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追憶の英雄と、長命の賢者

掲載日:2026/05/05

序章 霧の朝と、届かなかった知らせ

春の終わりだというのに、辺境の村ウィローネルには霧が立ちこめていた。

がん、とん。がん、とん。

薪割りの音が、しん、と静まり返った朝の空気に響く。シン・アッシュワードは手斧を止めた。

指が、痛い。三日前から続いている疼きだ。ずきん、ずきんと脈打つように、人差し指の先から手の甲を伝って走る。霜焼けでもなく、打撲でもない。冬の夜明けに触れたような、じんとした冷たさを帯びた疼きだ。

「シン、お前に来客だ」

宿屋の縁側から声が飛んできた。元冒険者のヘクト爺さんだった。日焼けした顔に傷跡、五十がらみの男が煙管をくゆらせている。「来客ってのは複数いる。ひとりは都からの早馬だ。もうひとりは——」ヘクトは言いかけて、煙をふわ、と吐き出した。「白林の縁を見ろ」

白樺の林の縁に、人影があった。

長身の女だった。腰まで届く銀糸のような髪が、風もないのにさら、と揺れていた。耳の先端が葉のように細く尖っている。エルフだ。シンが生まれてから十六年間、村に来たことのない種族だ。

女の翡翠の目がこちらを向いた。ひどく疲れていた——疲れた、という言葉でさえ足りない。古い井戸の底を覗いた時の、暗くて深い静けさがそこにあった。年月の重さだ、とシンはなんとなく思った。

「シン・アッシュワード」よく通る声だった。「私はイリス。六十年前、勇者エルリックと共に魔王を封じた賢者です。封印が綻びつつある。あなたは、その勇者の転生体だ」

手斧が、ぼとりと土に落ちた。

それと同時に、もう一人が村道を駆けてきた。都の紋章が入った外套を纏った若い使者だった。息を切らして、巻き物を差し出す。「急報でございます。王都から——封印地付近で断続的な地揺れが発生、周辺農村において民が夢見が悪いと報告が相次いでおります。王国は来月、調査団を——」

「調査団より先に私が来た」イリスは静かに言った。

使者の顔が白くなった。「イ、イリス様……ご生存されていたのですか」

「常にそうです」

「ご生存でなければ、とうにこの世界は半壊しております」

「それも常にそうです」

ヘクト爺さんが縁側で「これは大事になりそうだな」と煙を吐いた。セバス老医が白髯を揺らして「気のせいじゃなかったな」と言った。宿の下働きのトマスが窓から顔を出してぎょっとした。シンはまだ何も言えなかった。

「証明できるのか、それを」ヘクトが横から言った。

「できます」イリスは静かに言った。「指が痛いでしょう、三日前から。封印の術式が、勇者の魂と同質の魔力に反応している。それが証拠のひとつです」

ヘクトがゆっくりとシンを見た。シンは何も言えなかった。

春の終わりの、霧の朝だった。


第一章 旅立ちと、王国の思惑

三日間、シンは眠れなかった。

母のダリアは最初「あんなエルフの話を信じるの」と言い、翌朝には「信じるなら、ちゃんと帰ってきなさい」と言った。どちらも本気だとシンには分かった。

出発の朝、村の東門前に十五人ほど集まっていた。

師匠のゴランが手を差し出した。六十過ぎの老魔術師で、白眉が厚くいつも筆インクで指が青い。「先生として誇りだ。この護符を持っていけ。若い頃、魔力枯渇から救われた品だ」

「ありがとうございます、師匠」

「帰ってきたら水術を教える。まだそこまで進んでいないからな」

「水術、俺より先に習うから」

ゴランの後ろで、幼馴染のアリアが赤い手袋を押し付けてきた。「魔力を通しやすいように縫い目を工夫した。帰ってきたら話を聞かせて」

「……ありがとう、アリア」

「エステルから先だって言ったろう」ルナの声がした。エステルが隣で「え、もう来てたの」と言った。ルナとエステルは封印地の守人の末裔で、昨日の夜に礼拝堂から降りてきていた。二人とも赤毛で、ルナの顔の右に刀傷がある。

「帰りに寄ってください」エステルが手を振った。「おじいちゃんのお墓、掃除しておきますから」

門番のガート爺さんが腕を組んで立っていた。「早く帰ってこい。うちの犬が寂しがる」パン屋のマリが携帯食のカゴを手渡した。「腹は空かせるな、若者」宿の下働きトマスが無言で頭を下げた。

イリスは門の外で待っていた。村人の声を、少し離れて聞いていた。その横顔がほんのわずか——やわらかくなった気がした。

「行きましょう」

「はい」

ふわ、と菜の花が揺れた。旅が始まった。


五里ほど歩いたところで、背後に蹄の音がした。

こつ、こつ、こつ、と石畳を叩く音。三騎だった。先頭は体格のいい二十代の男で、都の騎士紋章を外套に付けている。馬を止め、降りた。「王国三等書記官、ラウ・メルシアと申します。封印地への調査任務として派遣されました。同行をお許し願えますか」

「書記官が三騎で来る調査任務ではない」とイリスが言った。

ラウは少しだけ笑った。整った顔立ちだが、目の奥が涼しい。「さすがです、賢者殿。本音を申し上げれば、王国は封印地の実権を確保したい。封印が綻びを見せた今、補強作業を王国の管理下に置くことができれば、万一の際の対応速度が上がります」

「武器として使いたいということですか」

「資源として活用する、と申し上げています。誤解しないでいただきたい——私どもは封印の維持を望んでいる。ただその主導権が、賢者殿一人の判断に委ねられている現状は、国家として看過できません」

ラウの後ろで、若い騎士が目を逸らした。フィン・コルクス。二十歳そこそこで、ラウの命令には従うが、自分の意見を持っている顔だった。さらにその後ろにもう一人、背の低い魔術師ローウェンが無言で立っている。

「結論を言います」とイリスは言った。「封印地への同行は認めません。しかし補強が完了すれば、王国への報告書は私が書く。それで十分なはずです」

ラウはすぐには答えなかった。しばらく考えて、「——では途中まで同行させてください。支援という名目で。その代わり、ひとつだけお願いがある」

「何ですか」

「転生体——シン殿に、魔術の補助訓練をさせてください。書記官の資格以前に、私は王国魔術師団の元三席です。訓練の効率を上げる手伝いならできる」

イリスの目が細くなった。「……動機を正直に言いなさい」

「転生体がどの程度の魔力を持つか、直接見たい。それだけです」

「正直さは買います。——シン、あなたはどう思いますか」

シンは少し考えた。「俺はシンです。エルリック様の器として見たいなら断ります。俺の魔力を正直に見るなら、構いません」

ラウの目が、初めてシンをまともに見た。「……なるほど。では、シン殿。よろしく」


その夜、野営地の焚き火の傍で。

ぱちぱち、と赤い炎が踊る。イリスがシンに魔術指導を続け、ラウが少し離れて観察している。

「炎の素因を持つ者は、熱量ではなく密度で制御します。たとえばこのように」

しゅる、と空気を薄く割る音がした。イリスの指先から細い赤い線が伸びた。燃えているというより、凝縮されているような輝きだった。

「やってみます」シンは試みた。ぴしり、と先端が尖る感触。

「悪くない。エルリックも最初はそうでした。集中力は高いが、制御が雑で」

「どんな人でしたか」自然に問いが出た。

「優しい人でした」

「……それだけですか」

「優柔不断で、怖がりで、決断が遅い人でもありました」

「英雄がですか」

「英雄だからといって怖くないわけではない」イリスは静かに言った。「あの人はいつも、何かを恐れていた。仲間を失うことを。自分が判断を誤ることを。それでも決断しなければならない場面では、最後まで逃げなかった」

ぱちぱちと焚き火が音を立てた。

「俺も怖いです。今も、ずっと怖い」

「……何が」

「選択を誤ることが。でも、怖くて何も選ばないことの方がもっと怖いと、最近思う」

イリスはシンを見た。その視線がしばらくシンの上にあった。「……そうですね」

「少し聞いていいですか」ラウが口を挟んだ。静かな声だった。「賢者殿は、転生体を器として訓練しているのですか。エルリックの再現として」

イリスの手が止まった。

「器とは」

「炎の素因、制御の順序——エルリックと同じ魔術系統ですね。もしかして、シン殿自身の魔力特性を評価せず、既存の型に当てはめていませんか」

沈黙が落ちた。ぱちぱちと焚き火が鳴った。

シンはイリスを見た。イリスは炎を見ていた。その横顔が、ほんのわずか——揺れた。

「……参考にします」

「そうしてください」ラウは茶を一口飲んだ。「私は賢者殿の敵ではない。国家の立場と個人の考えは、時に別物ですから」

「あなた自身はどう思っているのですか」とシンが訊いた。

ラウは少し驚いた顔をした。「——封印は守られるべきだと思っています。それは本音です。ただその方法について、国は私に別の指示を出している」

「板挟みというわけですか」

「まあ、そういうことです」ラウは初めて、薄い苦笑いを見せた。

フィンがシンの後ろで「ラウ様が本音を言うの、初めて見た」と小声で言った。ローウェンが「俺も」とさらに小声で続けた。


三日目、宿場町ミルトン。

石畳にこつ、こつと蹄の音。吟遊詩人の歌声と酒場のシチューの匂い。

「旦那方、よければ東へ同行させてください」声をかけてきたのは赤ら顔の行商人ベルトだった。荷車には資材が積んである。「封印地近くまで用がありまして。一人じゃ心細い道なんですよ」護衛のライオスという無口な壮年が隣に立っている。

「封印地へ?」イリスが目を細めた。

「補修に来る職人連中への売り込みです。物騒な噂を聞きますが、旦那方は関係者ですか」

「そうです」

ベルトの表情がさっと変わった。「……そうですか。ならば余計に同行させてください」

ミルトンの診療所、薄緑の暖簾。薬草の甘い匂い。

「イリス様」ファリン二世が出てきた。母親ゆずりのやわらかな顔立ち。後ろから見習いのソフィーがひょっこり顔を出した。「ソフィーです。おばあさまのメモに、イリス様のことがたくさんあって——冷たそうに見えるが根は熱い人、と」

しばらくの沈黙。

「……ファリンらしい表現だ」

「怒られなかった」ソフィーが小声で言った。全員が聞いた。

診察の後、シンがファリン二世に指を診てもらった。てのひらがふわっと温かくなった。「封印の共鳴ですね。近づくほど強くなります」

「おばあさまは、イリスさんのことをどう言っていましたか」

「厳しくて、融通が利かなくて、でも誰より仲間を大事にする人、と。それから——」ファリン二世は少し迷って、「イリス様のそばにいると、不思議と安心できた、とも」

イリスは窓の外を見た。ふわ、と白い雲が流れた。「帰りに寄ってください。ソフィーがお茶を淹れます」

「美味しくなったんです!先生に教えてもらって!」

「……考えます」


第二章 盾の継承者と、真の要求

五日目の夕方、丘の上の礼拝堂。

こんこん。軋む音。

ルナ・クロムが出てきた。赤毛、顔の右に刀傷、二十代半ば。後ろから妹のエステルが顔を出した。

「イリス様」ルナの声に安堵と怒りが混じった。「五年ぶりです。お墓参りには一度も」

「……ごめんなさい」

「謝るんですね、イリス様も」エステルが言った。

「エルフも謝ります。ただ、五年という間隔を”すぐ”と感じてしまうことがある。言い訳ですが」

「……正直に言ってくれる方がいいです」ルナは短く言った。

礼拝堂の内部。ゆらゆらと蜀台の炎が揺れた。壁に盾の紋章。その下に肖像画、恰幅のいい白髪の老人が満面の笑みで描かれていた。

「クロム卿の肖像画ですね」イリスが言った。「笑った顔で描かせたとは、らしい」

「真面目な顔は剣士の像があるから、と。エルリック様と旅した頃の話を、よく笑いながらしてくれました」エステルが言った。

「エルリック様ってどんな人でしたか」

「笑い方が不器用な人でした。笑いかけた後に照れてすぐ別のことを言う」

「おじいちゃんもそうだったって。勇者の側にいたから移ったんだって、お母さんが言ってました」

ルナが喉の奥で何かを飲み込んだ。「シンさんは怖いですか」

「怖いです」

「そうですか」ルナは笑った。傷跡があっても、笑うと明るかった。「おじいちゃんも怖かったって。でも勇者は先に行くから、ついていくしかなかったって。——でも最後は、一緒に帰れたって言ってた。それが誇りだったって」

「俺は勇者じゃないです」

「知ってます。でもシンさんでしょう。それで十分じゃないですか」

翌朝、ルナが盾の欠片を渡した。「旅のお守りに。一つ頼みがあります」

「なんですか」

「生きて帰ってきてください。死ぬために行くんじゃないって、イリス様には言われましたか」

「……まだです」

「伝えてもらえますか。英雄の転生体でも、今はただのシンさんなんだから、死んで英雄になる必要はないって。おじいちゃんが言えなかった言葉を、私が代わりに」

シンは鉄片を握った。ひんやりして、重い。「伝えます」

エステルが小声で「ルナ姉、なんかかっこいいね」と言った。「うるさい」とルナが返した。


七日目、封印地への山道に入る手前で、傭兵ドランに呼び止められた。がっしりした体格、槍を担いでいる。「封印地へ向かうのか。同じ方向だ、道を知ってる。守人のコルデリア婆さんに頼まれた。援護を連れてきてくれ、と」

「コルデリアが健在でしたか」イリスの目が変わった。

「ぴんぴんしてる。恐ろしいくらいに。俺は一度会っただけで三日、震えが止まらなかった」

道中、ラウがシンの隣に並んだ。「シン殿、最後の提案です。封印補強の際、王国魔術師ローウェンを同席させてほしい。観測だけだ」

「イリスさんに聞いてください」

「賢者殿は断ります。だからあなたに。転生体としての権限があるはずだ——」

「俺に権限はないです」とシンは言った。「転生体だろうと俺は俺です。イリスさんが駄目と言えば駄目です。それ以上でも以下でもない」

ラウは黙った。しばらく考えて、「——了解しました」と言った。その声が、少し変わった気がした。

フィンがシンの後ろで「やるな」と小声で言った。ローウェンがため息をついた。

封印地の麓の集落で、老いた村長ヴァルが出迎えた。息子のカインと、嫁のテスが並んでいる。

「イリス様が来てくれるとは」ヴァルは頭を下げた。「村の子供たちが夢見が悪いと言い出してから、ずっと待っていました」

「子供たちが?」

「ええ。夜中に泣き出す子が増えた。魔の気配が漏れ出しているんでしょう。カイン、村の若い衆に避難の準備をさせておきなさい」

「父さん、俺たちも一緒に——」

「お前にはテスがいる」ヴァルは息子を見た。「守るべきものがある者は、最前線に出てはならない。それを教えてくれたのもエルリック様だ」

テスがカインの手をそっと握った。カインは何も言わなかった。しかし頷いた。

コルデリアの小屋。白髪の老婆が杖をついて立っていた。背は低いが、空気の重さが違う。

「遅かったね、イリス。まあ、エルフじゃ仕方ないか」

「元気そうで何より」

「見た目と違って中身はぼろぼろだよ。五十年、この地を守ってきたんだ」コルデリアは鋭い目でシンを見た。「これが転生体か。若い」

「シン・アッシュワードです」

「知ってる。アッシュワード——灰の番い手、か。名前は運命を引き寄せる」コルデリアはしみじみ言った。「弟子を紹介しよう」

小屋の奥から二十代の青年が出てきた。ウィル・フォーリン。丸眼鏡をかけて魔術書を脇に抱えている。「補佐担当です!師匠に比べれば力量は十分の一ですが、封印の記録と補助は任せてください!」

「記録師か」イリスが言った。「術式を記録してもらえますか。次世代への引継ぎのために」

「それが私の役目ですから!」

コルデリアは小さく笑った。「あの子は元気でいい。私が若い頃みたいだ」

「師匠ほど怖くはないですよ」とウィルが言った。

ぱん、と杖で床を叩かれた。ウィルは首をすくめた。

「シン殿」コルデリアがシンを見た。「封印補強の条件は理解しているか」

「七割三分の確率で死ぬと聞きました」

「そうだ。しかし一つ絶対条件がある。術者が自分の意志で生きると決意した魔力でなければ、術式と共鳴しない。エルリックがそう設計した。代わりに死ぬという動機では駄目ということだ」

「……自分のために生きる意志、ということですか」

「そうだ。それだけが条件だ」

その夜、ラウが来た。コルデリアの小屋の外で。シンが水を汲んでいると、静かな足音がした。

「シン殿、最後に一つだけ聞いてください」ラウは遠くの山を見ながら言った。「王国が封印を欲しがる理由、本当のところを」

「聞いていいんですか」

「あなたには話してもいいと思った」ラウは息をついた。「封印が完全に解けた時、大陸の三分の一が壊滅します。王国は自分が生き残るために、封印を”制御”しようとしている。武器ではなく——盾として。理不尽に見えるかもしれないが、それが国というものです」

「……それはあなた自身の考えですか、それとも王国の命令ですか」

ラウは少し驚いた顔をした。「鋭いですね。——半々です。国の指示は半分。残り半分は、俺個人の打算です」

「正直ですね」

「あなたが正直だから」ラウは少し間を置いた。「シン殿、俺は邪魔はしません。ただ——報告書は私に書かせてください。あなた方が何をしたか、正確に。嘘は書かない。それが俺にできる、唯一まともな仕事だ」

シンは少し考えた。「イリスさんに聞いてみます」

「それで十分です」ラウが立ち去った。

フィンがどこかから出てきた。「聞いてました。すみません」

「別にいいです」

「ラウ様は悪い人じゃないんです。ただ、国を動かす立場の人は——個人の幸せより先に、数字を見るように訓練されているから」フィンは少し声を落とした。「俺はまだ、数字より先に人の顔が浮かぶので、出世できないんですが」

シンは笑った。「俺も同じです」

「——同じですね」フィンは笑い返した。


第三章 夢の声と、解けていく沈黙

七日目の夜、シンは夢を見た。

赤い草の野原に立っていた。さあ、さあと風が鳴る。

「やあ」振り返ると、金色の短髪に緑の目の若い男がいた。顔立ちは大人だが、目の奥だけが子どものように澄んでいた。

「エルリック様ですか」

「たぶん。ここはあなたの夢の中だから、俺はあなたの一部かもしれない」男は草の中に座った。「あなたを見ていると、あの頃を思い出す。迷ってた頃。恐れていた頃」

シンも座った。さあ、と草が揺れた。

「俺が一番恐れていたのは」男は言った。「死ぬことじゃなかった。死んだ後に、何も残らないことだった」

「イリスさんが覚えていてくれますよ。長命族だから」

「そうじゃない」男は首を振った。「覚えてもらうことじゃなくて——一人の人間に、ありがとうを言いたかった。それだけなんだ。英雄の望みって、案外こぢんまりしているな」

「誰に」

男は答えなかった。笑った。寂しい笑いだった。

「あと一つ。次に生まれることがあるなら、誰かの代わりに生きるな。自分のために、生きろ」

夢が、崩れた。

目を開けると夜だった。焚き火の傍で、イリスが膝を抱えて座っていた。眠っていない。じっと炎を見ている。

「起こしてしまいましたか」

「いいえ。夢を見ました。エルリック様の、と思います」

イリスの手が止まった。

「ありがとうを言いたかった人がいるって」

声にした瞬間、イリスの顔が——ほんのわずか崩れかけた。しかしすぐに元に戻った。目だけが、濡れた。

「六十年間、ずっと一人でしたか」

「ええ」一言だけ。

「でも」

「でも」イリスが繰り返した。声がほんのわずか、揺れた。「長かった、と思うこともある。正直に言えば」

焚き火がどん、と爆ぜた。

「エルリックは」やがてイリスが言った。「旅の中で、よく夜に星を見ていました。星の名前を一つも知らないくせに、毎晩見上げていた。何も考えないでいられるから、と言って」

シンは空を見上げた。星が多い夜だった。「俺も同じです」

しばらく、二人で星を見た。

「一つだけ聞いてもいいですか」シンは言った。

「……何ですか」

「イリスさんは今、俺に何を見ていますか。エルリック様ですか、それとも俺ですか」

イリスはすぐに答えなかった。ぱちぱちと炎が鳴った。

「あの時」長い沈黙の後、イリスが言った。「封印の日に、好きだと言えばよかった」

シンは何も言わなかった。

「言うつもりだった。でも、戦いが終わったら言おうと思っていたら、終わった時には手遅れで」

「伝わっていたかもしれないですよ」

「……え」

「エルリック様は、あなたが言葉にしなくても」

長い沈黙があった。「……そうかもしれません」

「俺に何を見ているか、まだ答えていないですよ」

「——最初は、エルリックを見ていたかもしれない」イリスはゆっくり言った。「でも今は」ぱちぱちと炎が鳴った。「シンを見ています。確かに、シンを」

「ならよかった」

「……それだけですか」

「それだけです。それで十分です」

イリスの声から、何かがほんのわずか、解けた気がした。石の壁の隙間から、ほんの細い光が差し込むように。


第四章 封印の地にて

九日目の昼、封印の地に着いた。

荒れ野の中央に、直径十メートルほどの魔法陣が刻まれた円形の石床。近づくだけで、ずきん、ずきん、ずきん、と手の疼きが一気に強くなった。石床の中心部が薄く発光していた。ふわ、ふわと、まるで息をしているようだった。

「綻びは進んでいます」イリスが言った。「満月から数えて十日以内に完全に消える」

「消えたら」

「封じられた魔王の残滓が解放されます。大陸の三分の一に影響が出る」

コルデリアが外縁で補助魔法の準備を始めた。ウィルが術式の複写を開始した。ドランが周囲の警戒に回り、ベルトとライオスは安全距離を保った。ラウとフィンとローウェンは遠くで待機している。

「シン」イリスが名前で呼んだ。「あなたは、やらなくてもいい。エルリックの転生体であっても、あなたはシンです。前世の責務を引き継ぐ義務はない」

声が、かすかに途切れた。「あなたに、死んでほしくない」

その言葉が空気に溶けた。六十年間の沈黙が、一行になって。

「イリスさん」

「何ですか」

「エルリック様が言ってたことを、もう一度思い出しました。次に生まれることがあるなら、誰かの代わりに生きるな。自分のために、生きろって」

「……それが、あなたへの言葉でしたか」

「分かりません。でも俺はそう受け取りました」

シンは石床に一歩踏み込んだ。ずん、と発光が揺れた。

右手を上げた。炎の種が揺れた。密度で制御する——

弾かれた。

どん、と体が後ろに吹き飛んだ。石床の外縁に叩きつけられた。

「シン!」

「……大丈夫です」立ち上がる。「封印が、拒絶した」

「当然です」コルデリアが言った。冷静だった。「条件が満たされていない。自分のために生きる意志と言いましたが——あなたは今、誰かのために死ぬつもりで立っていた。魔力に嘘はつけない。術式はその本質を読む」

ウィルが傍らで魔術書に書き留めていた。ベルトが遠くで「ひいっ」と小声を上げた。ローウェンが硬い顔で何かを手帳に書いた。

シンは石床を見た。発光が明滅している。ふわ、ふわ、と。

自分のために、生きる意志。

ルナが言った言葉。生きて帰ってきてください。ファリン二世の言葉。またお茶を飲みに来てください。ソフィーの声。美味しくなったんです。ゴランの言葉。帰ってきたら水術を教える。アリアの言葉。帰ってきたら話を聞くから。ダリアの声。ちゃんと帰ってきなさい。

俺が帰る場所に、俺を待っている人がいる。

「もう一度やります」

「シン——」

「今度は本物の理由で」

石床に踏み込んだ。今度は弾かれなかった。ずん、と発光が揺れ、そして——受け入れた。

封印の内部から思念が流れ込んできた。頭蓋骨の内側を直接揺らすような感触。

「勇者の末裔よ」やさしい声だった。嘘だと分かった。「六十年、待ちわびたよ。今すぐ手を引けば、命を助けてやろう」

「いいえ」

「お前の炎など、蝋燭の火だ。ただの村人が、何を成せる」

「それが何ですか」

「イリスも道連れにするぞ。お前の失敗で」

シンの手が一瞬、止まった。ずきんと指が痛んだ。

「——嘘だ」

「嘘ではない。今も彼女の魔力を侵食している。お前が弱ければ弱いほど、彼女の消耗が増える。エルリックは知っていたのだ。賢者を守るために、一人で全てを引き受けた。英雄とはそういうものだ。お前はどうする」

ぐわん、と空間が歪んだ。

外でイリスの詠唱が聞こえた。古い言語が石床の刻文と共鳴している。その声が——わずかに乱れた。

「イリスさん!」

「大丈夫です」かすかだが、揺るぎない声だった。「続けてください」

シンは奥を見た。思念の嘘の中に、本当のことが混じっていた。イリスが消耗しているのは事実だ。それを使って、俺を揺るがそうとしている。エルリックの選択と俺の選択を、同じ土俵に置こうとしている。

「お前は英雄の代わりに死ぬだけだ」

「なりません」シンはまっすぐ前を見た。「俺はシンです。それだけです」

炎の槍が右手に形成される。攻撃のための炎ではない。封印の術式に流し込むための、純粋な魔力の結晶だ。

思念が巨大化した。ぐわん、と空間が歪む感触。

「イリスを道連れにするか。エルリックのように」

シンは炎の槍を術式の中心へと向けた。「俺とイリスさんは——エルリック様と重なる必要はない。俺たちは俺たちで、ただいまと、おかえりを交わせる人間でいたい。それだけです」

炎が術式の中心に触れた。ざあ、と何かが弾けた。

封印の光が爆発的に広がった。どん、と足元が震えた。外からイリスの詠唱が加速した。古い言語が石床の刻文と共鳴し始める。ふるふると、石が振動した。コルデリアが補助魔法を展開した。ウィルが「記録継続!」と叫んだ。

二つの魔力が絡み合って、一つになっていく。温かい手に、手を握られるような感触。

全身の魔力が流れ出す。空洞になっていく。ずきんずきんと手が痛んだ。しかし痛みより強い何かがあった。自分の意志で、今ここに立っているという感覚。

ぱん、と何かが弾けた。

封印の光が一気に安定した。ふわ、ふわ。明滅が止まり、穏やかな輝きに変わった。

意識が遠のく直前に、シンはもう一度だけ夢の男の顔を思い浮かべた。金色の髪、緑の目。どこか似ている、と思った。しかし違う人間だ。自分は、シン・アッシュワードだ。


目が覚めた時、イリスが隣にいた。

石床の上に横たわっていた。空が青い。雲が白い。

「……生きてます」

「ええ」

「三割、当たりました」

「……ええ」

イリスの頬に、光るものがあった。シンはその雫を見た。長い間、見た。

「ありがとう」シンは言った。「封印の補助だけじゃなくて。俺に会いに来てくれたから。旅に連れて行ってくれたから」

「それは私の目的のためで」

「知ってます。でも俺はシンとして、お礼が言いたい」

「……私こそ」やがてイリスが言った。声が、揺れていた。「私こそ、ありがとう。シン」

翡翠の目に、また雫が光った。今度は止まらなかった。エルフの賢者が、石床の上で、静かに泣いた。声もなく、ただ頬を伝って。

少し離れたところで、コルデリアが「馬鹿者め」と小声で言った。褒め言葉のような怒り方だった。ウィルが魔術書に何かを書き留めていた。ドランが空を見上げて何もなかったような顔をしていた。ベルトが鼻をすすって、ライオスが無言でベルトの頭を叩いた。

ラウがさらに離れたところで腕を組んで立っていた。何も言わなかった。フィンがラウの隣で目を赤くしていた。ローウェンが手帳を静かに閉じた。

「報告書」ラウが遠くから言った。「嘘なしで書きます。シン殿が、シンとして封印を補強したと」

シンは何も言わなかった。言う必要がなかった。ただ隣に座って、一緒に空を見た。


終章 春の丘の誓い

一月後、シンはウィローネルに戻った。イリスも一緒だった。

「帰ってきたぞ!」ガートが叫んだ。「シンが生きて帰ってきた!」

ダリアが飛び出してきた。走ってきて、シンの肩を掴んで、強く抱きしめた。

「馬鹿」泣きながら怒鳴った。「心配したんだから。三日経っても帰らないから死んだかと」

「ただいま、母さん」

「おかえり」ダリアは言った。泣いていたが怒っていたが、その一言だけは、静かだった。

アリアが走ってきた。「手袋、ちゃんと使えた?」

「使えました、おかげで」

「よかった!あと、水術の約束——」

「エステルから先だ」ルナの声がした。ルナとエステルが来ていた。「姉は約束を守れない人間に習わせません」

「そんな約束してない!」「してました」

どっと笑いが起きた。ゴランが「帰ってきた分にはよかったよかった」と白眉を揺らした。ヘクト爺さんが縁側で「生還率三割とは度胸があるな」と呟いた。セバスが「気のせいじゃなかったな」とまた白髯を揺らした。トマスが無言で頭を下げた。マリが「無事でよかった」と言った。

イリスはその様子を、少し離れたところから見ていた。翡翠の目が、ほんのわずか、細くなった。

その夜、根菜と燻製肉の煮込みがテーブルに並んだ。イリスも席についた。ダリアが話し続けた。近所の子供が生まれたこと、宿の新しい客のこと。イリスは静かに聞いていた。ゆっくりと相槌を打ちながら。

「おいしいですか」とシンが訊いた。

「……ええ」

「また来ていいですよ、いつでも」

「……そうですか」

イリスは少し間を置いてから、また一口食べた。ダリアがちらりとシンを見て、何かを察したように微笑んだ。


翌日、村の北の丘に二人で上った。

春の草が生え揃い、白い小花が風に揺れていた。ふわ、ふわと。

「これから」頂上に着いて、シンは言った。「どうするつもりですか」

「封印が安定している間は余裕があります。次の巡回は十年後でしょう」

「十年は長いですね」

「人間にとっては。私にとっては、まあまあの時間です」

「まあまあ」

「……ええ」

イリスが、静かに笑った。初めて見る笑い方だった。翡翠の目の端が細くなって、頬に細い線が入る、そういう笑い方。

「あなたはどうするつもりですか」

「魔術の修業をします。ゴラン師匠のところで基礎を学び直して。アリアに水術を奪われる前に。あなたが次に来た時に、もっと上手く戦えるようになっていたい」

「それは私のためですか」

「俺のためです」シンは草原に目を向けた。風が吹いた。白い花が揺れた。ふわ、と。「強くなりたい。世界を見たい。エルリック様の行った場所を、俺も行ってみたい。それは俺の気持ちで」

「……私のことは」

「あなたが十年後に来た時、一緒に旅をしたいと思ってます。相棒として」

「相棒」イリスはその言葉を確かめるように繰り返した。「……師匠ではなく?」

「師匠はゴランで十分です。イリスさんには、俺の相棒になってほしい」

「私はエルフです」

「知ってます」

「あなたより何百年も長く生きる」

「知ってます」

「あなたが死んでも、私は生き続ける」

「知ってます。だから何ですか」

イリスが、また沈黙した。草が揺れた。さあ、と。遠くで鳥が鳴いた。空は青く高く、雲が一つだけ流れていた。

「……分かりました」やがてイリスが言った。「十年後に、また来ます」

「待ってます」

「それまでに炎の付与魔法の基礎は学んでおいてください。初歩の文献ならウィローネルの図書館にあるはずです」

「相棒らしくなってきた」

「何ですか」

「いえ、なんでもないです」

シンは立ち上がった。丘の上から、村が見えた。白い屋根と赤い屋根。けむり、けむりと煙が上がっている。

「イリスさん」

「何ですか」

「エルリック様は、あなたにありがとうを言いたかったと言ってました。でも俺はエルリック様じゃないから、その言葉の代わりには言えない」

「……ええ」

「だから、俺から言います。ありがとう。旅の間中、色々と教えてくれて。俺がシンでいられるように、そばにいてくれて」

イリスは長い間、黙った。さら、と銀糸のような髪が揺れた。

「……どういたしまして」その声が、柔らかかった。六十年分の角が、少しだけ削れたように。

「では、また十年後に」

「待ってます」

イリスが踵を返して、丘を下り始めた。シンはその背中を見た。背が高くて、まっすぐで、今日は少しだけ肩の荷が軽くなったように見えた。

丘の中ほどで、イリスは一度だけ振り返った。

「私はずっと、エルリックが遺したあなたという『未来』に会いたかったのかもしれない」

それきり、また歩き始めた。シンはその言葉を、しばらく口の中で転がした。返す言葉を探したが、見つからなかった。見つからなくても、いいと思った。

風が吹いた。白い花が揺れた。ふわ、ふわと。

春の丘で、シン・アッシュワードは一人、賢者の背中が小さくなるのを見送った。さあ、修業を始めよう。十年後、相棒が来た時に。


十年後、イリスは約束通り丘の上に現れた。シンは待っていた。炎の付与魔法を五種、水の補助術を二種、習得した状態で。

「おかえりなさい」

「ただいま」

春の丘の風が、ざあと二人の間を吹き抜けた。次の旅が、ここから始まった。

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