転ぶ一郎
3.転ぶ一郎
3‐1.転ぶ、一郎
「で、どうだった?」
チサトさんが俺たちを睥睨している。あの身長では立ったところで俺たちが座っているのとさほど変わらない。それでも見下ろすポジションが欲しかったのかソファの上に立とうとしたが、バランスがいまいちだったので今はテーブルの上に乗っている。
他所様のテーブルの上に立つなんてどんな躾けられ方をされてきたのか。食堂のテーブルでないだけまだマシなのだろうか。後で拭いておこう。
応接室に集まった俺たちは思い思いにソファに身を沈めていた。普段慣れないことなんてするもんじゃないなと身体が悲鳴を上げている。そして、そんな虎の尾を踏むまねさえしなければ心も傷つかなかったのかもしれないと。そんなわけで、とてもダルかった俺はぞんざいな返事をしてしまう。
「どうだったって……知ってるだろ。こっち側のこともチサト担当から聞いたろ?」
ソラとトナの側にくっついていったチサトさんは一部始終を見ていたはずだ。しかし、そんな事務連絡は期待に添える言葉ではなかったようで軽く鼻を鳴らして一笑に付す。
「あんたらがどう感じたり思ったりしたかってことよ。遠目で見て結果だけ知ってたって何にもなりゃしないわ。それとも、上っ面だけで知った気になるとか、そういうことされたいっての?」
途端に攻撃的な目付きになると、薄い胸を反らす。もともとふんぞり返っていた所にそんな格好をするものだから、バランスを崩して落ちそうになっている。見た目通りの年齢だと思えば非常にユーモラスだったのだが、なぜか笑いは出てこなかった。小さく脆いその姿が妙に大きく逞しく感じられた。まあ、なんか偉そうだなと思った。
チサトさんは、さて、と言葉を切って俺をチラリと見てから手近の一郎を指差す。
「阿佐島緒未、彼女はあんたが好きなわけじゃなかった。それで良い?」
「それは違う。確かに前に好きだった奴はいた。だけど今は俺のことが……」
「あんたのことが好き? そうじゃないでしょ? あんたが分裂するからこそ好きと言えるだけ。阿佐島が見てるのは分裂という特質だけよ。まあ、要約すると、阿佐島はイチローのことなんてなんとも思ってなくて、現状を壊す恐れがあるのならば自分のパートナー以外はどうなっても構わない。たとえそれがホンタイであっても。そうよね?」
「……」
オミ担当は口を噤んだ。
「徒舟小古流、これは問題外よね。自分で好きかどうかもわからないなんて」
「でも、それだけだろ……」
「あんだけ悩んでたら苦しみから解放されたいって思うかもよ? で、思い余って元からぷっつりと断つ。全部抱え込んで、最後はちゃぶ台ひっ繰り返しちゃうんじゃないかしら? 徒舟にとってみればあんたと出会ったことがすべての元凶なんだから」
コロ担当は悔しそうに唇を噛んだが、何も言い返さなかった。
「細愛空。こいつは難しいかもね」
「そ、そうだよ。ソラは俺もホンタイも必要なんだから」
「でも、残念。あの自己中には、あんた以外のイチローは邪魔になるのよね。〝特別〟を目指すのならば当然よね。あの子には、替えはいくらでもいるなんて絶えられないでしょ。そして、もしも、ひとたびただひとりのイチローが欲しくなってしまったとしたら……。もしも、ホンタイが自分の目的には要らないどころかイチロー生産工場として最悪の障害だと判断してしまったら……。仮定条件がちょっと多すぎるのが難しいってことよ。でも、アノ様子じゃそう的外れでもないのかしら? ブレーキなんて最初から壊れてるでしょ」
ソラが垣間見せた狂気がソラ担当を黙らせる。
「婁宿都波――まあこれはどうでもいいわ」
「ってなんで俺の時だけそんな扱いなんだよ!」
「だって、愛されてないっぽいのはよ~っくわかったけど、だからってどうもしないでしょあの子」
「愛されてるよ! あのくらいで普通だよ! うう、でも納得もできてしまうのが哀しい。もう嫌だ、オチ担当」
トナ担当は呻き声を残すだけだった。
「さて、これで全員分の講評終了ね。……まあ、一応疑ってかかってはみたんだけど、ホンタイをどうこうしようってほどのタマを見つけるには決め手が欠けてるというのはアタシの本音なのよ。でも他に候補がいなきゃこの中から選ぶしかないわね。クジでも作ってみるといいんじゃないかしら?」
「いや、ちょっと待ってくれよ」
最初に槍玉に上げられてから黙りこくっていたのはオミ担当だった。
「オミだけど、俺が誰かの代わりだからといって、なぜホンタイに手を出さなきゃいけないのかわからないな。本当にオミがそんな非情なことをするのならば、むしろ良好な関係は崩すべきじゃないはずだろ?」
「そうだな、俺もコロについて言わせてくれ。俺と付き合うのが本気で嫌でも、あいつにとって果無子さんはもっと大きくて、心の底にいる存在だ。あいつの頭で凄い難しいことをやっていた。俺にはわからないが、果無子さんの著書との出会いは、それくらい、人生を変えてしまうほどだったはずだ。それにスジを通さずにいきなりぶち壊すなんてするはずがない」
「じゃあ、俺も。ソラの精神状態は確かに不安定だよ。でも、本当に守るべきことはちゃんと持っている。あの日、大勢の人間を掻き分けて俺の元へやってきてくれた信念は曲がった方向へ進まないと、俺はそれを信じる……まあ、信じるよ……」
「俺だって、トナで言いたいことくらいある。あいつは中学までバスケットボールの選手だった。それが、肘を壊して毎日打ち込んできた道を諦めなくちゃならなくなった。でも、体を動かすそれだけでも良いんじゃないかと迷ってたんだ。それで、賭けにきたんだよ。新しく道を拓くことができるのかどうか。なんでも良かったはずだ。ただのきっかけなんだから。でも、それをたまたま知った俺のことで、これが面白いからと決めてくれたこと、そして走り出したトナのことは、俺は大好きだ!
これって、お前らも知ってるはずのことだぜ? 知ってるだけでトナを思う気持ちなんてないのかもしれないけどな」
「チサトさん、わかったでしょ? だから、彼女らを疑うように仕向けたこと、謝ってください」
「へえ、アタシに逆らうの?」
「そんな気はないけどさ……理屈じゃねえよ」
要するに、
「「「「好きになった女を腐されて黙ってられねえよ!」」」」
ということらしい。なるほど、単純明快で素晴らしい。
「ところで、この中にホンタイはいないよな?」
「うん? 変なことを言うな。お互い触って統合できないことはもうみんなわかってるだろ?」
「いや、もしいるんだったらもっと簡単な話になるなと思ったんで確認したかったんだ」
「どういうことだ?」
「まず、この場にホンタイがいないと思う理由はなんだ?」
「それは、5人全員で集まった時に……」
5人揃ったあの時を思い出してずきりと疼きでもしたのか、すねをさする。そう、今言ったように確かにお互いが触り合って確認したはずだ。
それはわかっている、と手で制する。
「だがな、それは一度切りのことであって永遠じゃない。統合できなかった時は、本当に分裂体だったらとしても、今こうしている時もそうだとは限らない。そうだろ? かくれんぼで一度探したところが死角になるのと同じことさ」
「じゃあ、今この場で再確認してみれば良いじゃない」
チサトさんがぽんと体を叩く仕草をする。統合できるのならしてみなさいということだろう。この場にホンタイがいるというとんでもない暴論を一撃で否定できる提案。それが冷静にできるのがチサトさんだった。
「いえ、今のはあくまで仮説のひとつです。簡単に確認できるのだから、今そいつがホンタイである可能性は低いと思います」
質問、と手が上がる。はいどうぞと言う前に言葉を発する。
「なんでそんなややこしいことしなきゃならないのさ?」
ホンタイが姿を消したフリをしてここにいるということなのかと思ったが、今の流れでは少しおかしい。それに表現があいまいでよくわからなかった。質問内容を確認してみる。
「ええと、それは誰が何を?」
「……それを俺に聞くかよ」
何かまともなことを返すかと思えば、そうはぐらかす。唇には薄く笑いがはりついている。俺は知らないんですよとそういう無責任を演じているのか。なら答えは誰が知る。
誰が知る? そんなの決まってる。神がそうさせたのでもないのならば、
「ねえ、チサトさんとイチロー。何がしたかったのか聞かせてくれないか?」
俺とチサトさんを一直線上に置いて、トナ担当は指を突きつけ言い放った。
人がやったことならば、その犯人が一番良く知っている。
3‐2.路理・ラボコフと転がる一郎
俺が突きつけた指先はチサトの余裕に波紋ひとつ起こさなかった。
「チサトさんはさ、俺のこと……まあそいつも俺だからこういう言い方になる……いや、言い直そう。そいつのことが――」
チサトの横で腕組みしている一郎を顎で示して、俺は意識して声を凍らせた。はぐらかしも逆ギレも許さない揺るぎのない質問にしたかった。
「――好きなの?」
「好きよ」
見透かしたような笑みさえ浮かべて即答された。
「アタシはイチローが好き。今も昔も、初めて見た時から、生まれた意味を知るように好きになった。理由も要らないし、気持ちを確認する必要もない。それがどうかしたの?」
「……嘘臭いんだよ。無条件に揺ぎ無い愛なんてさ。ただ流されるままに恋人やってた俺が言うのも何だけど。いや、だからこそかな。始まりもわからなければ、途中経過もまるでわけがわからない」
「信じられないのね」
疑問系にもなっていない。信じることを強制する意志だけを感じる強烈な語気だった。だが、ここで怯んでしまっては何にもならない。粘つく喉を動かして本題に入る。
「だからさ、好きで好きでどうしようもないってのをわざと言うことで隠していたことがあるんじゃないかってことさ」
「そうだな……気持ちを確かめて真意を探れって言ったのも、チサトさんだったよな」
一郎ちゃんが俺の思考を読み取るように続ける。オミの口から直に苦い真実を聞いただけに俺の考えと一致するものもあったようだ。
「でも、本当はそんなことどうでも良かった。最初から疑う必要なんてなかったんだから。そこまで彼女たちの本当の所を見れてなかった不明は恥じ入るけどね」
天場が口を開く。コロの曲がらない想いを知った彼なりの言葉だった。俺はそこまで信じられないとしても、疑うのが馬鹿げていたというのはその通りだ。
「そもそも、彼女たちを犯人とすることは無理があるって、みんなわかってたはずだよね?」
「えっ?!」
「……一郎さん、お前はちょっと休んでろ」
「ええと、まあ約1名は犯人の可能性も有るのかななんて思ってたようだけど。それはそれとして!
ありもしない犯人を作り出して、どういうつもりかな? わざわざそうしなければいけない理由。そんなものがあるなんてどんな人物像だろうね。たとえば真犯人?」
「でも、チサトさんにはアリバイがあるぜ。オミが証人だ」
イチローがにこりともせずに反論する。
「だから、それが崩れるんだよ。常識で考えて欲しいんだけど、誰が急な心変わりをしたとしても、たかが数時間だぜ? どうだよ?」
「そりゃそうだな。ちょっとしたケンカならともかく」
「だけど、俺たちに対してだけなら急転直下の強制力を発揮できる人物がいた、いやその日突然やって来たんだよ」
一斉にチサトへ注目が集まる。イチローを屈服させ、ホンタイを失踪させたのか鑑定しようとでもいうように。
「チサトさんが何やったと思ってんだか知らないけど、ホンタイに『あんた失踪してね』って言ってはいわかりましたと言うこと聞かせられるとでも? そりゃちょっと非常識なんじゃないか?」
「まあ、そんだけ大袈裟なことなら俺も聞かないだろうね」
「ほら見ろ」
「ただ、『駅前でたこ焼き』買ってこい、くらいだったらどうかな? 『久しぶりに帰ってきて、懐かしいから買おうと思ってたけどつい忘れちゃった。つまりわかるわね? ダッシュ!』って言われたら」
「行くしかないな」
「まあ、行くわな」
イチローも異存はない様だった。
「そういうことだ。で、アリバイだけ作ったらホンタイと統合させる。わざわざ再確認をしないのを見越してならそういうことをしても良いと思う。
それか、果無子さんの理論を半分使えるならば、イチローを分裂させるってのもアリかもな。
とにかく、2人いれば目立つかもしれないのを1人にまとめてしまえば色色とやりやすい。そして、その後も接触が発生しやすそうな場合では分裂させて分裂体をイチローとして振舞わせれば良いってわけだよ」
さあ、どうだと挑戦的なポーズまで取るが、当のチサトはまったく揺るがない。
「それにしても、まさかアタシを疑って掛かるとはねえ。的外れもいいとこなんだけど、飼い犬に手を噛まれるってこういうことなのかしら」
ああ、やっぱりイチローは犬なんだな。小さい頃から暴君で、大人になれば犬扱い。本性はちっともかわっちゃいない。
「それと、可能性としてはアタシがホンタイに統合防止の処置をして、アタシが分裂させたイチローとして扱っているってのがあったはずね」
「あ、そうか。分裂ルールを変更できるならさらにやりたい放題だな。じゃあ、そういうことなの?」
「可能性の話でしょ。アタシがカナコの理論をモノにしていないってのは、さっき言った通り。だいたい、分裂を止めるのと統合を止めるのは似てるようで全然違うわよ」
つまらなそうにお手上げのポーズを取る。
「そうなんだ?」
「もちろん、アタシの自己申告を信じればの話ね」
「いや、チサトさんは心から負けたと思ってなけりゃ嘘でも白旗揚げないよね。だからそれは信じる」
口火を切ったテンちゃんが引っ込んでしまったので、俺たちの追及の手も止まる。それを満足げに見渡して、金髪の小悪魔は邪悪な笑いを浮かべた。
「ま、いつまでもこのままにはしとかないけどね。いつか完全統合をイチローに施して見せるわ。その時のためにライバル減らしたかったのにな~。心理学もちゃんとやっとくべきだったかな。難癖つけて関係ズタズタにしてやろうと思ったのに」
恐ろしいことをバラしてしまっている。そういや、チサトさん担当があの計画立案者だったっけ。
「じゃあこれでフリダシか。俺たちに裏切り者はいない、オミたちは疑わない、チサトさんもナシ。トチ狂ったどっかの組織にでも拉致されてんのかな」
「果無子さんの『アメーバ予想』だけで引っ張りきれないってのが一番妥当な線かもな。俺らの一人じゃなくてホンタイが狙われたことへの理屈もつけられる」
また物騒な方向へ話を持っていこうとするが、その二人もどちらかと言えば冗談っぽい。とりあえずホンタイが戻ってこないのは心配だが、俺たちだけでは手詰まりになってきたからというのもある。
まあ、あいつにもイロイロあるだろう。本当にヤバかったら然るべき機関が動いていそうな気もするし。
「何言ってんの。危ないのは――下手すりゃ殺されるのはあんたらかもしれないわよ」
気が緩んできた俺たちにぴしゃりと冷や水を浴びせたのはチサトさんだった。
「まだ一人いるでしょ? 肝心なのが」