。でも、チサトさんがいるならチサトさん担当なら良いよ。どうする?」
俺は周囲の一郎たちに目顔で聞く。どうしても確認してくれという奴はいなさそうだった。
「まあ、ネタバラシはこいつらと一緒で良いさ。あっちで何か飲もうぜ。緊張でノドがからからだ」
俺の提案に反対する者はいなかった。
******
チサトさんがぶっ倒したのはチャーリーという名前で、やはり軍人さんらしい。超法規的に出入国ができる俺たちなのだが、それでも野放しというわけにもいかず、なんらかの公的機関のサポートを受けることになっている。まあ、「こいつらヤバい奴らじゃないですよ、見逃してやってください」というのを証明してくれる程度なのだが。時と場合によってそれは警察だったり役人だったりもするが、アメリカが相手だと在日米軍から適当にヒマぶっこいてる軍人が寄越されることが多い。
当初はボディーガードの役割も持たせようという計画だったらしいが、余りにも対象の身に危険が及ばないので事実上護衛なんてされていない。そりゃそうだ。分裂というとんでもないジョーカーを除けば俺の手札なんてブタ同然なのだから。襲うにしたって価値がないとやる気も出ないだろう。
今回一郎がいなくなったことでごたついていたのもそういうことの影響がある。要するに警備がザル過ぎる。護衛対象が消えたのに気づかないなんて大問題になるだろうに、そうもならないところがなお一層寂しい。
それでも、お願いすれば、こういう風にお仕事ということで律儀にこなしてくれるけれど。ちょっとガキのお守りをすりゃ良いのだから楽な仕事だ。いや、楽な仕事のはずだった……かな。
「それで、チャーリーは初顔合わせだったけどついてきてくれたってわけ。繰り返すけど、今の俺は統合する気はないんで。うっかり接触しないためにもお前らと隔離する壁が必要だったからな」
壁扱いか。まあ、護衛だし。
そこまでホンタイがしゃべると、一気に質問疑問得心憤懣が噴出した。
「ってお前、日本にいたんじゃなかったのかよ?」
「ああ、ケータイつながらなかったのってそういうことか」
「たまたま機上だったと?」
「まあ、それもあるし、しばらく電源切ったままなのにさえ気づかなかったな。さっきはマジびびって思わず切っちゃったよ」
「なんでまた急に海外に行ったのさ?」
「ああ、それは――」
そう言いかけたところで、チサトさんが立ち上がる。
「あら、気が付いたみたいね」
倒れていた大男、チャーリーが「Uhhn...」という呻き声と共に身体を起こしていた。失神させてしまったのはこちらの落ち度なので無視しておくわけにもいかない。さてどうしようと一斉に俺たちが考え出したが、原因を作った張本人であるチサトさんがさっさと歩み寄っていく。
俺も普通の高校生程度には英語ができる。しかし、ここは海外留学も経験しているチサトさんに任せよう。俺たちはそうアイコンタクトを取る。その流れは一切の淀みがなく速やかに行われた。もちろん、その裏には、俺が普通の高校生程度には英語、特にスピーキングやらヒアリングやらが苦手というのもある。
チサトさんは2、3言俺でも聞き取れる英語で言葉を交わすと、少し黙った後に早口でまくしたてるような言葉になった。チャーリーもびっくりしたようだが、すぐに安心したような弛緩した笑顔となり、同じような感じの言葉を操って会話に応酬する。
「チサトさん、今のは……?」
一区切り付いたのでそう訊いてみる。
「スペイン語。訛りで気づいたけど移民系だったらしいわね。彼、英語もできるけどそっちの方がやっぱり話しやすいみたいだったから」
「へえ、チサトさんってスペイン留学してたんだ」
「何言ってんの。アタシが行ってたのはドイツよ、ドイツ。母方の実家あったし。前話したでしょ……ってそれはそっちのイチローだけか。めんどくさいから早く記憶共有させちゃいなさいよ」
俺の方を見てそうぼやく。そう言えば分裂させられた後にそんなことを聞いたなあなんて思い返す。今の今まで忘れていたとは言わないでおこう。緊張しすぎて余り耳に入ってこなかったのだから仕方ない。
「統合はまだ後ですれば良いじゃないですか。それよりすごいですね、何ヶ国語しゃべれるんですか?」
「地球上のほとんどの言葉は話せるわよ。言語体系なんて大別すればそんな数あるわけじゃないんだから後は単語覚えるだけでしょ。主要単語なんて何千語ってレベルなんだし」
さらっとそんなことを言ってくれる。言ったことがすべてできれば誰も苦労なんてしないのだけれど。それに知識的に学習しているだけでなく、ネイティヴとして違和感無くしゃべってたような気もするのだが。
「で、アタシを襲わせて何のつもりだったわけ?」
俺が分裂した時に遭っているのだからチサトさんのことはホンタイも当然知っている。「俺んちに不審な幼女がいたので」なんて惚けて誤魔化すわけいにもいかないだろう。
「いや、俺はあんな乱暴な指示は……待てよスペイン語か。ああ……それでニュアンスが伝わらなかったのかなあ」
しかし、ホンタイは深刻さとは無縁で、やっちまったなあとポリポリ頭を掻いている。余り責任とかは感じていないようだった。
「なんでこんなことになったんだよ」
「いや、統合するのは困るから、俺に指一本触らないようにしてくれって言っただけなんだけど」
「危険人物だから取り押さえるのかと思ったらしいわよ。イチローたちのことは知ってるから、それってアタシしか該当しないわけだけど。まったく、こんな可憐な乙女に怪我でもさせたらどうするつもりだったのかしら」
危険人物というのは間違っていないとは全員思ったが最上級の危険人物にさせないためにも黙っていた。日本語で言ったチサトさんの妄言をわかっていないはずなのにチャーリーも頷いてくれた気がした。
「なによあんたら気持ち悪いわね。ま、いいわ。聞いたら胸糞悪くなりそうだし。でも、あんたには聞くことがあるわね」
ホンタイに冷たく鋭い視線を送り込む。
「チサトさん……そう怖い顔しないでくれないか。何でも洗いざらい吐くから。何が聞きたいの?」
「決まってんでしょ。あんたが消えた理由よ」
そうだった。理由も告げずに俺たちの前から姿を消したのはなぜだったのか。そのせいでここ数日振り回されっぱなしだったのは、こいつのせいだった。どうやら誘拐もされず、殺人の被害者やら加害者やらにもなっていない。物騒なことは杞憂に終わっていたのは確かだが、さて、どんな説明が待っているのかと固唾を飲んで見守る。
「ボブと偶然会ったら、果無子さんが倒れて俺のこと呼んでるって言うからさ」
チサトを含めた12の瞳が発する重圧を感じたのか、勝手に話し始めた。
ボブというのは果無子さんの関係者でこの近くの大学に勤めている研究員だ。そこに倒れているいかにも軍人のようながっしりした体つきではなく、小太りで40過ぎ、最近薄毛に諦めをつけた白人男性だ。研究分野までは知らないが、人のいいおっさんで果無子さんが海外に行っている時などは連絡役を務めてくれたりもしている。
まあ、そんなことはさておき、
「「「「「倒れたって!?」」」」」
チサトさんを除いた5つの声帯が同時に驚きの声を発した。
「それで大丈夫なのか!?」「病院どこだ」「何で連絡しねえんだよ!」「ぐずぐずしてる場合じゃねえだろ!」「何か食べたいものはあるのか!?」
いっぺんにまくし立てる俺たちに蒼白になって押し留めるジェスチャーをするホンタイ。チサトさんとチャーリーも間に入ってくる。果無子さんのことで息もぴったりに気が動転してしまったようだった。掴み掛かっていたら統合してしまうところだった。ひとまず落ち着いて先を促す。
「気をつけてくれよ。まあ、果無子さんは無事だよ。ただの風邪だった。俺のことも呼んだというよりはうわ言みたいなもんだったらしい。ちょっと無茶してぶり返したんでまだ寝込んでるけど」
「それは目で見て確認したんだよな?」
「ああ、もちろん」
それを聞いて、なら仕方ないなという気持ちになった。それは他の一郎も同様だったらしく、うんうんと頷いたり、苦笑いを浮かべたりしている。一瞬で剣呑な雰囲気が消え去ったのに面食らったのはチサトさんだった。
「え? なに? あんたらそれで納得したの? おかしいでしょ、カナコって今ボストンでしょ?」
「いや違うよ。アリゾナ「似たようなもんよ! 思いつきでほいほい行けるような場所じゃないって言ってんのよ!」」
「うん、だから軍用機で」
「そういう問題でもなくて!」
「操縦したのは俺の上官だ」
「チャーリー、あんたまた眠らされたいの?」
「でもなあ」「果無子さんが呼んでたら」「行くよな、普通」「行かないのは異常」「常識で考えてくれよチサトさん」
興奮しているチサトさんを余所に、一郎たちは好き勝手に言い合う。
「あんたらが満場一致で見解の統一したって所詮独断でしかないんだからね?」
「少数派多数派なんてそんなもんだよ。そんなことより続きを聞こうよ」
チサトさんとは平行線になりそうだったのでホンタイに先を促す。
「気づいたら俺はアリゾナの砂漠に立っていた……」
「いや、そういうどうでもいい演出は良い」
「まあ、飛行機でばばっと飛んでって、車でがーっと果無子さんの部屋まで連れてってもらったんだけどね。そこに来るまでに車で説明受けて誤解は解けたんだけど、せっかくだから顔でも見て行こうかなと」
で、ベッドに横になって杏仁豆腐かなんかを食べようとしていた果無子さんの第一声が。
「帰れ」
ということだったらしい。顔を見るなりそんなことを言われてしょんぼりした一郎が踵を返すと、
「え、ちょっと、ほんとに帰んないで」
わたわたと慌てて引き止めようとする。
「どっちなんですか、もー」
身を乗り出してこぼしてしまった汁を拭こうと一郎が近づいていく。熱で潤んだ瞳を余計に熱くさせ、頭を回転させようとしてから回っている果無子さんの上目遣いとの視線が絡む。距離が縮まる。
「あー、うー、きゅ、急に飛行機で帰るとカラダに悪いから、ちょっと、ちょっとだけゆっくりしていきなさい。特に家族と一緒にいると効果が高いらしいわ。そういう研究発表があったから!」
体調崩しているのも、慌ててるのもあなたでしょうと笑いを堪えて、はいはいと返事をする。すると、ぱぁっと顔が明るくなる。なかなか嘘を吐くのに難儀な人だった。
「だったら、帰れなんて言わなきゃ良いのに」
「あんたがこっちいたら誰が分裂させるのよ」
用事なんてないだろうとぼやくと、口をとんがらせてこのボクネンジンと罵られた。
「ああ、それは問題ない。ちょうど全員分裂してきた。日本じゃゴールデンウィークだぜ? そうそう、チサトさんとも偶然会っちゃってさ。うん、だから2週間くらいは平気。せっかくだし」
俺が彼女たちの話をしようとすると少しだけつまらなさそうな顔をしたのでそう言ってやる。GWがそんな長くないことも気づかないで嬉しそうな果無子さんを見れたのだから、2週間は休みすぎだけど、学校程度なら問題ないだろう。
「へ、へえ、そうなんだ。じゃあ、こっちにいさせてあげてもイイよ? 一郎も外の世界ちょっとは見たいでしょ?」
果無子さんが常識を思い出して追い出されるなら仕方ないなと諦めていたが、そんな心配は無用だった。
「そういうわけで、俺は果無子さんの体を管理しなくちゃならないわけさ。ていうか、あんまりあの人が大人しく俺の言うこと聞くから、医者から是非って言われたんだけど」
「あの人ほっとくと薬カクテルして飲むからな」
「なんでそういう要らん独自性を出そうとするのかね。今まで3回それで悪化してるのに」
「いや、4回目になった」
カクテルパーティー・イン・アリゾナ。手遅れだったらしい。
「それで、しばらく滞在することになったんだけど、ひとつ重大な問題が持ち上がって戻ってきた」
「なんだ? パスポートでも忘れたか?」
「アメリカくらいだったらフリーパスだろ俺ら」
一応パスポートは一人分だけ取得しているけど。何人分も持っててもコピーされるから無駄だろう。貨幣と同じことだが携帯した公的文書も勝手に分裂するので身分証明の意味合いが低下することと、もしも重要な国外活動を行うのならばそういう場合はSPが付く事になっている。俺はこれでも自分は普通の一般人だと思っているが、意外とこういう特例は多い。
だからほとんど両国政府公認なので特に入国審査をする必要もない、ということになっている。今回も問題はなかったらしい。
まあ、身内の看病なんて重要でないから帰れなんて抜かす奴は死ねば良い。
「その前に、統合しようとしなかった理由は?」
声には緊張感はまったくない。ここまででなんとなく納得できたので、長長と説明するくらいなら統合してしまっても良いと思った奴の発言だろう。
今もホンタイはやや離れて床に胡坐をかいている。うっかり触れてしまわないようにという配慮らしい。
「果無子さんが言ったんだよ『カノジョたちを寂しがらせんなよ』って」
ああ、と全員が納得する。
「俺たちの彼女に優しいからなあの人」
「家族同然の一郎の恋人だもんなあ、ほっとけないんだろうな」
「いや、ほんと果無子さん嫁に欲しいわ」
「いやいや、俺の嫁に」「寝言は寝てから言えよ。果無子さんは俺がもらう」
「それで、問題ってのは?」
不毛な発言はスルーして、一郎に先を促す。放って置くとこいつもダメ話の輪に加わりかねない。
「だから、せめて風邪が治るくらいまではあっちにいようと思ってたんだけど、その日の晩になってそうも言ってられなくなったんだよ」
「容態でも急変したか!?」
「いや、それじゃ戻ってこられないだろ」
うん。つい興奮して冷静な判断を欠いてしまった。
「ちょっと忘れ物というか、ある物を取りに……」
やや歯切れの悪いホンタイだった。この期に及んでまだ隠し立てするつもりなのだろうか。納得いかないのは他の一郎も同じだったようで、質問が飛ぶ。
「別にお前が戻ってくる必要ないだろ? それに往復十数時間も掛けてするようなことなのか?」
「いや、俺じゃなきゃダメなんだ。重要なことなんだよ。家族の一大事だ」
そこまで言うと、ひとつ大きく息を吸い、そのある物の名前を口にした。
「果無子さんのパンツだよ」
「ちょっと待って、着替えくらいあるんでしょ?」
話の流れについていけなくなったチサトさんが口を挟んできた。
「いやあ、俺が昔プレゼントしたパンツ穿いて添い寝してもらいたいなんて言うからさあ」
何を耳にしたのか理解が追いついていないとでも言いたげなチサトさんのことは眼中にいれず、しようがないなあなどと言いながらも、テレテレとしている姿は本心を表していた。間違いなく本心だ。自分の本心なんて見るもんじゃないなと俺は思った。
「それはうらやま……じゃなくて、ああ、あのパンツか」
「チサトさんに着替えとか貸してたけど、あれは勝手に使われないように保管してるよな?」
「もちろんだ。使わせるくらいなら俺のパンツ貸して俺はノーパンで過ごしてたね」
「いくらアタシでも他人の下着は遠慮するわよ!」
コンビニででも買ってきたのか、ずっと穿いたままなのか、穿いてないのかについては永遠の謎ということにしておこう。
「で、お前らに持ってこさせるとその間パートナーが寂しがるからダメって果無子さんが頑として首を縦に振らない。女性職員もいることはいるがどうも大事なものを任せるのに不安があった。もちろん、他の男に触らせるなんて論外だ」
それで果無子さんを置いていくのが心残りながらも直直に取りに来たというわけだと言う。
「じゃあ、チサトさんチームにでも頼めば」
「おお、その手があったか。一郎はチサトさんとイチローのこと知ってるはずだもんな」
しかし、一郎はアメリカンなジェスチャーで無理だと示す。
遅れてチサトさんもぽんと手を打って反応する。
「そうだった。アタシ、アメリカ国外追放処分されてるんだっけ」
何をやったんだこの人は……とは全員が思っただろうが、怖くて誰も訊くものはなかった。チャーリーは今更気絶したフリで聞かなかったことにしているし。
「でも、あのパンツってなんか絆って感じするし」
「うん。まだ現金もってた時の話だよな」
「買う時は緊張したな」
「そうそう、果無子さんが気に入ってくれるかどうかわからないもんな」
「買うこと自体は恥ずかしくないんだ?」
なぜか漫才のツッコミのような手つきをするチサトさん。
「ごめん、小さな男の子が、家族のためになけなしのお小遣いを叩いてパンツを買うののどこが恥ずかしいのかわからないよ」
「イイハナシっぽくしてるけど、結構気持ち悪いわよ、あんたら」
******
「じゃあ、俺は果無子さんが起きるまでに帰りたいんで。目が覚めて俺がいないとわかったら泣くかもしれないし」
ねえよとの羨望交じりの罵倒に送られ、一郎はチャーリーと共にタクシーで移動していった。特権をフルに行使して往復で十時間も掛からない。今ばかりは普通でないことには目をつぶるようだ。
「これであと1週間くらいは分裂しっぱなしか。さて、明日からどうしようかね。机あるのかな?」
「あ、そうか、学校か。授業どうする?」
「お前らの中からひとり行けばいいんじゃない?」
「俺パスしたいな」
「お前が思うことくらい他の奴らが考えないはずがない」
「それより、学校で顔合わせるの嫌だ」
「お前もか。クラスとか学校違ったりしてるやつは良いよな……」
「こっちは家に押しかけられそうで怖い」
まあ、口に出して言うほどには困ってなさそうで、むしろ楽しそうだ。そう言ってやると、不敵な笑みが返って来る。
ホンタイの件も片付き、多少余裕も出てきた。そればかりではないだろう。
「なんだかんだで楽しみなんだよね、俺」
「あ、俺も俺も」
「受身ばっかりじゃ飽きるよな。それに」
タメを作って、目配せをする。声を揃えて宣言一つ。
「「「「ちゃんと付き合わないと果無子さんに怒られる」」」」
よし、明日に備えて寝よう、とそれぞれ割り当てられた部屋へと戻っていく。
そして、天場一郎としては俺だけが残った。
我が家の明かりも一つ一つ消されていき暗さが増すと、昼間の熱気も、夜の狂熱も暗闇の中に放り込まれていくようでようやく落ち着きが戻ってきた気がした。
しばらく放熱の心地よさを味わっていたが、一人取り残された寂しさはなかった。傍には寄り添って立つチサトさんがいたから。
「あんたらって……マザコンよね」
「ロリコンの次はマザコンかよ」
まあ、相変わらず酷いことばかり言われてるけど。
「言っとくけど、排他的な関係じゃないからね。ロリコンでマザコン、マザーファック即逮捕よ。罪名児童母猥褻――児母法違反」
「マニアック通り越してファンタジーだよねそれって」
俺はやれやれと苦笑いをしてみせる。
「ところで、チサトさんって、俺を分裂させるキーが恋愛だけじゃないって知ってたの?」
俺にもよくわかっていないのだが、他の分裂体は今まで考えられていたような好意とは少し違うつながりをパートナーと持っていた。ホンタイ登場でうやむやになってしまった感があるが。
「まあね。でも確証は持てなかったから言わなかっただけ」
「でも、俺を分裂させるのは絶対できるって思ったんだよね?」
「そうよ」
「何でそう思ったの?」
「思う前に感じるものなのよ」
「何を」
「運命を」
「安心しなさい、このロリコン」
「責任は取れるようになったから」
そうして、人生2度目の特別な儀式が行われた。
子供の頃は決してしてくれなかったことを。何度そう言う場面が訪れようと、乱暴に叩き落としてなかったことにしてきたことを。
そっと――手を握った。