鴨長明
鎌倉時代の寝苦しい夏の夜、鴨長明は夜中に目が覚めた。
なかなか寝付けないので、明かりを付けて昼間仕上げた書「方丈記」を見直してみる。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・」
この書き出しは我ながらなかなか良いと思う。
どこか直す所はないかと、散らばった紙を並べて読み返せば、過去のことが思い出されてくる。
鴨長明は平安時代末、由緒正しき賀茂御祖神社の禰宜(神職)の次男として産まれた。
琵琶と和歌を習い、若い頃は宮廷歌人として活躍したが、彼の産まれた頃からすでに朝廷は傾き始めていて
、幼い頃より何度も戦があり、彼が十五歳の頃にはすでに武家の天下であった。
朝廷はまだ存在してはいるが、今や応時の力はない。
それとともに過去の平穏で華やかな時代も皆過ぎ去ってしまった。
今の世では琵琶も歌も役に立たないし尊ばれもしない。
今は「武」の時代なのだ。
戦争に加えて災害も多発し、餓死者も多く出た。
川いっぱいに死体が並び、廃墟になった家が並ぶ路上で放置されたままの死体が日に日に腐敗していく様は今も忘れられない。
・・・家の西側の障子を開ければ、山中の景色もそこでは開けていて、昼には遠くまで見渡せるが、今は月夜が見えるばかり。
昼間鳴いていたホトトギスも今は静まり返って、虫の音ばかりがわびしく響いている。
長明は頭をさすった。
六十歳になろうという今は髪も大分抜け落ちて、何もせずとも剃髪したのに近い。
もともと彼は出家するつもりはなかった。
彼は父のように神職に就きたかったのだが、父の死後の跡目争いに敗れ、神職への道を閉ざされたのだった。
それでも彼は長い間世に出ようと努力したのだが、変わりゆく世の中についていけず、
頼りになる縁故も失い、結婚もできず妻も子もなく、幼少より住んでいた立派な屋敷も手放すはめになり、
すっかり落ちぶれた長明はついに、五十歳にもなって出家したのだった。
今までの人生で学んだのは、世は無常だという事だ。
実際、それは嫌というほど思い知らされてきた。
若き日の栄華と、今の落ちぶれた様を思うたび悲痛な気持ちがして、
それが年を取るほどにいや増して、
人々の間に住むことが恥ずかしく、耐えがたく思えて、
遂にこの山中に引きこもるに至ったのだ。
世は無常であり、また無情でもある。
この世の中で生きていくのは耐え難い。
その思いと仏の教えはぴったり重なるように思えた。
しかし出家して、こうして山中で一人で暮らしている今も、若き日の栄華の記憶は衰えず、むしろ年と共になお鮮明になってくるかのようだ。
まだそれを、振り払えないでいる。
長明は少々念仏を唱えた。
仏の教えは要するに、何にも執着するなということだ。
彼はそう信じた。
過去にも、現在にも、人の世にも、自分の命にも・・・
この年になると毎晩、このまま眠ったまま死んでしまうのではと思う。
しかし、それがなんだと言うのだ。
こんな人生などどうして惜しむことがあろう。
いや、自分は十五歳の頃にもう死んでいるべきだった。
どうしてこんなに生き長らえてしまったのか。
そういえば自分は何度かこの山の管理人の幼い息子と山中で木の実を採ったり茸を刈ったりしている。
ここでは話し相手といえば彼くらいだが、彼はこの後どうなるのだろう。
彼が成長する頃は世の中はどうなっているだろう。
彼はその頃には自分のことなど忘れているだろうか。
いや、そもそもこんな世の中で無事に生き長らえることができるだろうか。
長明は琵琶を取り出して多少弾いてみた。
山中ではその音はひときわわびしげだ。
何か歌を作ってみようとしたが思いつかず、琵琶を押しやった。
自分の琵琶も歌も、世に出なくなって久しい。
その技もめっきり衰えてしまったようだ。ああ。
しかし、誰に聞かせるわけでもないのになぜ技を磨いたりしようか。
結局これも、自分が引きずっている過去の一部なのだ。
彼は思い切って、小刀で琵琶の弦を一気に断ち切った。
そして今まで書きためてきた歌を集めて、一部を除いて焼いてしまった。
何やら胸に穴が開いたように痛ましく感じたが、これでいい。
という気もした。
再び方丈記を読み直して推敲を重ね、それが終わるとまとめて封をした。
それにしても自分はなぜ、この書を残そうとするのか。
何にも執着することが無いなら、この書だって焼き捨ててもいいはずだ。
これが自分の業だろうか。
いや、これは仏が後世に教えを残したのと同じなのだと、おこがましいと感じつつも思った。
いや、業なら業でもかまわない。
これは自分の心の帰着した所なのだ。
月を見れば相変わらず明るく、虫の音は相変わらず響いている。
書も完成したし、これで眠ったまま死んでも安心というものだ。
長明は酒を出してきて月下に独酌した。
そうしているとようやく眠気がしてきたので、再び床に入って眠りについた。
完