11.推しとアリス①
「おはよう。」
「……おはようございます。」
サミュエルから挨拶をされる。
この男は、律儀に挨拶だけはしっかりとしてくるのである。
普段は華が話しかけてもかなりの確率で無視を決め込むにも関わらず。
無視していると言うよりは気づいていないのだろうが。
華はこれといって特に無視する理由もないため、普通に挨拶を返す。
いつもの朝が始まる。
華は顔を洗うために洗面台へと向かった。
冷たい水が顔に触れると、神経を伝って全身へとひんやりとした血液が流れていく感覚がした。
固くも柔らかくもない普通のタオルで顔を拭く。
柔軟剤のいい香りがした。
顔を洗い終えると、今度は歯磨きを開始する。
この日は特に丁寧に歯を磨いた。
朝起きた時から、口の中がやけに気持ち悪かったからだ。
いつもより唾液が粘ついていて、生臭い。
それをミントの香りで上書きしていく。
口をゆすぎ、顔をあげる。
この洗面台には鏡がない。
華は今日も自分の顔を見ることなく朝の身支度を終えた。
故に彼女は気が付かない。
自身の唇の端が裂けていることに。
「あれ?」
朝食の目玉焼きを作りながら、華は声を漏らす。
───私、なんでいつも通りこの部屋で目覚めたんだろう。
───昨日は恵ちゃんに誘われて、ノアの部屋で寝たはず……
「やっと気づいたのかな?そうだね。君はなぜこの部屋で目覚めたのだろう。きっと君は枕が変わると眠れないんだよ。結局は馴染みのあるこのベッド、この部屋に戻ってくるんだね。」
ニタニタと笑う男に、華の思考が停止する。
男がじわりじわりと華の元へ近づいてくる。
目玉焼きの焦げた匂いが華の鼻腔をつく。
あと2、3歩という距離まで近づいた時、華はハッとしてサミュエルを突き飛ばした。
外へと出る扉まで一目散に走り、ドアノブに手をかけた。
勢いよく扉を開けて外へと飛び出す。
「え?」
空間が歪んでいた。
赤や青、ピンク、紫、緑、黄色。
蛍光色のたくさんの色が、ぐにゃぐにゃと大きく波線を描くように目の前に広がっていた。
後ろからサミュエルの気配を感じ取った華は、その空間に恐ろしさを覚えつつも再度駆け出した。
様々な色で様々な大きさの歪んだ円が、大きくなったり小さくなったりする。
周りが歪んで見えるせいで、華は平衡感覚を失う。
まともに真っ直ぐ走れないが、それでも懸命に床らしきものを蹴った。
「誰か!っだれか、居ませんか。……はぁっ、た、たすけ、助けてください!誰かぁっ」
全速力で走っているため息が苦しい。
そんなにたくさんの距離を走った訳では無いのだが、運動不足の華には少しの運動でも息が上がる。
誰でもいい。
サミュエル以外なら誰でも。
どうか、この声を。
───恵ちゃん、ノア、……ヴォイドっ!
「どうした。騒がしい。」
苦しさで狭まった華の視界に、黒いスーツが映った。
燕尾服のように長い後ろ裾がたなびく。
「……!っヴォイド……さん」
華が男の名前を呼ぶと、ああと短く返事が返ってくる。
安堵からその場に崩れ落ちそうになる足を叱咤する。
それでも肺はしんどくて、ぜぇぜぇと息を荒くしながら腰を深く折った。
膝に手を当てて上半身を支える。
「あの、私っ。……サミュエルに追われてて。怖くて。あのっ」
がばりと顔を上げて、ヴォイドを仰ぎ見る。
ヴォイドの視線はこちらに向いていて、華の声に耳を傾けてくれているようだった。
「助け……恵ちゃんの、ノアの所へ連れて行ってくれませんか?」
そう言いながら、意外と冷静に推しと話していることに、華はどこか驚いていた。
全身が心臓になったような感覚も、呼吸が浅くなっているのも、ヴォイドを見ているからと言うよりは、先程までの疾走のせいだ。
サミュエルへの恐怖でハイになっているのかもしれない。
「……ついてこい。」
その言葉に華はほっとする。
ヴォイドの右斜め後ろ3歩を歩く。
まっすぐ前を向いているヴォイドの顔を、華は静かに見つめた。
いつもとは違う角度の推し。
せっかく仲良くなれるチャンスなので、何か話しかければいいものの、なぜか口を開く気になれなかった。
推しを前にして、緊張して、頭が真っ白になっているという状況ではないのに。
───こういう所で、恵ちゃんと差がつくんだろうな……
いつの間にか、歪んでいた道は元の見慣れた廊下に戻っていた。
相変わらず、恵から聞いた話と違い、魔物や他の人、魔族の気配は無い。
今はそれが怖いような嬉しいような、不思議な感覚だった。
やがて2人は扉の前に辿り着いた。
彼の部屋なのだろうか、ヴォイドは躊躇なくその扉を開く。
そして部屋の中へと入るように、華を促した。
意外とレディーファーストなところがあるんだと思いながら、華はそれに従ってヴォイドより先に部屋の中へ足を踏み出す。
その瞬間、ぐにゃりと何かが歪んだ。
華はよろけて、額に手を当てる。
後ろから扉の閉まる音。
「大丈夫か」
声が二重に聞こえる。
急に襲ってきた激しいの頭痛のせいで、華の額に汗が浮かぶ。
後ろを振り返り、男を見た。
視界にノイズが入る。
───この声は、推しと……
「おかえり」




