恋する一郎
2.恋する一郎
2‐1.恋する、一郎
「おはよう」
「……おはよう」
起き抜けの酷い顔をした一郎の朝の挨拶に、テレビを見ながらパンに齧りついていた一郎が手振りで返す。机に突っ伏している一郎は挨拶する気力もないほど眠そうだ。新聞を広げていた一郎は無反応で、台所で火を使っている一郎は聞こえなかったらしい。そして、くたびれた返事をしたのは俺、天場一郎だ。
挨拶を疎かにしているわけでもないのだが、こんな状況も初めてだし、自分に対して礼節を守るというのもなんだか変な気がしてしまったのだ。妥協案が気の抜けた「おはよう」。降りてきた一郎もまだ頭が働いてないのかわからないが気にした様子もない。
こうして5人の一郎が一同に介したわけだが、未だ俺たちが分裂したままなのは意外と気が合ったからしばらくこのままでいようとかそういうわけでもなく、現実的な問題からだった。
あれから、一郎は戻ってこなかった。
つまり、戻らなかったのではなく戻れなかったのだ。さりとてどこへ行く当ても無いわけで、自分の家で寝起きを共にすることになった。
幸い、我が家はある程度の広さも部屋数もある。果無子さんは海外の研究所に出張していて留守だ。母代わりの果無子さん以外に家族はいない。この一戸建ては二人では広すぎて、俺たちがそれぞれ一部屋を使ってもお釣りがくる。まるでこうなることを予期して誂えられていたかのようだ。
ついでにチサトさんも泊まっている。チサトさん担当とは別部屋だ。文句を言うかと思ったが、ちょっと顔を赤くしていたのが正体を知ったあの外見だけ少女に残された唯一の可愛さだった。
「そういえば、チサトさんは?」
「寝てると思うよ。朝まで起きてたって。メシ作ってあげたら寝室引っ込んだ」
「どんな不規則な生活してたのかな。夜寝る子は育つの反面教師か。そういや俺も腹減った。みんなは食ったの?」
「そいつ以外は。俺とこいつはあいつの手料理待ち」
パンを食ってる一郎、一郎自身、新聞を読んでる一郎、キッチンに立つ一郎と順番に指差す。
「で、メシまだ?」「今作ってるだろ、あいつが」「なんで誰も手伝わないんだよ」「だったらお前が手伝えよ」「俺家庭科2だったからな」「小学校の時の話だろそれ。知ってるよ」「いやいや、全員俺だから」「だいたい普段は普通に自炊してるだろ」「果無子さんに鍛えられたからな」「誰かが作らないと死体が2つ出てただろうからな」「まあ、店屋物でメタボがせいぜいじゃない?」「れ、めふぃふぁむぁどぅあ?」「通訳するとメシはまだかと」「今食ってんだろお前!」
「いや、ちょっと待て、いっぺんにしゃべったら誰が誰かわからん」
一卵性の双子とか三つ子レベルじゃなく、まったく同じ声帯を持った人間が同時に会話すると俺自身どれが自分の発言なのかすらわからなくなりそうだ。
「じゃあ、キャラ付けでもするか? 語尾変えてみるイチ」
「安易だなあ。ていうか、お前が一郎だと言いたいんかニ?」
「誰がしゃべってようと関係ないだろ。基本、俺ら同一人物だぜゴ」
「ナンバリング飛ばすな。ていうか、これ無理やりすぎだろク」
「6なのか、9なのかはっきりしろ。だいたい5人で6までねえよン」
「続けるのかよ。つか、お前さっきイチって言っただろ」
なんかこうセリフに色でも付けられれば良いのに。
「このまま元に戻らないとどうなるんだろうな?」
目玉焼きを大皿に持って一郎がやってくる。
「独立した人格になったりして」
さっきまでTVを見ていた一郎が山盛りになったトーストに手際よくバターを塗っていく。
「これまでの最長って3日くらいだっけ?」
パンを食っていた一郎が端っこの焦げたのを避けて取ろうとする。
「記憶力同じなんだから訊くなよ」
食いしん坊なその手をぴしゃりと叩き落す俺。
「正確には3日と2時間だな」
新聞を畳んで一郎が答える。
「って覚えてるのかよ。なんで記憶力に差が出る。今度からテストお前受けろ」
「いや、昨日たまたまその時の事をソラが言ってたんだ。2泊の旅行に行ったことがあったろ。また行きたいですねって。普段は戻った時点で記憶共有するから同程度だと思う」
なるほど、エプロンを外して席に着いたこいつはソラ担当か。料理するクセが付いたんだな可哀想に。そういや別荘に行ったことがあったはずだ。もちろん何も起こらなかったけど。お嬢様と一緒に無数のサングラスから監視されてる状況でコトに及ぶのも初心者にはハードルが高すぎるが。
「そういやそんなこともあった気がするな。言われてもよく思いだせんのだけど。ていうか、俺は俺だけの記憶を共有させたことないんだけど」
ということは統合未経験なチサトさんの担当だな。昨日生まれたばかりのひよっこだ。経験値はホンタイと同程度くらいか。やたら眠そうにしている。チサトさんとなんかしてたんじゃないだろうな。
「記憶共有ってもそこら辺曖昧だよな。俺ら5人分の行動がびっしり記憶に詰まってるって感じでもないし。分裂したら他人ですか?みたいな。後から出てきた奴の方が絆は強いのかもなあ」
あーあとつまらなさそうにノビをするのは最古参のひとり、コロ担当か。めげずに奪い取った卵をパクついている。さっきから食ったばかりだなこいつ。ストレス多いらしいからやけ食いでもしてるのか。ストレスなんて統合時に消えるのが普通なのに、分裂時のステータス異常を統合後にまで持ち込めるなんてよっぽどなのだろう。
「頭ん中覗けるわけでもないからどの程度記憶に差異があるかはわからんが、肉体疲労が蓄積しないのって良いよな。統合でスッキリってなもんで」
さっきまで読んでた新聞でパン屑を払う一郎は、体を動かすことには定評のあるトナ担当か。どうせスポーツ記事にしか目を通してなかったのだろう。
「そうなの? いいわねえ。アタシとも統合してくんない?」
ファンシーなタオル地の服をしどけなく着込んだ小学生が顔を出していた。いや、見た目に騙されてはいけない。邪悪な合法ロリ、路理・ラボコフだ。俺の服だとサイズが合わなかったので嫌嫌ながら果無子さんのパジャマを貸し与えていたのだった。
「チサトさん起きてたの?」
「おしっこ」
なんだ尿意で叩き起こされたのか。チサトさんは見た目相応の可愛らしさで「んしょんしょ」と呟くとパジャマのズボンに手を掛けて引きずり下ろそうと――
「ってここでシーしちゃダメ! あっち、あっち!」
「寝ぼけると見た目年齢よりも精神年齢下がるのかよあの人……」
「おそろしいな」
「……ふぅ、だいじょうぶっぽい」
場所だけ教えたチサトさん担当も戻ってくる。これからあの人と長い付き合いか……ご愁傷様。
天場一郎の分裂は他の一郎の記憶が生生しく伝わらないシステムで本当に良かった。
分裂体での経験というのは天場一郎本人にとっては仮想現実みたいなものだ。そして、分裂体は本体の記憶しか引き継がないので他の一郎の現実もその程度ということになる。
トナ担当も言っていたが、肉体疲労ならばほぼ100パーセント回復する。ただし、どれだけ動いても鍛えられるということがないからデメリットも多いと思うのだが。基本性能の向上はホンタイにがんばってもらわないといけない。
「ふわゎ……」
俺たちがしばらく静かな朝メシを摂っていると、まだ夢心地のチサトさんが戻ってくる。
「あ、チサトさん、俺たち分裂したままで平気なのかな?」
誰かが先ほどの疑問をぶつけた。
「ん~~、カナコの論文の範囲内って条件付だけど、問題ないんじゃない? 分裂と統合の際にのみ物理法則が不安定になるってことだから。突然消えたりとか、腕が生えてきたり、疱瘡で全身が覆われたり、肌が緑色になって死亡とかはしないと思うわ」
目が開いてない状態なのに意外としっかりと答えてくれた。しかし、カナコの論文というのはもしかして――
「え? チサトさんって『アメーバ予想』わかるの?」
「今言ったのはカナコが定期的に提出してる経過報告みたいなもんよ。あんたらの研究を一任されてるってのも大変なのよ。まあ、『予想』も一通りは読んでみたけど、よくあんなこと思いつくわねー」
なんだ報告書かと落胆しかけたが、難攻不落で知られる分裂に関しての論文も読んでいたのか。しかもかなり理解してるっぽい? あくびを隠しもしないで大口開けてる姿からは想像も付かないのだけれど。
しかし、それなら、現状維持を続けても良いわけだ。早いとこホンタイと連絡くらい取りたいのは変わらないけど。
「んじゃ、おやすみ」
質問の続きがないとなると、まだ眠かったのか、言うだけ言うとさっさと引っ込んでしまった。あの分なら夕方まで寝てそうだ。
朝っぱらから就寝の挨拶をするのも果無子さん不在の今、しばらくぶりで良いかなと思い喉まで出かかったが、不健全な21歳の夜の空気を、健全すぎる16歳のまともな朝の挨拶が打ち破った。玄関口から聞こえた溌剌とした甲高い声が綺麗なドップラー効果を伴ってスムーズに近づいてくる。
「おっはよ~! 一郎ちゃんいる~う~……ぅえ?」
鍵が掛けてあろうが他人の家のドアなどあってなきが如し、敷居は鏡面のように滑らかで滑るように乗り越え、行儀良く靴を揃えることが悪徳であるかと思わせるほどずかずかと上がりこんできたのは阿佐島緒未だった。
さすがに施錠していなかったのだが、もしも鍵が掛かっていたとしても流れるように合鍵を使って0.01秒も変わらずにまったく同じことができる頼れる幼馴染だ。俺たちの彼女でなければ警察に突き出したいくらいの逸材と言えよう。俺周辺のトラブルは8割方こいつのせいだ。
「一郎ちゃん、これどうなってるの?」
統合されていないことを言っているのはわかる。目の前には思い思いの格好でくつろいでいる一郎がいるのだ。これまでは彼女たちとの楽しいひと時が終わったらすぐホンタイにタッチしていたので、こう同じ顔が勢揃いしているというのはかなりレアな光景のはずだった。
悲鳴のひとつも上げてもおかしくない。
「うわっ、すご~い! ねえねえ、一郎ちゃんがいっぱいだよ、ほらほら」
喜びの悲鳴を上げていらっしゃった。興奮の余り俺の襟を掴んでくいくいと引っ張る。首が絞まるのでやめていただきたい。
「げほっ、落ち着け。って驚かないのかよ、これ見て」
「え? 驚いてるけど? 一郎ちゃんが落ち着けば?」
あ、そうか。深呼吸して、と。
「って、こんな異常な光景見てそれだけかって言ってんだよ」
「ん~、まあ今更だし? 分裂って異常じゃないの?」
痛いところを突いてくれる。
「もっと、『何で?どうして?』って取り乱してくれないの?」
「じゃあ、『何で?』」
「そうそう、それが普通だよ。実は――」
ホンタイがいなくなって、と続けようとして、それで良いのか言葉に詰まった。もちろん、説明を求められればしても良いのだが、自分からカードを切っていくこともないのではないかと思ったのだ。幸か不幸か、ここにはチサトさん担当もいる。何も言わなければホンタイと含めて5人いると勘違いしてくれるのではないだろうか。
「一郎ちゃん?」
考え込んでしまっていたのか、声にハッとなると思ったより間近にオミの顔があった。
「あ、いや、その、たまにはこういうのも良いだろ?」
「うん! あ、そうだ、コロちゃんも呼んで良い?」
俺たちの委員長の名前を口にする。俺たちは1年の時から同じクラスだった。オミとコロは初分裂時にはもうすでに仲が良かったが。
特に問題はない、というか知りたいこともあったのでむしろ奨励してやると早速携帯電話を取り出す。
「あ、コロちゃん? 今、一郎ちゃん家なんだけど、うん、え、忙しいの? あ、そう。今面白いことになってるからこない? 今日は一郎ちゃんと遊ぶ予定がない? 早めに来てね」
相手の予定を尊重しろよとも思ったが、まあ黙っておく。かなり強引に進めているが、義理堅いアイツならくるかもしれない。慌てたのはコロ担当だった。
「え、コロ来んの? いたた……俺お腹痛くなってきちゃった」
「仮にも自分のパートナーだというのにお前は……」
割と恵まれていると思われているソラ担当が口を挟んでくる。ちょうど良かった。
「ちょっと耳貸してくれ。チームミーティング」
のんびりしていたトナ担当も呼ぶ。
「なんだよ。俺、チーム抜けたいんだけど」
「もう諦めろ。コロは来る。きっと来る。来たらフォローしてやるから」
「うぅ、そういう問題じゃないのに……」
「それより何なの?」
「いや、ちょっとホンタイがいないこと、オミたちに内緒にしないかってことなんだけど」
俺は考えていたことを実行するためにこいつらに打ち明ける。
「え? なんで?」
「別に隠さなくても……」
「まあ、聞けよ。ホンタイがどんなつもりで姿を消したのか知らないが、こんな異常な状況を彼女がたちが知ったらどうなる?」
「うーん、どうだろ。とりあえず心配はしてくれるかな」
「心配すらされないかも知れないけどな」
「ちょっとネガティブすぎるだろお前は」
「とにかく、心配させるのも忍びないだろ? どうせすぐ戻ってくるんだったらこのまま何事もなく過ごしても良いんじゃないか?」
「うーん、それもそうか。じゃあ、チサトさんのことも黙っておかないか?」
賛同が得られそうなところで、今度はこっちが提案された。
「それはどういうことだ?」
「ほら、俺が黙ってればホンタイと勘違いしてくれるかも知れないだろ?」
「あ、それは俺も思った。ずっと4人だと絶対突っ込まれるだろうし、上手いタイミングだったかなと」
「そうそう。それにチサトさん紹介してロリコン呼ばわりされるのもなんか癪だ」
昨日の俺たち自身を振り返ってみる。もちろん、別にそれほど本気だったわけじゃないのは本当だと信じてもらいたいと思わないでもなくもないわけだけど、確かに女の子が4人も集まって騒ぎ立てたら手に負えなさそうだ。
「あと、この状況にどんな面白い反応するのか見てみたい」
「それが本音か」
まあね。
俺は黒幕らしく、ゆったりと湯気をたゆたわせてコーヒーを一口啜る。
「一郎ちゃーん! コロちゃん来るってー!」
「ブッ!」
突然オミの声が割り込んでくるものだから、飲みかけたコーヒーを吹いてしまった。
「お前な、ちょっと前触れを漂わすというテクニックを身に着けてだな……ん? さっきから俺にばっかり話しかけてないか、お前?」
「はぇ? 一郎ちゃんはわたしの彼氏なんだから当たり前じゃないの?」
「いや、そういう考え方はバカップルへの第一歩……そうじゃなくて、そいつもこいつも一郎だろ?」
俺もどっちがどっちか忘れた一郎を二人ほど指差していく。それを見たオミは、とても面白い冗談を聞いたようにころころと笑いを堪え切れなくなる。
「やだー、他の人はともかく、一郎ちゃんだけはわかるよー」
パンパンと俺の背中まで叩いてくる。どうやら本気で言っているようだった。偶然が重なったのでなければ、どうやらオミには俺限定で見分けがつくらしい。
コロとはまだ通話中だったようで、また電話に戻っていく。
「なるほど、分裂しっぱなしだとこういうこともわかるわけか」
「よく母親は双子の顔を間違えないって言うけど、そういう感じかな」
「そういうレベルじゃないけどな俺らは」
「あ、でも、お前の服についてるのってステーキソース?」
少し色の変わった部分をまじまじと見る。そう言われればそう見えなくもない。すると、別の一郎が鼻を近づけてくる。
「くんくん、この匂いは間違いないな。でも他の匂いも……ラー油、おたふくソース、ケチャップ、トマトソースとチーズ、ピクルス、カツオ出汁入り卵とじ、枝豆」
次々と言い当てられていくそのラインナップは、昨日オミの大食いに付き合ったものだ。必死になって食べてたから少しこぼしていたのか?
「昨日食べたもんだな……よくわかったな」
そう言うと、ひくつかせていた鼻を盛大に鳴らし、神妙な顔が一変、悪戯小僧になる。
「いや、オミとならだいたいそこら辺回るのかなって。でも、ちょっと服にシミついてるのは本当だな。……オミなら匂いでわかったとしても……もしかしたら着替えたらわからなくなるのかな?」
「さぁ……? やってみるか?」
「いや、良いだろ。案外個個人の特徴ってのは出ているものかもしれないからな。あいつもあれで長く付き合ってるんだし、わかることもあるだろ」
「そうそう、ソラとトナも呼ぼうか」
どうせなら多い方が良い。それぞれの担当が連絡を取ることになった。
「もしもし、ソラ? 俺俺。一郎だけど。いや、いつもお世話になってる方の一郎ね。そう、まだ統合してないの。良いじゃん、たまには。で、皆集まろうということになったんだけど、来ない?」
「行きます!」
庭に出る窓をガラっと開けて今日も着物姿――本日の柄は菖蒲と鯉だった――のソラが顔を出した。
「おま……いつからいたんだよ!」
「いえ、ちょうどこの辺りを車で流していましたら一郎さんからお電話いただいたので、急いで回していただきました」
車は玄関に回して欲しいのだが。
「……そうか、まあ、怪我がなけりゃ何よりだ」
一郎が腰を引けさせていたのでよく見ると、両脇には細愛家の使用人が背景に同化して控えていた。正直、ストーキングしていたんじゃないかと疑おうと思ったらキリがないが、担当者は意外と冷静に対応していた。
「トナももうすぐ来るって……ってソラいつの間に!」
トナ担当がオーバーアクションで仰天している。まあ、こっちが正常な反応だと思う。
そうこうしている内に、呼び鈴が鳴らされたので出てみるとロングスカートのコロが来ていた。中へ通す時にコロ担当をじっくり見ていたような気がする。やはりオミだけではなくて皆わかるものなのだろうか。
トナが到着したところで奇妙な会合が開催された。基本、本来のパートナー同士になってしまいがちなのだが、唯ひとり学校関係者でないはずのトナが積極的に動き回って話し役から聞き役、冗談を言うだけの道化役までこなしてくれるので初めての交流親睦会といった様相を呈していた。
冷静に考えれば、ひとりの男と付き合っている女がこれだけ集まって談笑しているというのも怖い光景なのではないだろうか。
もしもの話だが、俺がたったひとりの天場一郎でしかなくなってしまった時、彼女たちはやはり「天場一郎の彼女」の立場を貫き、シェアできない奪い合いをすることになるのだろうか。それよりも愛想をつかされて分裂させてくれなくなる方が早いのかもしれないけれど。どんなに熱愛だとかおしどり夫婦だ言われたって、何割かの確率で破局したり離婚したりしている。その何割かに俺たちが当てはまらない保証なんてない。もちろん俺はこれが初めての男女の付き合い……同時に4、いや5人なんて異常な付き合い方ではあるわけだけれど、いち個人の天場一郎としては恋愛初心者にもほどがあるわけで、どうして好き合ってた恋人が別れてしまうかなんてことはまだよくわからない。ひとえに経験不足ということだろうか。永遠に経験しなくても良いけれど。
そんなことを考えていると、あぶれている一郎に出くわした。俺もオミの相手をしていないのだが、彼女はコロとしゃべっていたので俺一人くらい抜けても良いかなと思ったのだ。しかし、他の奴がちゃんとやってくれないと寂しい思いをする女の子が生まれてしまうのは嫌だった。勝手な物言いなのは重ねて承知だ。
「お前は、自分のパートナーどうしたんだ? ええと」
「トナ担当だよ。いや、ちょっとトイレ行ってたらいなくなっちゃってて」
その時、がちゃりと音がして、フランス窓を開けたトナが顔を出す。
「せんぱ~い、お菓子と飲み物買って来ました~!」
両手には抱えきれないほどの袋を抱えている。ロゴからすると、近くのスーパーで買い物をしてきたのか。
「うむ。いいタイムだな」
コロが金の卵を育てるトレーナーの顔つきで褒める。
「ホントだねー、あ、お菓子こっちねー」
すでに目の前はスナック菓子の山と化しているオミが呼び込む。
「お前ら、他人の彼女をパシりに使うな」
とがめるようでも口調は冗談めかす。この程度なら体力バカのトナには軽いものだったろうし堅苦しいことは苦手だ。
「何を言うか。正当な勝負の対価だ」
そうコロが言う。何の勝負だろうと思った矢先に、何を食べようかと幸せいっぱいなオミが答えを言ってくれた。
「でも、コロちゃんダーツ得意でしょ? ずるくない?」
なるほど、壁にダーツの的が掛けられ、矢が何本か刺さってる。プレイヤーで色違いにしたのか、綺麗に中央付近に並んでいるのと、バラバラなのがくっきりだ。
「何を言うか。最初にデモンストレーションであたしが投げて見せた、あの一投を見て実力はわかるはずだ。相手は断ればいい」
だが、色めき立ったのは、それまで横にいたトナ担当だった。
「おい、ちょっとそれは……」
顔をしかめてコロへ歩み寄ろうとしたが、まあまあと割って入ったのは当の本人のトナだった。
「テンちゃん、ボク平気だから。この程度でどうこうなるはずないじゃない。デリシャススティック食べる? おくら味と生たらこ味どっちが良い? そっか、両方かあ」
何か言おうと開く口を無理やり棒状のスナック菓子で塞ぐ。
不発弾はそれに気づく者もなくひっそりと処理された。
「そう言えば」
トナ担当を羨ましそうに見ながらオミが言う。
「昨日、帰る時に一郎ちゃん見たけど、それって誰だったんだろうね?」
「おい、そいつどこで見たんだ?」
「えっと、いきなりケーキ食べるときついかもって思ってたこ焼き買おうとしてたから……駅前かな」
きついんだったら食うなよ、と思うよりも先に、計算をする。駅は家と逆方向だ。この町じゃ数少ない交通機関でバスやタクシーを利用する際にもよく使われる。この家とは結構離れているので、俺の徒歩での帰宅時間と分裂体の全員集合とを考えるとそこにいたのはホンタイのはずだ。
「ひとりだったか? それとも誰かいた?」
オミは不思議そうに他の一郎――その中にはホンタイと偽っているチサト担当もいた――を不思議そうに見る。直接聞けば良いじゃないとでも思っているのだろう。しかし、とりあえず疑問は食べ物と一緒に飲み込んだようだ。
「ひとり……だったと思うけど。なんか急いでる感じで」
結局、大きな波という波はそれだけで、俺たちは休日の中日をだらだらとだべりながら過ごしたのだった。
******
「それじゃまったねー」
「次は学校だな」
「あの……お呼びしていただければいつでも馳せ参じますので」
「楽しかったよ、じゃあね!」
日が傾く頃合いに彼女たちは揃って帰っていった。ソラがまとめて車で送っていくということなので俺たちは玄関で見送る。高級車に乗れてトナは無邪気にはしゃぐし、オミは出されたケーキを早くも平らげてメイドさんを慌てさせるし、冷静を装うコロでさえどこか嬉しそうだった。
車影が見えなくなるほど遠ざかると、俺たちも感想を言い合う。これも普通だったら有り得ないことだった。ホンタイに統合という形で報告して、その情報を分かち合うだけなのだから。考えてみれば味気ない話だったかもしれない。
「いやあ、今日はなんかすごかったな」
「ほんと、一人でも大変なのにどっと疲れたよ」
「誰だよあいつら呼ぼうなんて言ったの。オミ担当、お前だっけか?」
「オミが勝手に来るのはいつものことだろ。それよりオミをけしかけたの誰なんだよ。次来たのコロだったよな」
「はぁ? オミとコロが友達だっただけだろ。俺は嫌だって言った。言いました。それよりソラは絶対呼ばれる前から家にいただろ。仕込んでたんじゃねえのか?」
「リアルにメイドとか執事がいるような人種は俺たちとは考え方が違うのだよ。だいたい、仕込みって……どんな得があんだよ?」
「ずいぶんとお楽しみだったようねぇ?」
「そんなことないって」
「へぇ、アタシにはそう見えるんだけど」
そんなことを言うのは誰だと振り仰ぐと、窓際に腕を組んで立つチサトさんがいた。
「あ、もう起きた、じゃなくてまだ寝てなくて良いの?」
「それ別に言い直した意味無いわよね。あれ以上寝たら頭腐るわ」
「でも、チサトさんのことはそんな長い間放置してたわけじゃないよね? いつから起きてたのかな?」
いきなり襲い掛かるほどには怒ってないはず。そう思ってか、おずおずと質問の声があがった。
「そうね。アタシがプリン好きだってことをそこのイチローが言ったのに、ひとつも残さずにあのメス犬連中と食い尽くした辺りからかしら」
嵐の前の静けさなだけだったらしい。すぐさま「買ってきます!」とひとりがダッシュする。
******
二日目の夜になってもホンタイは帰ってこなかった。
メシと風呂が済んでから、全員でもう一度話し合う。
ふぅ……と誰ともなく深刻なため息が漏れ出る。
「いかんよな、これじゃ」
「そうだな。まずいかもしれん」
「食費5倍って結構シャレにならん」
「まあ、今日は6倍だけど……ああいや5.5倍くらいかなあ」
ちらりとプリンを頬張っている小動物を見て、睨み返され慌てて言い繕っていた。
「風呂もなあ、お前らお湯使いすぎだろ」
「あのなあ、どうせ同じくらい使ってるんだぞ?」
生活習慣はほぼ一致しているのだからその通りだった。そして、最後に入った俺の時はそれほど減っていなかったと思う。
つまり……と頭を巡らせると、またもチサトさんに睨まれていた。2番風呂頂戴した贅沢税だから放っておく。
「まあ、食費光熱費は確実に増えるよなあ。俺らが払ってるわけじゃないけど」
世間一般の高校生と同じく、大きいところでは食い物関連、光と水とガス、小さいところではトレイットペーパー代なんていう日日の生活に掛かる費用やらましてや固定資産税なんてものは払っていない。これだけの大きさの家を維持しているのは果無子さんであって俺ではない。言えば出してくれるだろうし、純粋に資産として見れば、金庫の心配をする必要はないが、なんとなく減らせるところは減らしたいとも思う。
「そのためには、ホンタイを探すことかあ」
結局はそこなのだ。あいつが帰ってくればすべて上手くいく。
「自分の意思で出て行ったって線は考えられないのかな?」
「たとえば?」
「うーん、遊びに行きたかった……そんなの何も言わずに出て行くわけないか」
「俺らは女に連れ回されるだろ? 逆に考えて、ホンタイは女を追いかけていったってのはどうだ?」
「結局、この世は金と女と美味い物って言うしなあ」
「俺らだと金は別に困らないよな。果無子さんが破産すりゃ別だけど、みんな一緒だ」
「美味い物ってのもそう当て嵌まるとは思えないな。そもそもそんな美食家なわけないし俺らが」
「じゃあ、やっぱり女か。相手から積極的に迫ってきたんならホンタイがいなくなるわけないよな。あいつが連絡も忘れて追いかけるくらいじゃないと。どんな人なんだろうな? まあ、俺らと好みは同じだと思うが」
「きっとロリよね。あんたらロリコンだもん」
チサトさんの自虐風味な嫌味は無視してうーんと首を捻るが、あのホンタイが女にのめり込むというのも想像がしづらい。基本的な思考パターンは同じでもやはり俺たちは別人なのだと思い知らされる。
「ダメだな。さっぱり見当がつかん」
「逆に、俺たちが付き合ってる彼女のタイプで絞り込めないか?」
「そっか、その手があったか」
「お前頭良いな」
「そりゃ、俺らだからな」
ひとりひとりタイプを挙げていく。
阿佐島緒未、少しぽっちゃり系、巨乳、明るい、どこにでもいる女の子。
徒舟小古流、痩せ型、ぺったんこ、キツい、おっかない。
細愛空、か細い、意外とない、おとなしい、何を考えているのかわからない。
婁宿都波、がっしり、意外とある、テンションマックス、体育会系。
路理・ラボコフ、ちっちゃい、ちっちゃい、ちっちゃいことで怒りすぎ、人間がちっちゃい。
「バラバラ、としか言いようがないな」
「使えねえ」
「お前やっぱバカだろ?」
「そりゃ……俺らだからな」
「いや、なんかあるだろ、体型とか。ほら、胸部に難アリが2人も」
「コロのは正統派貧乳であって、膨らみかけの幼乳と一緒にするな」
「失礼な。チサトさんはあれで限度一杯だぞ。むしろそっちの方が希望あるじゃないか。どうせ儚い夢だろうけどな」
「あんたら、ちょっと表出ようか?」
「そうだな、まあ、オミとトナがいなけりゃ体型に関しては『薄い』で統一できそうだが」
「誰の彼女がデブだって? そりゃ言いすぎだろ。オミは公平に見てぽっちゃり程度だ」
「俺のトナがガチムチだと? お前にはトナの健康美がそう見えていたのか。がっかりだよ」
「他には……メガネとか?」
「ねえよ!」
「一人だけメガネキャラ引き当てた自慢か?」
「しかも、お嬢様! ハーゲンダッツ食ってるやつに、ガリガリ君で舌真っ青にしてるやつの気持ちなんてわかんねえんだよ!」
「まあ、共通するのは年齢が近いくらいか。約一名除いて」
「いやいや、チサトさんがオバサンだとかまったくもってこれっぽっちも言ってないから」
ものすごい目付きに成りかかっていたチサトさんに牽制球を送っておく。とりあえず、「女作って逃げた」説はお蔵入りとなった。
「他に案は?」
「俺は、ホンタイは犯罪に巻き込まれたんじゃないかって線も考えるべきだと思うよ」
「大袈裟だな。でも、実は俺もそう思ってた」
「で、どんな犯罪だ?」
「それは……幼女誘拐とか?」
「むしろ犯罪巻き起こす側かよ! さっきのとそれほど変わってねえよ! ていうか、チサトさんの方見るのやめてあげようよ!」
まあ、喚いているのはきっとチサトさん担当だろう。
「とりあえず、会議続けるならピザでも取る?」
話題が途切れたのでそう提案する一郎がいた。そういえば腹が減ったなとぼんやり思う。そういうことに気が回る一郎もいたってことか。
ああそりゃいいやと、口口にトッピング材料が叫ばれる。これだけ同じ一郎がいても意見が偏らないというのも面白いところだ。あいつがアレ注文したから俺はコレにしよう、とかそういうリレーになっているのだろうけれど。
普通にひとりの人間であっても、特定の目標がなければその枠組みは意外と広がる。今日はパイナップルピザが食べたいけど、なければ激辛チョリソでもいいかなとか。
ふと、このまま大家族として暮らすのも良いのかも知れないとポツリと呟くと、隣の一郎は少し不思議そうな顔をした。
「なんかさ……みんな落ち着きすぎてないか? そりゃさ、最初は驚いてたみたいだけど、順応速度が並じゃないっていうか。ピザ食ってる場合かよ、とか誰も言わないし」
「そうかな、実は俺はまだこの状況に慣れてない。でも、腹が減ったらメシは食うだろ」
そう言って入ってきたのはピザ注文の当人だった。この一郎はちょっと離れた視点を持っているようだ。
やがて、ピザが届くとそれぞれチーズを引かせながら食べ始める。
「トマトとチーズって凄く相性良いのよね……」
頬杖を突いて行儀の悪いチサトさんもなんだかんだで3切れ目だ。と、昨日からこの人に食事を出していなかったような気がした。まあ、好きな時にだけ食べる人もいるのだから放って置こう。薮蛇は遠慮したい。
「チサトさんってパイナップルは容認派?」
「んー、スブタはNGでピザはGOODね。ハンバーグはOK」
「複雑な基準があるみたいだね……」
「そりゃそうよ。料理と恋は良く似ているわ。アタシとイチローは完全無欠だけど。でも、他のオンナもいんのよね……そっちはどうなの? 相性とか」
隣に座っているチサトさん担当が口元を拭ってやっているという中、唐突にそんな質問を投げかけた。
「……」
「……」
「……」
「……」
誰かは答えるんじゃないかと期待していたのに見事に全員黙ってしまった。
「……変な沈黙ね」
声に出してそう言ったのは唯一の部外者にして質問者だった。チサトさんには天場一郎の心の機微は読み取れなかったのだろう。逆に、新参であるはずのチサト担当はわかってくれたような気がする。俺たちが統合された一郎から最も新しく分かれ出たのだから個別の歴史が浅くても逆に俺たちと通じるものは大きいのだろう。
だが、そんな俺たちの間にできたわかりあえる空間を見過ごすほどにはチサトさんの眼力は弱くなかったらしい。
「……イチロー」
「は、はいっ! ええと、皆彼女との関係についてはその、不満というほどではないですけど、違和感というかそんなものがあって、ぶっちゃけ、本当に好かれてるのかどうかもわからないというか」
一瞥もくれず、名前を呼んだだけでチサト担当は落ちていた。そして、黙っていたままでいて欲しいことをペラペラとしゃべり出す。思った通りに俺たちの気持ちは通じ合っていた。
ただ、不幸なことに気持ちは踏みにじられたのだ。
しかし、そんな惨めな想いすらも軽くはねのけられる。
「なら、確かめてみれば良いじゃない」
俺たちが微動だにしないので女神然とした見た目だけの少女は繰り返し意思を伝えた。
「直に確かめるのよ。彼女たちの愛情ってやつを」
「えー……」
ずいぶんと軽く言われたものだった。それが聞けるのならばそこまで思い悩んでなんかいないというのに。
「ちょっと待って、そういうのは当人の間のことだからさ、あんまり口出し――」
「いいえ、やってもらいます! これは現在起こってる問題を解決するために必要なことですから!」
いきなりそんなことを言い出した。
「え? なんで関係あるの?」
当然疑問を口にするが、個別に答えるつもりはないようで、ペラペラと説明を開始した。
「いい? 世の中の大抵の事件はごく身近な人間の犯行なのよ? 殺人事件が起こればまず真っ先に疑われるのは動機がある関係者。次は身近な関係者。いきなり通り魔を探そうなんてことはしないの」
「まさか、彼女たち疑ってんの?」
「まあ、怨恨とかの線から入るってのはよく聞くけど、だからってこの事件?もそういう風に身内を疑うってのは短絡的なんじゃ……」
口口に文句を言うも、それについても完全に無視している。しかし、ちゃんと聞けば疑問だけは氷解しそうなのでこれ以降は黙ろうと俺たちは目顔で合図した。
「そして、これはあんたたちの事情に特化したことだけど、多分あんたたちを殺したら普通の殺人よりも重い処罰が下るわね。そうすると、単純な利害を超えたところ、法律を超えた支援が見込まれるような団体か、それとも――つながりの深い恋愛関係者ってことになるのよ。でも、今現在も愛し合ってたら何も問題はないとも言えるわ。例外はあると思うけど。まあ、アタシとイチローみたいにね」
当のチサト担当はかなりげんなりした表情になったが、これもとりあえず無視する。
「だからね、気持ちを確かめ合うの。恋人同士なら自然なことでしょ? もちろんアタシはイチローのこと愛してるわ、大好きよ」
真顔で宣言する。
「は、はぁ……」
「まあ、それはおいといて、確かに容疑者としちゃ十分なのかな?」
「うーん、でも、当日はみんなデートしてたんだろ? アリバイなくないか?」
「そのことなんだけど……俺たちがこの家に集まってた時間くらいだと思うんだけど、もうひとりの一郎を見たらしいんだよ、オミが」
そういうと一気に場はざわつきだした。
「何で言わないんだよそんな重要なこと」
「後で言うつもりだったんだよ。隠してたわけじゃないよ」
「まあ、良いじゃないか。場所は?」
「駅前。見たって言ってもチラッとくらいでどこへ行ったかとかは知らないってさ。ホンタイかどうかもわからないしな」
オミは俺がオミ担当であることは知っていても、コロ担当やチサトさん担当のことはわからなかった。おそらくはホンタイについてもわからないだろうと説明する。
「だから、その時間にアリバイがあるのがわかってるのは……」
「アタ、シだけってわけね」
ピザを平らげて炭酸飲料水を飲んでいるチサトさんがゲップしながら呟いた。
「じゃあ、決まりだな。疑いたいわけじゃないんだ。やるべきことはすべてやっておこうと言ってるだけなんだ」
その後、打ち合わせに入り詳細が決められていった。
まず、一人ずつだと時間がもったいないので、2チームにわかれるということ。自己申告は意味がないので交代で見張ること。路理ペアは分かれてそれぞれにくっつくこと。午前と午後くらいに分けて、軽くデートでもして自然な流れで聞くこと。
班分けはオミ・コロ班、ソラ・トナ班と決まった。
さて、これで明日を待つだけだというムードになった。しかし、午前のメンバーはやることがある。呼び出しの電話だ。明日になってからでも良いのだが、なるべく確実を期したいということから今日の内に掛ける事になった。午後は午前の予定次第なので当日勝負でもしようがない。
しかし、いざこの段になって問題が発生する。
「なあ、オミは除外して良いんじゃないか?」
おずおずと手を上げて発言した一郎に、たちまち、どういうことだと問い詰める声が上がる。
「いや、オミはさ、幼なじみだろ? 少なくとも他の子たちよりは素性がわかってるわけじゃないか。だったらわざわざ気分の悪いことしなくても……」
「ちょっと待て、お前オミ担当だろ?」
ズバリ言い当てられてぎくりとする。
「あ、ああ、そうだけど?」
「それを欲目ってんだよ。誰だって自分の彼女のことなんて疑いたくないだろ。例外はナシだ」
「いや、例外は作って欲しい。主に俺のために」
「おいおい、お前は誰担当なんだよ?」
「……チサトさん」
あ~~~~~~~~~………………………………と長い息の漏れる音を聞いた。
「仕方ないよね」「そうだな」「あの人疑っても始まらないでしょ」「そうそう、やる時は正面からやるよね、たぶん」「黒ゆえに白ってことで」「いいね、かっこいいよなんか」「どうせ明日やらない側の人だしね」
さすがにチサトラウマは全員共有しているだけあって話が早かった。
その後、オミもソラも快諾してくれたので就寝。
2‐2.阿佐島緒未と恋する一郎
「ほんとにやるのかよ?」
「まだそんなこと言ってんのかよ。いい加減腹くくれ」
コロ担当に一喝されて、しぶしぶと待ち合わせ場所へと出て行く。
昨日のことを思い返すと、胃が重たい。このままじゃオミとの食い倒れデートなんて無理だ。コロ担当の気持ちがよくわかる。
昨日は全員の目の前で電話させられかけたのだが、せめて一人でやらせてくれと、一時的に宛がわれた自室へと篭った。メモリに登録されているくせに番号を一つ一つ押していく。こんなことをしても問題が先延ばしになるわけでもないのに。
オミのことを疑っているわけではない。あいつがそんなことをするはずはない。それに、好かれているということに関しても、言っちゃ悪いが他のどの一郎よりも自信があった。
しかし、自信はあっても裏づけはない。もしも、それが崩れ落ちてしまったとしたら、今後、どんな顔をして会えばいいのかすらわからなくなるだろう。ひょっとしたら、オミの方から去っていってしまうかも……なんでもなく振り回されるだけの関係ならばこんなことで悩まなくても済んだかもしれないのに。
そして指は無情にも間違えることなく数字を押し終わり、発信の手順へと移る。
「発信しますか」「いいえ」
「発信しますか」「いいえ」
「発信しますか」「いいえ」
「発信しますか」「はい」
指がすべるのも限界だった。ディスプレイの表示から目を背けるようにして耳を付ける。
コール音が聞こえて、もう戻れないことを悟る。どうせここで切ってもオミは掛けてくるに違いない。非通知にしておけば良かった。1回、2回、3回目で「もしもし」とオミの張りのある声が出た。
「ええっと、俺です。一郎です」
「あ、一郎ちゃん? どしたの?」
「えーと……」
言葉に詰まってしまった。ふと考えると、携帯電話は持っているが、緊急連絡用みたいなものでオミと普通に話したことなどほとんどない。まあ、いきなり用件に入った方が良いのかもしれない。
「明日、ヒマか?」
「うん、どっか行く?」
彼女の方から誘ってくれた。さすがに幼なじみ。話が早い。
番号はオミ担当専用の物になっているので元に戻っていないことはすぐにわかったようだった。
「お待たせっ、一郎ちゃん早いよ~」
駅前の広場で俺を見つけるとすぐに飛んでくる。そうか、このくらいの時間だと早いのか。
考えてみれば待ち合わせなんてものもしたことがない。どのくらい早く来ればいいのかなんてわからないが、女の子を待たせるもんじゃないとそればかりが気になってしまって――
などと真面目に考えてしまったが、別に早く来て文句言われることもないわけで、挨拶程度のことだったらしい。
俺のことなどお構いなしにオミはさっさと先へ行ってしまう。デートコースを考えていたのも無駄になるのだろうか。しかし、方向がおかしい。そちらは繁華街から外れてしまう。
「おい、そっちに大食い店なんてあったか?」
「え? あ、いつものが良かった?」
振り返ったオミはいかにも意外だという顔をする。まあ、目的を考えればオミが暴れまわるんじゃやりにくいか。そっち方面なら人もいなさそうだし。
「いや。どっか行きたいとこあるの?」
そう言うと、ひときわ輝く笑顔で「うんっ」と返された。
住宅街をくねくねと歩いていくと、懐かしさが押し寄せてきた。年齢が上がると行動範囲が変わるが、ここは昔来た事のある道だ。
やがて、少し開けた場所に出た。ここが目的地なのだと、青青とした緑に目を細めながら確信した。
「久しぶりだよね、ここ」
小さなブランコが置かれているだけの公園とすら呼べない遊戯施設だった。
「……そうだな」
本当に久しぶりだ。オミと再会してからも一度も行っていない。
俺とオミは幼なじみではあるが、空白期間も持っている。確かにここで遊んでいた頃、オミとは毎日のように遊んでいたのに、なんらかの事情でオミはこの土地を離れていたのだった。親の事情だと思うがそこは聞いていない。やがて今度は引っ越してきたチサトさんと知り合うことになる。だから、オミもチサトさんも俺の共通の幼なじみではあるが、お互いは知らない関係のはずだった。
オミと別れ、チサトさんと出会い、そして暗黒の少年期を迎えることになるわけだが、この場所を大切に思った俺は、チサトさんとは決して遊びにこなかった。だが、それもやがてチサトさんの海外留学によって終わるのだが、足が寄り付かなくなっていた俺はそのままこの場所も忘れていったのだった。
俺は風化させてしまったのに、オミは覚えていた。
高校受験の日に再会する偶然も、分裂という現象で結ばれた関係でもピンとこなかったものがようやくやってきた。
二人の途切れた時間が、やっと繋がった気がした。
「どうしてここに?」
「一郎ちゃんから初めて誘ってくれた記念」
素直に可愛いと思ってしまった。ホンタイを探すためとかパートナーの真意を探るとかそんなくだらないことはどっかに吹き飛んでいった。
ただ気持ちが、知りたくなった。
「オミは俺のこと……好きか?」
「うん、大好き」
間髪入れずまるでひと続きの言葉であるように、俺とオミがひとつの存在であるように、自然にその言葉が生まれてくれた。
そのまましばらく昔話をした。
「お母さんに怒られたり、怖い犬に追いかけられたり、ブランコから転落して怪我したり、いつも一郎ちゃんが慰めてくれていたもの。でもそのやり方が食べ物くれるだけ」
「餌付け?」
「そう! わたしのこと犬猫と勘違いしてたんだよねきっと。失礼な話ねぇ」
「まあ、可愛いからエサやるんだろ?」
「上手いこと言ったつもり? おかげで大食いになっちゃったんだから」
「どんだけ食わせたんだよ」
冗談のような話に口元がほころぶ。ついでに腹もなって、2人して笑った。
いつの間にか繋いでいた手を感じ、もうこれで良いなと感じた。
午後からはコロ担当の予定もある。
いつまでもこうしていたいが、切り上げようと決め、言いたかったことを口にした。
「なあ……ところでお前は一体誰との思い出を語っていたんだ?」
手の中でビクリとオミの指が跳ね回る。逃れようとはしていない。きつくは握っていないのに、離れず、むしろ力は強くなる。俺はそれが収まるまで待った。
確かにここには来たことがある。オミと遊んでいたのも事実だろう。だが、その大半は俺には身に覚えのないものだった。
「な、なんのことかな?」
快活さが売りだった声は無残に震えていて、俺は言わずに済ませなかったことを後悔してしまった。オミの尻馬に乗っかってただの勘違いで笑い飛ばしてしまおうかと思った。
「知りたいだけだ」
苦しくて、それだけを言うのがやっとだった。オミはもっと苦しさを感じているはずなのに。何もしてやれない臆病で無力な自分を恥じた。俺にできるのはこの手を離さないという意思を伝えることだけだった。
やがて、俺の望むところを理解してくれたのか、今まで聴いたこともないような暗いトーンで話し始めた。
「わたし……好きな人がいたの」
ああ、やっぱりと思った。オミくらい可愛ければ言い寄る男もきっといる。そしてその中には本気でオミが好きになる男もいるはずだ。
「さっきのは、多分ほとんどその人のこと。ごめんね、一郎ちゃん」
「いや、いいんだ。で、そいつはどうしたんだ?」
「……死んじゃった」
それは想定外だった。二股を掛けられるような奴じゃないから、別れるかはしていると思っていたが。
「だから、わたしはもう死んじゃう人は嫌。わたしを置いてどこかに行っちゃう人は嫌。どこまで追いかけても追いつけなくなっちゃう人は嫌。だから、わたしが一郎ちゃんを分裂させた時は嬉しかった。だって、一郎ちゃんがもし……」
そこまで言って言葉に詰まる。そこから先は言ってはいけないと思ったのだろう。
しかし、昨日俺が分裂したままだった時にオミが異様に喜んでいたのも頷ける話だ。要はスペアが大量に転がっていたのだから。
「ごめんね、わたし、一郎ちゃんをその人の代わりにしちゃってたのかも……」
オミを責める気持ちなどない。俺がその立場でもそうしていたかもしれないから。
「俺がそいつの代わりでも良いよ。でも、俺の代わりを探すのはやめてくれ。俺はどこにも行かないよ」
そう言うのがやっとだった。
2‐3.徒舟小古流と恋する一郎
「さて、次はお前だぜ」
落ち込み気味のオミ担当は放っておくことにしたのか、チサト担当が俺に話を振ってくる。俺の担当は徒舟小古流。我がクラスの委員長にして俺の彼女だ。さっぱり自信がないのだけれど。
だって、お茶しても、食事しても、映画行っても、公園行っても、遊園地行っても、どんなことをしても、ほとんど笑ってくれないのだ。俺に見せる表情の大半は、むすっとした仏頂面。不平も不満も言葉を必要としていない顔。あれで彼氏としての自信を持てという方がおかしい。
いつも以上に重苦しい気持ちでケータイを取り出し、コロの番号を呼び出す。考えてみればコロを誘うのって初めてだ。俺はコロに手を引かれなければ分裂して現れないのだし当然だが。電話で話すということ自体珍しい。ホンタイとはたまに電話しているはずだが、事務連絡的な素っ気無いものだし、どう話せばいいのかわからない。
しばらくして繋がった。繋がってしまった。俺はなるべく普通の声を装おうとした。
「おう、コロか? デートしようぜ」
「やだ」
呆気なく通話は途切れた。
俺を見守る一郎たちには何が起こったのかわからないようだった。
「切れちゃった」
「掛け直せ」
「失敗でしたってことでダメ?」
「ダメ。っていうか、少しは交渉しろよ」
しようがなく、リダイアルする。良かった、着信拒否まではされていない。いや、そんな安心嬉しくない。しかし、またしても切ろうとするので、必死になって頼み込む。必死さが伝わるなら受話器越しに土下座でもする。ていうか、した。
「頼むよ、大事な話があるんだよ」
携帯電話の向こうで、コロがいつものように目をつぶり髪をいじりながら深く息を吐くのがわかった。クラスをまとめる時や、たまたま買おうと思ったものが売り切れだった時なんかによくやる仕草。コロは校則や予定などの決められた事を重んじる。その彼女が妥協し、自分を折るための一種の儀式だ。
オーケーしてもらえたと確信し、実際その通りになった。
「……じゃあ、図書館に行くから一緒に来て」
家まで迎えに行くのは時間の無駄だと却下された。道のりに適当な場所もなかったので、図書館入り口で会おうということになった。所要時間については話さなかったが、案外早く現れた。しぶってなかなか来ないという予想は外れていたが、意表を衝かれたのは他のことだった。
「ていうか、その格好……」
「なによ」
ぼさぼさの髪をヘアバンドで止め、Tシャツ、ジャージ、ただでかいだけが取り得のバッグを担いだコロがそこにいた。錆が浮きまくったママチャリに跨って。
「いつもはもうちょっと……」
「まともだっての? いいのよこれで。動きやすいんだから。言っとくけど、あたしは一度ならず二度三度と念入りに断ったんだからね! あたしの用事にたまたまあんたを付き合わせてるだけよ。そこんとこ勘違いしないでよね」
そう言うとドスドスと図書館内に入っていった。
図書館で何をするのかと思えば、普通に勉強をしていた。バッグの中には無造作に本や筆記用具が詰め込まれ、空いた机に陣取って本を開いては書き取っていっている。俺は手持ち無沙汰で隣に座った。
「成績の悪いお前にしちゃ珍しいな……」
「言っとくけど、わたし数学だけはあんたより成績良いわよ」
そうだったのか。とはいえ、俺の成績なんて普通もいい所なので比較対象が大したことない。学内でもコロが数学ができるなんて噂もないから本当に俺よりは上という程度なのだろう。
しばらく黙っていたが、本当にこちらを無視してがむしゃらに勉強していた。放って置くと閉館時間までこの空気は変わらなさそうだったのでなんとか話しかけてみる。
「どんな本読んでるの?」
「あんたに言っても解らない本」
ダメだった。まあ、確かにちらっと見ても普通の小説なんかとはまるで違うのがわかったけど。数学か……そうだ、あれなら。
「果無子さんの本ってあるのかな?」
ピクリと手が止まる。成功したのか? だが、コロは沈黙を守ったままバッグから皮のブックカバーが掛けられた本を取り出して俺の目の前に置く。
「それ、あたしの私物だから」
汚したりしたら殺すと言いたいのですね。
そーっと触ってパラパラと中身を見てもさっぱりわからなかった。ほんとにこれ果無子さんが書いたのだろうかと、カバー折り返しを見てみると「いえーい」と親指を立てた果無子さんの近影が確かにあった。ああ、果無子さん、俺に勇気をください。
「あのさ、コロ……」
いつまでも切り出さないわけにもいかない。オミ担当の一郎はやってくれたのだ。俺も自分の役割を果たさなければならない。とはいえ、どうにも気恥ずかしい。今まで俺の方からだって「好きだよ」のひとつも言っていなかった。言ったらどうなるのだろう。言ってしまったらどうすればいいのだろうか。頭の中がぐるぐると回り、チサトが「手段は選ばないわ。なんだったらキスでもしちゃいなさいよ」と言っていたのを思い出して、顔が真っ赤になったのを感じた。
「俺のこと好きか?」
だから、つい漏れ出た言葉に俺自身も驚いたのだが、
「な、なによ! いきなり何言ってんのあんた!」
コロの大声は予想以上だった。
「んんんっ!」
そんな唸り声が聞こえたのでちらりと見ると、いつの間にか隣に座っていた中年男性が渋い顔をしていた。コロの声はとても良く通る。騒いだ教室を鎮めるのには役立って、ひそひそ話には向かないことで有名だ。
迷惑を掛けたことを知ってしゅんとなったコロを中庭に連れ出した。
「はぁ、あんたのせいで……ってなんで笑ってるのよ」
「いや、図書館デートとか珍しいなとかね」
「……」
無言で睨み返される。何か悪いことを言ったのだろうか。
「もちろん、コロの方にはそういうつもりはなかったんだろうけどさ、いつもデートスポット行ってぶらぶらして食事してとか、普通……っていうか絵に描いたようなデートばっかりだったから新鮮な気分にはなったかなって……」
そう言えば、そういうお決まりのデートって、コロから誘ってたんだな。それで不満になるのか。どういうことなんだ。
しかし、気が付くとそれまで以上にコロに睨まれていた。そして、目の淵には涙が。
「そうよ、普通よ! あんた普通が好きでしょ! なんか文句あんの!?」
「いや、別にそういう意味じゃ……」
いきなりの剣幕にたじろぐ。
目を閉じ、大きく息を吐く。コロが踏ん切りをつける時のクセだ。さっき以上の罵声が飛んでくるかもと覚悟した。
「……さっき好きかって聞いたよね」
だが、その声はか細く聞き取りづらく、「え?」と思わず聞き返していた。
「あたしが天場を好きかってことよ……!」
その声にこもるのは、羞恥でも苛立ちでもなく、深い後悔、そんな気がした。
「あ、ああ。その……コロっていつも怒ってるみたいに感じるからさ。付き合ってる実感がないかな……なんて」
この期に及んですべてを打ち明ける勇気は出なかった。いや、真剣に向き合おうとする人間に対して、容疑を掛ける真似なんて蛮勇でしかないのか。しかし、苦し紛れの言い訳こそがコロの心を決壊させてしまった。
相変わらず睨み付ける瞳からボロボロと涙が零れ出した。
コロが初めて見せた弱さに、俺はどうして良いかわからず、ただぽつぽつと溢れ出てくる独白を聞いていた。
「あたしは……わからない。わからないの。だって、教室に連れ戻そうとしただけであんたが現れて、それで恋心を抱いている人間だけがそういうことができるなんていきなり言われて、でも、そんな風に考えたこともなかったし」
これはコロが1年近く抱え込んでいた想いだ。俺がコロに好かれているか悩んでいた以上に、自分自身の気持ちがわからずに、今こうして涙を流してまで苦しがっていた。
しかし、今まさに俺の中から湧き出す熱い思いがあった。
「俺は……コロががんばってくれたのは嬉しいよ。たとえ動機が純粋さと程遠くても」
え、と見上げるコロは涙でぐしゃぐしゃになっている。だが、それが美しいと思った。最後まで守り通した仮面が砕けても、それを醜いと思うことはできなかった。
このままキスをしたいと言えばさせてくれるのだろうか。俺は、コロが知りたかった。
「果無子さんのことを信じてくれたんだろ?」
「そうじゃないの……そんなんじゃないの……今は……」
泣きじゃくるコロの肩に手を回し、ただそのままじっとしていた。
2‐4.細愛空と恋する一郎
「一郎さんから誘っていただけるなんて嬉しいです」
ふわりと花を舞わせるような幻覚を引き連れてソラは待ち合わせ場所にやってきた。今日のお召し物は菖蒲柄の和服。これで三日連続だ。休み中はずっと着物で過ごすと決めているのだろうか。
「お昼、どうします?」
お互いお昼を食べてからくらいの時間にすべきだったと後悔した瞬間だった。俺が呼び止めようと思っていると、さっさと「この店にしましょう」と、外装でヤバイ、内装で逃げたい、そんな感じの店に入っていった。
御付の人を外させたのは失敗だったろうか。こんなこと聞かれたくなかったからなんだけど。いつもはまともなお店をセレクトしてくれてたあの人たちに心の中で謝った。
「じゃあチョコレートコロッケを」
耳を疑った。
メニューを確認すると確かにあった。パッと見ドーナツっぽいが、切り口からは明らかに蟹クリームがあふれていた。どうも視覚野が認識を拒絶していたようだ。
「ほ、ほんとにそれで良いの?」
「ええ、一郎さんお願いします」
にっこりと微笑む。ソラに聞いてもそう返ってくるのは予想通りだったが、聞かずにはいられなかった。だって、普通のチョコじゃなくて7色のカラフルさに加えてなんかキラキラ光ってるし。人工着色料の毒毒しい色合いに、光ってるのは銀紙が調理ミスで入ったものなんじゃないかと疑いたくなる。
「すみません」
「はいはいはいはいはいはぁーい!」
手を上げて呼ぶと、クスリでもキメてんじゃないかってくらいにハイテンションのウェイトレスがやってくる。
「チョコレートコロッケと……」
「ご一緒にチョコミントメンチカツですね」
「言ってねえよ。ていうか、そんな禍禍しいもんまであんのかよ」
そう文句を言うと、メニューをパラとめくって一角を指差す。
本当にあった。そりゃもうチョコミントメンチとしか呼びようもない完璧さで食欲を完全に殺ぐ異様な物体が。
「とっても相性がよろしいですよ。まるでお二人みたいに」
上手いこと言ったつもりかよ、満足げな顔しやがって。ちょっと棒読み入ってたぞ。それに初対面でそんなことまでわかるもんか。だいたい、相性って2つとも食わせる気かよ。量的にはたいしたことないようだけど、こんなケッタイなもん2つも食いたくないよ。
「はんぶこずつで良いじゃないですか――」
「心を読むな」
「いえ、『はんぶこずつで良いじゃないですか』と言うとでも思いましたか?ってことなんですけど。ナメないでいただけますか? こちとら商売であんなもん出してんじゃないですよ? 『半分なら大丈夫』なんて甘い考え軽くぶち壊してやりますよ。一口であなたたちの仲まで。公衆の面前っていうか、あたしの目の前でいちゃつくことがどういうことか教えてやります。あ、でもお品は激甘ですからご心配なくですぅ」
「わあ、一郎君、激甘だって」
なんということだ。俺の彼女は人の話を聞くという基本がまるっきりできていない。剥き出しの釣り針に引っ掛かってしまうちょっぴりアレな人だったようだ。いつものことだけど。
額を押さえながらウェイトレスを盗み見ると、くふふと勝ち誇った笑みを浮かべていた。言外の圧力にソラの方へ目をやると、すでにメンチに夢中だった。さりとてコロッケも忘れているわけではない。2つのメニューを並べてしっかりと指で押さえている。忘れてて欲しかったのに。
「……!」
俺へ向ける期待の眼差しがまぶしい。俺なんかが直視できないほどに、まぶしい……。
「おっまったっせ、しました~!」
数分後、ホカホカと湯気を上げる原色の何かが運ばれてくる。熱した油の甘い匂いを塗りつぶすような、強烈な甘臭を漂わせて。サンプル写真から想像はできていたが、とろりと融けたチョコレート特有の芳醇な匂いだ。料理が料理でなければのどの一つも鳴っただろう。せめて固形であったら別々に食べることもできたはずなのに。
「こちらチョコレートコロッケと、チョコミントメンチカツでぇ~す」
結局、自分が今やっていることの罪悪感もあって、コロが目で訴えるまま二つとも注文してしまった。
「チョコレートコロッケのお客様は? どちらでしたっけ?」
「客ガラガラなんだから注文くらい覚えろよ! それと、もうどっちでも良いから! さっさと真ん中置いて引っ込め!」
俺が普通の小心者らしく小声でツッコミを入れるも、反応は無し。店のチョイスからして完全に失敗だったと腐りかけたのだが、
「わーい」
小さく手を叩いて無邪気に喜んでいる姿を見たら文句も引っ込んでしまった。
「いただきます」
ソラは行儀良く礼をしてから箸を取る。
そして、一口サイズにちぎった油とカカオの狂った芸術作品を、正統派の芸術作品たる唇へと運んでいく。芸術は融合と破壊を経て新たな息吹を吹き込まれ再生する。
芸術派時として理解することができない。
「わかったって、そんな目で見るな」
泣きそうになってぷるぷると箸を差し出したがっているソラを制した。
これ全部か……迷惑料だと思って我慢しよう。
調味料の類をさりげなく隠しておいて良かった。気まぐれでなんでも入れたがるからな。
30分後、薄れ行く意識の中で俺は自分の声を聞いていた。
「ソラ、俺のこと好きか?」
どうやって切り出そうかと悩んでいたが、酔った勢いという手がオトナの世界にあることを思い出した。船酔いとか車酔いとかそっちの方の酔っぱらいになっているわけだが。
しかし、ソラは当然ですとでも言いたげににっこりと微笑む。
「私、ずっと自分の立場が不満でした。誰も私の本当のところを見てくれないんです。あるのは家名か、お金だけ。だから、一郎さんのことを知った時に決意したんです。もしも、一郎さんを分裂させられるのならば、私は特別なのだと。細愛空という個人として胸を張れるのだとそう願掛けをしてきました」
「あ、そ、そうなんだ……」
勢いをつけてしゃべり出したソラは俺に詰め寄ってくる。だが、俺はむしろ押し止めたいと思ってしまった。今のソラはちょっと……怖い。
「一郎さんがいるから今のこの私がいるんです。嫌いになるなんて考えられないし、一郎さんが私を嫌うことも考えられません」
あれ? 抱きつくソラの力がどんどん強くなる。
なんかおかしい。
「だから、一郎さんは私のモノです」
ひょっとして、俺、大凶キャラ掴まされてた?
2‐5.婁宿都波と恋する一郎
ソラと抱き合いハッピーエンド。ソラ担当は一応成功したようだった。傍目で見てかなり落ち込んでいるように思えるのが不思議なのだが。チサト担当と事後ミーティングするはずなので、後で聞いてみよう。
「コロも終わったって」
チサト担当があちら側の状況を伝える。これで残るは俺だけか。
婁宿都波という人間を知る俺にとってはあいつが何か悪事を働くとはとても思えないのだが。もちろん、他の恋人たちの誰を取ったとしてそういう人間がいるとは思っていないが、そちらは俺たちへの信頼というか願望のようなものだ。トナに限って言えば事実に過ぎないのだから格が違う。
とはいえ、この問答茶番劇がどう転ぶかにも興味があった。
トナは押しかけ女房のくせにどこか自分の好意を不透明にさせているところがある。「俺のことを好きでもないのに付き合っている」という設問だけであれば、こいつこそが大本命だろう。
オミは鉄板で外せる。俺の勘違いでなければあちら側から告白してこようとしてきたわけだし。
トナの対抗になるのはコロくらいだろうか。わかりやすく好意を寄せている場面など一度たりとも見たことがない。コロ担当とは何度も記憶を共有している。傍目だけでなく、ある程度の実体験を込みで言わせてもらえば、筋金入りにも程がある。
ところが、トナは一見仲良くしてくれているし、恋人っぽいアクシデントも多発しているように見えるが、本気さが余り感じられない。
だから、良い機会だから気持ちの確認をしたかったのだ。
デートの取り付けにしたって、
「トナ、遊びに行こうぜ」
とまあいつものトナを真似て軽いノリで誘ってみた。深刻になる必要もない。断られたら断られたでこんなもんに付き合わなくてよくなるだけだし。後日改めてやらされることは予想できるが、その前にひょっこりホンタイが戻ってくれば良いだけの話だ。
「うん、いいよ」
案の定二つ返事で呼び出しに応じてくれたトナを待つ。その間もソラ担当は落ち込み続けていて、横目で見ながら俺は本当に大丈夫なのだろうかと心配になる反面、決してああはなるまいなどと誓う。
「お待たせー!」
急な呼び出しにも拘らずさほど待ったわけでもない。いつものように元気良く走り来る彼女は簡素な格好で、待ち時間の短さにもトナという少女の性向にも得心が行く。しかし、パーカーに短パンというボーイッシュなスタイルも実に良く似合う。この青い果実が色づき始めるのはいつの日か。
「まだ戻ってないん?」
「あ、ああ。まあ良いだろ。それよりどこ行こうか」
戻っていないとは、統合していないことなのか、ホンタイが帰還していないことなのか一瞬迷ったが曖昧に誤魔化しておく。
「暑いねえ。テンちゃん、泳ぎたくない?」
「まだ早いような……ていうか、泳ぎは大丈夫なのか?」
確かにこの時期にしては気温は高い方で薄着をしていても汗ばむほどだった。走ってきたトナなどは形の良い顎の先からも汗を滴らせている。屋内プールでも水に飛び込めば気持ち良いことだろう。冬の寒い時期に出会ったので今までそういうところへ行く機会もなかったことだし。
ただし、少しばかり不安要素があったので腕を回すジェスチャーで伝えた。
「え? 溺れたらボクが助けてあげるけど? あ、ひょっとしてマウス・トゥ・マウスとか期待しちゃったりしてる? 今はアレあんまり意味がないって話もあるんだよ。その代わり、骨が折れるくらい心臓マッサージしちゃうよー」
「その揉み揉みとした手は明らかに救護の心臓マッサージとは違うだろ! プロに任せろよ、プロに!」
「テンちゃん……まさかもうプロで卒業しちゃったの?」
こいつのシモネタに付き合ってる場合でもないので、さっさとプールへ移動する。心配事はあるが、自分で言い出したことなんだからなんとかするんだろう。
――3時間後。
「ん~、気持ち良かった!」
「俺は疲れたよ……」
あれからほとんどノンストップで泳ぎ続けた。俺に合わせて流して泳ぐと言っていたにしては並走すらしていた覚えがない。ただただケツに付いていくのがやっとでほとんど記憶がないし、トナは普通に競泳水着だったのでそんなシーンはカットすることにする。
「……あんな水着まで用意して泳ぐ気満満だったのかよ」
「いやあ、実は起きた時から『今日は泳ぐぞ!』って決めとったんよ。こんな天気の日に泳がないのはもったいない! もったいねぇ~もったいねぇ~とお化け出ちゃうから」
「晴れたら外で遊べと言われなかったのか。俺の友達の中臣君は晴れたらゲーム禁止だったんだぞ」
「まあ、気分優先で。でもボクの友達の蘇我さんは雨の日でも喜んで外で遊んでたよ?」
「ただの変な人だろそいつ。微妙に関係ないし」
「それに、水に包まれて包まれて、ぱーっと外に出たら晴れてるってのも気持ちいいっしょ?」
確かになんかこう泳いだ後というのは焼けたアスファルトの匂いだとかちりちりと肌を焼く感覚が妙に心地良い。多分、雨の日だったら雨の日なりの良さもあっただろうけど、これはこれで悪くない。
今日は予定があるからと切り上げなければ夜まで泳いでたんじゃないかという疑いもあるが。
「ていうか、肘は良いのか、肘は」
「え? ああ、さっき言おうとしてたのってそのこと? 泳ぐくらいじゃなんともないよ。ありがと、心配してくれて。はい、アイス上げる」
そうなのかとほっとする。意外と向こう見ずでもないな。なら、俺のことを分裂させてくれたのも割りとまともな理由があるのかも。
他の一郎に負けないように、俺も踏ん切りをつけた。
「トナ、俺のこと好きか?」
これまでの3人を見てきて疑似体験が済んでいたのだろう。思いの外あっさりとその問いを口にできた。そこまで酷いことになるとは思っていなかった。
だけど、トナはきょとんとした予想通りの表情を見せ、俺よりもあっさりとその言葉を口にした。
「好きじゃないかもね」
その一言は、思いの外、俺を傷つけていたようで、慌てたトナが、そういう意味じゃなくってと付け加える。
「たとえば、テンちゃんとえっち、するじゃない?」
俺はかじったアイスを噴き出した。合成着色料まみれの氷塊が宙に舞う様は、毒霧そのものだった。
「もちろん、好きだからって前提なんだけど。で、テンちゃんがボクに夢中になっちゃう。カラダのアイショーサイコー、やったね、若い肉体ゲットだ! で、毎日毎日えっちしまくっちゃう。一緒にいる理由の大半は気持ち良いから。好きだからよりも、気持ち良いからえっちしたい、そう思うようになる。きっとそうなる。そうしたら、テンちゃんはボクのこと好きじゃなくなっちゃうの?」
「うーん、どう答えれば良いのか……」
「ボクは、何か別の目的とかそういうのがあっても、だからって即座にそれ以外のことが不純になるとかそういうことはないと思う。だから、最初はテンちゃんと恋人になるのって面白そうだなーとかそういう気持ちでいたとしても、そっから好きになるのは良いんじゃないかな」
要するに、今は好きじゃないってことなのだろうか。
体の疲れがどっと出て、俺は倒れこんだ。