火事で燃え上がったのは恋の炎でした
久しぶりに私らしい内容になっていると思います。
焦がした何かを炭化してもなお焦がし続けたかのような醜悪な香り。
赤と黒に染まり歪む視界。
息が出来ない。
思考が定まらず酸素不足に脳がふらつく。
逃げようにも体は動いてくれず、意識は徐々に闇の中へと沈んで行きやがて……
「うわああああああああ!」
口から飛び出てしまった己の叫びにより、僕は正気に戻った。
「うう゛っ……かはっ……くぅっ……はぁっ……はあっ……」
全身汗だくで息を切らせており、まるで長距離走を終えた直後のような感覚だ。猛烈な吐き気と震えに襲われ、質の悪いウィルスに体中を蝕まれているかのような気分にも感じる。
だがそれも束の間の事。徐々に心が落ち着いてきて周囲を見渡すと、そこは高校の調理実習室。どうやら調理実習の時にやってしまったらしく、クラスメイトが驚いた表情で僕を凝視していた。
「炎谷くん、大丈夫?」
最初に心配そうに声をかけてくれたのは、同じ班の水越 愛梨さん。
男女ともに誰とも分け隔てなく明るく接する可愛い系女子で、ぱっちりとした目が特徴的だ。その性格から勘違い男子を大量に生み出していて、告白されることが多くて困っているらしい。男子からの人気が高いと女子から嫌われそうなものだけれど、どういうわけかそうでもないらしく友達も多い。
そんな水越さんが真面目な顔で僕を気遣ってくれているのだけれど、その表情すらも何処となく可愛らしく、僕は先ほどまでの動揺が何処に行ったのか、照れ臭くなり顔を背けてしまった。
「う……うん。もう大丈夫。ありがとう」
僕のこの言葉に、緊張感を孕んでいた調理実習室の空気がふっと緩んだ気がした。それと同時に背後から男子達の言葉が飛んできた。
「だから止めとけって言ったのに」
「そうそう、欠席しとけば良かったのに」
「無理すんなよ」
これらの言葉は僕を気遣っているかのようでそうではない。その語気は苛立っていて、明らかに非難の意図が込められていた。
「そういう良い方は良くないですよ。炎谷さんも頑張っているのですから」
見かねた先生がフォローに割って入ってくれたけれど、温和なおばさん風な先生の言葉程度で止まる彼らではない。
「でも先生、炎谷のせいで僕らの作業が止まっちゃったじゃないですか」
「あいついつもペットボトルの水を持ち歩いていて、それをここまで持ち込んでるんですよ。もしさっき錯乱してそれを撒いたら酷いことになってました」
「頑張るなら別のところでやれって話ですよ」
実際問題、彼らの言い分は間違っている訳では無いと僕は思っている。個人の事情で僕が自分勝手に無理をすることで皆の邪魔になることは申し訳なく感じていた。
とはいえその不満を堂々と口にするのはどうかと思うが、僕は彼らから良く思われていないのだからこれまた仕方ないのだろう。
「大丈夫。炎谷くんは悪くないよ」
勘違いして玉砕した彼らは、他の男子と比べて水越さんとの距離が近い僕のことを良く思っていないのだから。
「保健室に連れて行こうか?」
「ううん、大丈夫。でも悪いけど材料を切ったり盛り付ける役にしてもらえるかな」
「うん、分かった。でも無理しないでね」
これ以上騒ぎが大きくならないようにと、僕は努めて冷静さを装いまな板の前に立った。未だに身体は恐怖に震えているけれど、コンロの前に立ったあの瞬間と比べれば大分楽になった。もう少し待てば包丁を扱えるほどに回復するだろう。
僕は火が苦手だ。
いわゆるPTSDと呼ばれる症状であり、その原因は幼い頃に火事に巻き込まれたから。
学校から帰って二階で漫画を読んでいたら焦げ臭い香りが漂ってきて、慌てて部屋から出たら一階が煙で充満していた。今思えばその時にすぐに外に逃げれば良かったのだろうけれど、まだ幼くてパニックになってしまった僕は二階の部屋に戻ってしまった。その結果、一酸化炭素中毒で倒れてしまいそうになったのだけれど、消防隊がギリギリで間に合ってどうにか助かった。お医者さん曰く、本当にギリギリだったようで、肉体的な後遺症が残らなかったのが不思議なくらいだそうだ。精神的な後遺症は残っちゃったけどね。
ということで、調理実習でコンロの火を目にしたことでパニックになってしまったというのが冒頭の出来事だ。
「ふぅ……よし!」
手は震えていない、心は落ち着いている。
この症状に慣れてきているため、今ではかなり早く精神を回復出来るようになってきた。
包丁を持つ時は絶対に冷静であること。
それはお母さんとの約束だ。当然のことだから僕は厳守している。
「まずはイワシの三枚おろしだね」
小さめのイワシにそっと包丁を入れ、手際よく捌く。料理は得意だからこの程度楽勝だ。
「わぁ、上手!」
「すっご、プロ級じゃん」
「すげぇな、教えてくれよ」
三枚おろしをしただけなのに班員がとても驚いてくれた。ちなみにプロ級と褒めてくれたのはギャルっぽい女子で、教えてくれと言ったのは眼鏡をかけた真面目系男子だ。
「小さい頃からお母さんを手伝って料理してたからね。このくらい余裕だよ」
「うらやま。あたしは生魚とか見るのも怖いしどうしよう」
「俺は触るの気持ち悪い」
「私は炎谷くんと同じでお母さんの手伝いしたことあるから平気だけど、慣れないとお魚触るの抵抗あるよね~」
水越さんは料理が出来るんだ。いつか料理トークできたら良いな。
「つーか炎谷って良く料理出来るね。あ、ヤバ!この話題もNGだったりする!?」
料理は火を扱うのにどうして料理が出来るのかって聞きたいのかな。火の話は僕が困ると思ったのかギャルさんが慌ててフォローしてくれた。気遣ってくれる良い子でとっても助かる。
「話をするくらいなら平気だから気にしないで。それと、うちはオール電化だから料理は問題なく出来るよ」
「そういやうちもそうだった」
「でも炎谷。いくらオール電化でも料理って何となく火をイメージして怖くなかったか?」
「最初の頃はね。でも僕はトラウマを克服したいから、その練習もかねて頑張ったんだ」
だから今回の調理実習でもコンロの火の前に立つというチャレンジをしてみたかったのだ。結果は散々たるものだったけれどね。クラスメイトには僕の症状とそれを治すように努力していることについて自己紹介の時に伝えてある。
ちなみにオール電化であろうとも、火事の直後はコンロの近くに寄るだけで呼吸困難になるくらい酷かった。かなり頑張って、火を意識するくらいなら問題ない程度まで回復させたんだ。
「んじゃもう問題ないじゃん。火なんて見る機会なんて滅多にないっしょ」
「そういやそうだな。そこまで平気なら日常生活を普通に送れそうだし、これ以上は無理して頑張る必要は無いんじゃないか?」
確かに現代社会で火を見る機会なんてまずない。
キッチンはオール電化の普及により火を使わない。
たばこが廃れて来たのでライターを見かけない。
学校の焼却炉も二酸化炭素がどうとかで十年くらい前に使用禁止になったらしい。
だから今の僕ならば、日常生活を送るのにそれほど不便は感じない。火を見てパニックになってしまった様子を見てしまった彼らだからこそ、僕のことを心配してもうこれ以上治すように努力する必要は無いと気遣ってくれたのだろう。
その気持ちはとても嬉しい。
でも僕は。
「私は炎谷くんが頑張りたいなら応援するよ」
ああ……いつだって水越さんは僕が欲しい言葉をかけてくれる。
僕が頑張りたいという気持ちを認めてくれる。
家族も友達も、誰も彼もが僕を心配してもう頑張らなくて良いよと言ってくれる。
でも水越さんは僕の気持ちをより尊重して応援してくれるんだ。
その気持ちが物凄く嬉しい。
だから僕は水越さんのことが好きだ。
そんな気持ちを表に出してしまったら困らせるだけだから言わないけどね。
「みんなありがとう。でもお話はこのくらいにしてそろそろ手を動かそうか」
「うっ……」
「ぐぅっ……」
魚苦手男女は話をすることで三枚おろしから目を逸らそうとしていることに僕は気付いていた。
「炎谷助けて!」
「抜け駆けは狡いぞ。俺も手伝ってくれ!」
「教えるけど三枚おろしは自分でやるんだよ。だってそれが今日の調理実習の課題だし」
「…………」
「…………」
火を使う作業は班員に任せることになってしまうため、他の事で出来る限りフォローはしたいけれど、肝心要な課題を丸々僕がやってしまうのは問題だろう。ここは心を鬼にしてやらせるべきだ。
「あはは、炎谷くん大人気だね」
「水越さんだって料理出来るんだから人気者の素質あるでしょ」
「いやいや炎谷殿には及びませんよ」
「いやいやいや水越先生には負けますって」
「いやいやいやいや」
「いやいやいやいやいや」
「イチャついてないで助けて!」
「うお!イワシと目が合った!」
水越さんと会話で遊んでいたら本気のニュアンスのヘルプが入った。仕方ないから助けようと思ったら、どうしても魚に触るのが嫌なのか、ギャルさんが更に時間引き延ばしの策を弄して来た。
「あたし達を放っておいてイチャついてるなんて酷いし。つーか二人って良く楽しそうに話してるし、実は付き合ってる?」
その瞬間、ピシリと部屋の空気が固まった気がした。
水越さんと僕は何故か話が合うため仲が良く、毎日のように教室で談笑している。
男子の中で一番距離が近いのは間違いなく、それが僕が嫉妬される一因となっていた。好きな人と仲が良いのは嬉しいから、多少の嫉妬程度は気にならないけどね。
そんな僕らの関係を周囲の人は気になっていたのだろう。ギャルさんの核心をついた質問に興味津々だ。
でも僕と水越さんは驚きもせず、緊張もせず、自然体を崩さない。
何故ならその話はすでに僕らの間でしたことのある話だからだ。
「ないない。だって私、好きとかって気持ちが分からないもん」
水越さんはあっけらかんとそう答えた。
その様子からは何かを誤魔化しているかのような雰囲気はまったく感じられない。
「マジぃ!? 女なんて恋してなんぼでしょ! ひょっとして年上好きとか?オジ専とか!?」
レアな相手をイメージさせたいのだろうが、何故いきなりオジ専が出てくるのか。ギャルさんあなたまさか……
「う~ん……ピンと来ないなぁ。どんな相手を想像しても、自分が恋してる~って感じになるの想像出来ないんだよね」
「じゃあ炎谷のことはどう思ってる?」
「気が合う相手、かな」
そうなのだ。
僕は彼女のことを想っているが、彼女は僕のことを仲が良い話し相手としか思っていない。
「うわ~炎谷かわいそ~」
僕は現状に満足しているから可哀想じゃないんだけどね。たとえ水越さんが僕のことを好きだと思ってくれたとしても、諸事情により僕は付き合えないし。
でも少しだけイラっとしたので軽く復讐してみよう。
「憐れまないで三枚おろしやろうか」
「う゛っ……」
「時間稼ぎしようとしてもダメだよ。課題はちゃんとやらなきゃ」
おっとこれだと僕が誤魔化しているかのように受け取られちゃうかな。少しフォローしておこうかな。
「それに僕は水越さんがそれで良いならそれで良いのさ。ドヤ」
こういえばきっと彼女は乗ってくれるに違いない。
「ドヤ顔いただきました~!」
「ドヤドヤ」
「まさかのドヤ増し。これはお金払わねば」
「これぞドヤ活」
「あはは、ドヤ活だって!」
教室中が固まる中、僕達だけが朗らかに楽しんで笑い合う。
どれだけ仲が良くてもそこに恋愛感情は無い。
それが年頃の男女として不自然であっても、彼女にとってはこれが自然なのだ。
「それだけ仲良いなら試しに付き合ってみれば良いのに……うげ」
ギャルさんが心底嫌そうな顔で魚を触りながらそんなことを言ってきた。
「別に私は付き合ってみても良いんだけどね」
どきりとする彼女の言葉も、僕は聞いたことがあるため動揺などしない。
「水越さんが乗り気じゃないのに恋人っぽくするのは何か嫌だなって思って」
「紳士かよ」
紳士ですが何か?
心の中では水越さんとがっつりいちゃつきたいと思ってるむっつりですけどね。
ちなみに三十歳になってお互いに相手が居なかったら結婚しようという軽い口約束をしているが、騒ぎになるだけなので言うつもりはない。将来、『好き』が分からなくても結婚しておきたいってなったとき、気が合う僕をキープしておきたいというのは自然なことだろう。もちろん半分以上が笑い話のようなもので、キープ云々なんて打算はお互い無いことだが。
「とにかく、僕達は仲が良いクラスメイトだから他の人にはまだチャンスがあるということで、今は三枚おろしをやろうね。流石にこれ以上引き伸ばしたら時間内に料理が完成しなくなるからダメだよ」
「うわああああん。気持ち悪いよおおおお!嫌だああああ!」
「眼が……眼が……」
結局、苦しみながらも二人はなんとか三枚おろしを成功させ、四人でイワシのソテーをおいしく頂きました。
ごちそうさま!
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「なぁ炎谷。次の休み空いてるか?」
調理実習から数日後、休み時間にクラスの男子が話しかけて来た。
水越さん勘違い玉砕組で、僕のことを良く思っていない男子の一人だ。
彼らは基本的に遠くから僕を非難する以外のコミュニケーションは取って来ないはずなのに、一体どうしたのだろうか。
「空いてるけど?」
「クラスでバーベキューすることになったんだが、当然お前も来るよな」
意地の悪いニヤニヤした笑みを浮かべ、彼はまさかのリア充イベントに誘って来た。なるほど今度はそう来たか。
「クラスでって、全員参加するの?」
「全員じゃねーが、半分以上は参加するぜ」
「ふ~ん」
チラっと水越さんの方を見ると頷いていた。どうやら彼女は参加予定らしい。
それなら僕の答えは決まっている。
「じゃあ僕も参加するよ」
「…………チッ」
誘っておいて了解したら舌打ちとか頭おかしいんじゃないか?
僕がバーベキューの火を怖がって断る姿を堪能したかったからだろうけど。
作戦が失敗して残念だったねと心の中でざまぁを感じていたら、そいつは直ぐに次の一手を繰り出して来た。
「じゃあ炎谷は料理担当な」
「え?」
「料理得意なんだろ?なら当然やってくれるだろ?」
なるほどそう来たか。
調理実習の時に僕が料理が得意ということが判明したから、火を使った料理をさせて怯えさせようという魂胆か。
PTSDの人間にPTSDを無理矢理発症させようとか、こいつ自分のやってることが分かっているのだろうか。
だがそれでも僕はここで引き下がるわけには行かない。
水越さんが参加するからというのはもちろんだけれど、僕自身が火を克服する絶好のチャンスでもあるからだ。その結果、たとえ無様な姿を見せて嘲笑されようが構わない。僕にとって大事なのはトラウマを克服することなんだから。
「分かったよ。美味しいの作るから楽しみにしててね」
「…………あ、ああ」
何も怖がる様子無く堂々と答えた僕の様子に、今度は不気味なものを感じたのだろうか。苛立ちでは無く困惑の様子が見て取れた。
「それで材料とかはどうするの?」
「…………!」
料理をするにあたって何を作るのかが大事なので質問をしただけなのだが、何故か目の前の男子は再び元気を出して嫌らしい表情に戻ってしまった。
「そのことで相談があるんだ」
「相談?」
「料理担当として何が必要なのかとか確認したいんだよ」
「別に良いけど……」
どうして意見を聞くだけの話なのにこいつはニヤニヤしているのか、それが分からない。
「んじゃ、今日の放課後にでも話をしようぜ。ラーメンでも食べながらさ」
「…………うん」
なるほどそういうことか。
うちの学校の近くには、学生ご用達の格安ラーメン屋がある。そこに僕を連れ込んで、店の人が火を使って料理する様を見せて怖がらせようという話だ。
僕はともかく店の人に迷惑かけるのマジでやめろよ。
なんとかして方針を変えさせないとまずいなぁ。どう切り出そうかなぁ。
などと考えていたら助けが来た。
「じゃあ私も行く!」
「え!?」
僕には彼女がこっちに来るのが見えていたから驚きは無かったけれど、目の前の男子は突然背後から話しかけられた形になって動揺していた。しかも相手が自分が好きな女子なのだから当然だろう。
「それに私も料理得意だから炎谷くんと一緒に作るよ。一人じゃ絶対手が足りないから良いよね?」
「あ……あ、ああ」
彼女の言葉は単に確認を取っているようなものだけれど、その語気には有無を言わせぬ迫力があった。笑顔がちょっと怖いのは、怒ってくれてるのかな。だとすると嬉しい。
「んじゃあたしも放課後の参加するわ。気になるし」
「では俺も行こう。任せっきりというのは申し訳ないからな」
調理実習の時のギャルさんと眼鏡くんも追撃してくれて、それらをきっかけにバーベキューに参加するらしきクラスメイト達が口を揃えて放課後の打ち合わせに参加すると申し出てくれた。
凄い嬉しい。
それと同時に思う。
どうしてこんな素敵なクラスメイト達が陰湿男子達のバーベキューの誘いに乗ったのだろうかと。バーベキューのワクワク感に抗えなかったのかな。若いからしょうがないよね。
僕にとって最良の展開に水越さんは気分を良くしたのか、ニマニマしながら陰湿男子に告げる。
「こんなに大人数じゃラーメン屋に入りきれないね。じゃあサイセにしよ」
「…………そ、そうです、ね」
残念無念、陰湿男子の企みはあっさりと叩き潰されてしまったのであった。
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そして放課後。
作戦が失敗した陰湿男子だが、どことなく嬉しそうだった。
それもそのはず、僕がバーベキュー当日に炎に怯えるというのは変わっていない訳であるし、しかも放課後に好きな人も含めた女子達と一緒にファミレスに行くのだ。
実は彼は元陰キャ。
高校デビューで無理して陽キャを振舞っているということを僕は知っていた。
そんな彼だからこそ、女子と一緒に放課後を過ごすというシチュエーションだけで天にも昇る気分なのだろう。
「皆わざわざごめんね」
「気にしないでください!」
「そうそう。そんなことより学校に近いとか超うらやま」
僕のことを良く思っていない陰湿系男子三人。
調理実習の時に一緒だったギャルさんと眼鏡くん。
その他のクラスメイト女子三人。
水越さん。
そして僕。
十人の大所帯で、僕らは高校からサイセへと向かっていた。ただ、その途中に水越さんの家があるということで、彼女は立ち寄って荷物を置いてから向かいたいと願い出た。
高校周辺は住宅街。
地方なので一軒家が多く、彼女の家も小さな庭付きの二階建ての家だった。
「それじゃあすぐ戻ってくるから待っててね!」
彼女がそう言って敷地の中へと入ろうとしたその時。
「お姉ちゃん助けて!」
その声は彼女が入ろうとしていた家の二階から聞こえて来た。小学生と思われる男の子が、必死の表情で水越さんに助けを求めたのだ。
「勇翔!どうしたの!?」
慌てて彼女が下から弟と思われるその子に声をかけると、勇翔くんは泣きながら答えた。
「したが!まっくろ!」
したがまっくろ?
一体どういう意味なのだろうか。
いや待てよ。
この香りはまさか。
まさか!!!!!!!!
「すぐ行くから待ってて!」
そう駆け出した彼女を僕は止めなければいけない。
でも体が動かない。
トラウマにより恐怖で身体が竦んでしまう。
「きゃあ!」
ああ、良かった。
バックドラフトは起きなかったか。
玄関を開けた水越さんは、家の中に飛び込むことが出来ず、悲鳴をあげて後退る。
その中の光景は確かに勇翔くんが言う通り、黒煙でまっくろだった。
火事。
僕のPTSDの直接的な原因とも言えるそれが目の前で起きている。最大級の不安が押し寄せ、呼吸が出来ず、身体が震え、今にも視界がブラックアウトして気絶してしまいそうだ。
「お、おい、どうする!?」
「しょ、消防車を呼ばないと!」
「お前連絡しろよ!」
「ええ!?ば、番号は……119だっけ?」
「ばかそれは救急車だろ!」
クラスメイト達もパニックになっている様子だけれど、僕はそのことすら認識できず、ただただ歪む視界の中で記憶の中の火事から生き抜くのに必死だった。
「どうしよう……勇翔が……勇翔が!」
水越さんも狼狽して何も出来ない。
ここにいる人の誰もが何も出来ない。
このままならどうなってしまうのか。
勇翔くんは僕と同じか、あるいはそれよりも酷い目にあってしまうかもしれない。
幻聴が聞こえる。
炎が全てを燃やし尽くす音と、脳につんざく消防車のサイレンの音。
どちらも実際には体験せず、記憶の中で肥大化した恐怖の象徴だ。
息が出来ない。
熱い。
苦しい。
誰か助けて。
違う。
そうじゃない。
助けて、じゃないだろ。
助けるんだ。
そのためにトラウマを克服しようと努力して来たんじゃないか。
僕と同じ目に遭う人を一人でも多く救えるようになるために。
これまでの日々を無駄にするな。
ここで動かなければ一生後悔するぞ。
パァン!
僕は両頬を思いっきり両手で挟み込むように叩き、強制的に意識を覚醒させた。
「ふぅ……………………よし!」
助けたいと思う気持ちが恐怖を上回った。
勇翔くんが待っているんだ。
こんなところでビビってなんかいられない。
行ける!
僕は背負っていたリュックを降ろすと、中から二リットルの水入りペットボトルを二本取り出した。火が怖い僕は毎日これを持ち歩いているけれど、それは単に怖いからだけではない。万が一にでも今のような場面に遭遇した時に使うためだ。
ペットボトルには上部に細工がしてあり、キャップなしで上側が取り外せるようになっている。それを取りはずすと、二セットのハンカチを浸して濡らした後、両方を頭から被った。
「お、おい!」
「何やってるんだ!?」
僕の奇行に気付いたクラスメイト達が声をかけるけれど、今は一分一秒が惜しい。彼らの反応に付き合っている暇はない。
とはいえせっかく人がいるのに放置するのは勿体ない。この中で一番冷静に動けそうな眼鏡くんに声をかける。
「君はスマホで消防車を呼んで。番号は119。冷静に落ち着いて電話先の人と話をしてください」
「あ……ああ」
「他の人は『火事だ!』って大声で叫んで近所の人に知らせて、出来れば消火器を借りて来て欲しい」
「え……借りるってどうや……」
最後まで聞かずに僕はその場を離れた。今の言葉で出来ないようであれば、これ以上は時間の無駄だからだ。
「水越さん。安心して。僕が助けてくるから」
「え……炎谷……くん?」
狼狽していた水越さんは、水浸しの僕の姿を見て驚いている。その驚きのおかげか、顔に理性の色が戻った。
「で、でも炎谷くんは!」
そう聞きたい気持ちは僕にも良く分かる。だから大丈夫だと信じてもらうために精一杯微笑んでみせた。
「あ……」
おや、水越さんの様子がまた変だぞ。
でもこれ以上は時間を使えない。
「水越さん、消火器の位置は分かる?」
「え……ええと……あれ?」
これはすぐに出て来ないな。
焦っていることもあり、思い出すのに時間がかかりそうだ。
彼女から情報を引き出すのは諦め、改めて家の中を確認する。
中は黒煙が充満していて視界が悪い。
黒煙は向かって左側の部屋の方から流れてきている様子で、肝心の火はまだどこにも見当たらない。
火が家中に回るのはまだこれから。
だとすると消火出来る可能性はある。
でも消火器が見当たらない以上、優先すべきは勇翔君を助けることだ。
幸いにも階段の場所は入り口から見える。
全身の水が渇く前に、勇気を出して飛び込もう。
僕は最後に水越さんを心配させないようにと、努めて優しく微笑みながら告げる。
「絶対に弟さんを助けて戻ってくるから」
「…………」
彼女は僕の言葉に驚愕の表情を浮かべるだけだった。
僕はそんな彼女に背を向けて、空気を大きく吸ってから濡れたハンカチを口に当て、家の中に飛び込んだ。
「待っ……」
その瞬間、背後から何かが聞こえた気がしたが、すぐに忘れてやるべきことに集中する。
姿勢を低くして黒煙の中に飛び込むと、体中が燃えるように熱く感じられる。でも慌てずに息を止めたまま階段を駆け上った。黒煙は二階にもかなり充満していたが、冷静に勇翔くんの部屋を探す。外から彼の位置を確認出来ていたので、事前に脳内でルートをシミュレートして間違えずに辿り着けた。
勇翔くんは変わらずベランダにいたので、僕もそこへと向かった。
「勇翔くん。大丈夫?」
「え!?」
突然見知らぬ人がやってきたことで勇翔くんは涙でぐしゃぐしゃになった顔を僕に見せながら茫然としていた。
「助けに来たよ」
「…………う」
「泣かないで!」
「!?」
彼を強く強くぎゅっと抱き締めて、とっさに泣こうとするのを強引に止めた。これから脱出する必要があるのに、泣かれていては困るからだ。
体を離し、おでこ同士をくっつけて、優しく言葉を投げかける。
「男の子なんだ。泣くのは助かってからにしよう」
「…………うん」
強い子だ。
勇翔くんは泣きたい気持ちを必死で堪え、頷いてくれた。
「これから僕が君を抱きかかえて、下から脱出するよ」
「で、でもくろいのが」
「僕がここにいるってことは、その黒い中を通って来たってこと。だからあの中を通っても大丈夫なんだ」
「…………」
半信半疑っぽいけど、今は時間が惜しいからこれ以上説明は出来ない。
「僕が抱き抱えたらぎゅっと目を閉じてね。あの黒いのが目に染みちゃうから」
「うん」
「それと僕が合図したら息をとめて、これを口に当ててね」
「うん」
「良い子だ。ほんの少しだから、頑張ろう」
「うん」
僕は勇翔くんをお姫様抱っこの要領で抱えた。この家は廊下や階段の幅が広いため、これでも十分安全に運べるだろう。
「下でお姉ちゃんが待ってるよ。さぁ行こう」
勇翔くんは全身をガクガク震えさせながら僕の服をぎゅっと掴んだ。
「息を吸って…………止めて!」
彼の呼吸に合わせて僕も息を止め、再び黒煙の中に飛び込んだ。それほど広くは無い家の中を駆けるのだから、数十秒と掛からずに玄関に辿り着く。もちろんその数十秒が永遠とすら思えるほどの長さであることを僕は知っている。きっと勇翔くんもそう感じたに違いない。
彼が今回のことでPTSDにならないことを願う。
「勇翔!」
「お姉ちゃん!」
玄関から飛び出してすぐ、姉弟は感動の再会を果たし、ぎゅっと抱き合った。
絵になるシーンなのだろうが、それを鑑賞する余裕なんて無い。
僕にはまだやるべきことがあるんだ。
クラスメイト達の様子を見ると、突入する前と何も変わっていない。眼鏡くんはちゃんと電話してくれているようだけれど、他の人はやっぱり行動出来なかったんだね。
それならば僕がやるだけだ。
「火事だ!火事だ!火事だ!火事だ!」
水越さんの家を出て、そう叫びながら走り出す。
「火事だ!消火器を貸して下さい!火事だ!消火器を貸して下さい!」
平日の夕方。
住宅街の大人達はまだ仕事中で戻ってきていないかもしれない。
それでもやらないよりかはマシ。
それと同時に、僕は脳内にインプットしてある消火器マップを起動する。
この街には道のいたる所に消火器が設置されているんだ。
一番近いその場所へと駆け込み、消火器を取り出して叫びながら戻る。
相変わらず茫然とし続けているクラスメイト達の脇を抜け、僕は再度水越さんの家の中に突入した。
火が回っていない今なら、消火出来るかもしれない。
消火器の使い方の予習はもちろん万全で、ピンを抜いて出火の原因と思われる部屋へと飛び込んだ。
「っ!」
炎を直視したことで、一瞬PTSDが蘇りそうになったけれど、火事で困っている人を助けたいという強い願いで強引にそれを振り払う。このまま火事を放置していたら、水越一家は持ち家を失うことになってしまうのだ。今ならまだリフォームでなんとかなる!
うおおおおおおお!
なんて叫ばずに、あくまでも冷静に火元に向けて消火剤を発射する。火事の中で叫んでしまい悪い空気を吸い込むなど愚の骨頂。あくまでも冷静に行動すべきだ。
火の勢いはまだ弱い。
消火剤の効果もあるように見えるし、これなら消火器だけで消火出来るかも。
ただ、燃えている範囲に対し、消火器が圧倒的に足りない。
一本を使い切ってもまだ炎が残っているため、次の消火器を見つけなければ。
次の消火器を求め、僕は急ぎ家を出た。
するとそこで見た光景は、予想外のものだった。
「火事だ!火事だ!」
「お願いします!消火器を貸してください!」
「火事!火事だ!本当に火事だぞー!」
「消火器!消火器!消火器!消火器!」
クラスメイト達が叫んでくれていたのだ。
周囲の方々の避難と、消火器の補充。
僕一人では足りなかった手を補ってくれていた。
やっぱり彼らは最高のクラスメイトだよ。
未だ何も出来ないでいる誰かさん達は除いて。
「あ、あの、炎谷くん。これ!」
「!!」
驚く僕に、水谷さんが消火器を渡してくれた。
「近所の人が貸してくれたの!」
彼女の視線の先を見ると、見知らぬ大人の女性が心配そうにこちらを見ていた。彼女が貸してくれたということなのだろう。
「それと、うちの消火器の場所を思い出したの! 玄関の左手の靴箱の横!」
「分かった、ありがとう!」
これで消火器二つゲットだぜ。
この先、もっと集まってくれれば消火出来そうだ。
集まらなかったとしても、消防車がやってくるまでの時間稼ぎには十分だろう。
サイレンの音も聞こえて来たことだしね。
「僕が消火してくるから。ここで安心して待っててね」
「で、でも私も何かしなきゃ!」
「ふふ。水越さんは弟さんを安心させてあげなきゃ。それが一番大事な仕事だよ」
そして僕みたいにPTSDにならないように、あるいはなったとしても少しでも抑えられるようにしてあげてね。
「…………気を付けてね」
彼女は何かを言いたげだったけれど、他ならぬ火事の経験者の僕の言葉だから受け入れてくれた様子だ。勇翔くんの身体をぎゅっと抱き締めながら、家から離れた。
その後、消火器が何本か集まったけれど、全てを消火するには至らず、消防車が到着して鎮火となった。
僕は無茶をしたことで病院送りとなったが、煙を吸いすぎることも無く、特に異常は無かった。むしろPTSDがぐっと柔らいで炎を見てもパニックを耐えられるようになったのだから、良くなったくらいだ。
やったぜ。
--------
まさか私の家が火事になるだなんて。
火事の原因はカーテンの僅かな隙間から漏れ入った光が、ガラス製のスタンド飾りを通過したこと。ガラススタンドがレンズの役割を果たしてしまい、しかも運悪く光が凝縮した先の床には紙がばらまかれていた。勇翔が遊んで放置してあったものだ。遊びに夢中になると片付けない癖があったけれど、今回の事で懲りて片付けるようになってくれるかな。
炎谷くんのおかげで全焼は免れたけれど、火事の後はてんやわんやだった。焼けたのは一階のリビングの床だけだったけれど、黒煙の影響で家中に耐えがたい程の焦げた香りが染み付いちゃって生活なんて出来やしない。仕方なく家族で数日ホテルに宿泊して、臭い取りだけ先にやってもらって今日ようやく戻って来た。
幸いにも勇翔は肉体的にも精神的にも怪我を負っている様子は無く、大事なものも燃えていなかった。炎谷くんには家族総出でお礼を伝えたけれど、まだまだ全く伝えたりないくらいだ。
「お父さん、お母さん、おやすみ」
「お休みなさい」
「お休みなさい」
火事以降、我が家に帰宅してから初めての夜。
両親に挨拶をしてから部屋に戻り、寝間着に着替えてベッドに横になるとようやく戻って来たという実感が湧いてきた。これまでは精神的に疲弊していたし、この先どうなるのだろうという不安で一杯で、心に余裕が全く無かった。久しぶりにほっと一息つけた、といった感覚だ。
「…………!」
目を閉じると、今になって猛烈な恐怖が襲って来た。
黒煙を前にどうして良いか分からなかった時の感覚が蘇り、勇翔の助けを求める幻聴が聞こえ、大事なものを失う不安が胸を締め付ける。
「大丈夫……もう大丈夫なんだから……」
そう口にして高鳴る心臓を必死に押さえつける。お風呂に入ったのに全身が汗でびっしょりであまりにも不快な感覚だ。
もう一度お風呂に入るべきだろうか。
お風呂で温まりながらゆっくりしていれば気持ちが落ち着くだろうか。
そこまで考えてふと思い出した。
「炎谷くんもこんな気持ちを抱えていたのかな……私もPTSDになっちゃったのかも」
直接巻き込まれた勇翔が平気で、外にいただけの私の心がダメージを負うだなんて情けない話だ。それにこの恐怖に打ち勝とうとしている炎谷くんが凄い人のように感じられた。
「…………あ、あれ?」
どうしてだろう。
炎谷くんのことを思い出したら、不思議と恐怖が消えた。
あんなに不快で全身が汗びっしょりだったのに、いつしか体は気持ち良くぽかぽかしているではないか。まるでお風呂にでも浸かっているかのように。
『絶対に弟さんを助けて戻ってくるから』
な、なにこれ。
私どうしちゃったの?
炎谷くんのあの時の笑顔を思い出したら、身体がなんか、変に、芯から疼くんだけど!
安心させてくれようと微笑んでくれた炎谷くん。
勇翔を守ることが仕事だよと笑顔で教えてくれた炎谷くん。
勇敢に火事の中に颯爽と飛び込んで、弟を抱えて堂々と帰って来た炎谷くん。
「~~~~っ!」
顔が熱い。
炎谷くんの顔が脳裏から消えてくれない。
会いたい。
話がしたい。
触れ合いたい。
私は馬鹿じゃない。
知らないからこそ、それが何なのか何度も沢山調べたから。
今の私がどうなっているのかなんて、すぐに分かった。
「炎谷くん……好き……」
どうやら私は人生ではじめて恋をしてしまったらしい。
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「お、おお、おおおお、おはっ、よう!」
「おはよう水越さん。どうしたの?」
炎谷くんのことを意識した翌日、当然のことながら私は動揺していつものように挨拶が出来なかった。そんな私の様子を彼は怪訝に思いながらも笑顔で対応してくれた。
そんな炎谷くんのことも好き!
「ちょ、ちょちょ、ちょっとね」
「ちょっとちょっと?」
「ちょっと、ちょっとちょっと。じゃなーい!古いって!」
「あはは、良く知ってたね」
あれ不思議、一瞬でいつも通りにお話出来るようになっちゃった。
でも気持ちはやっぱりいつも通りじゃない。
これまではクラスメイトとしてお話するのが心地良かっただけだったのが、軽快な会話が出来ることが嬉しくて楽しくて感情が爆発してしまいそう。
私は思い立ったら即行動するタイプ。
よしこの流れならいける。
やるよ!
「炎谷くん!好きです!付き合ってください!」
朝の始業前。
ざわめきが消えて時が止まったかのように静かに感じたのは気のせいだろうか。
いや、今はそんなことはどうでも良い。
炎谷くんの返事はどう!?
「…………」
困った顔してるー!!!!
うわああああん!
これダメなパターンだよおおおお!
胸が痛くて張り裂けそう。
ごめんなさいの言葉なんか聞きたくない。
聞いた瞬間に死んでしまいそう。
世の中の女子達はこんなにも辛い恋をしてきただなんて、すごすぎるよ。
「あ~あ、やっぱりこうなっちゃったか」
泣きそうな私の耳に、その女子達の一人の言葉が飛び込んで来た。
反射的に振り返りその人物を確認すると、調理実習で一緒の班だった、私と仲が良い女子だった。
「炎谷って誰が告白してもダメなんだってさー。てっきり水越が好きだからって思ってたけど、そういうわけじゃなかったのかー」
「え?え?どういうこと?」
まるで炎谷くんが私以外からも告白されているかのような話っぷり。彼ってそんなに人気あったの?
「あたしたちって、炎谷が水越のこと好きなんじゃないかって思ってたから、慌てて先に告白したんだー。でも見事に玉砕。かなしみー」
「……あたし……たち?」
「あの火事の時、一緒に居た女子全員」
「ぜんいんんんんん!?」
なにそれどういうこと!?
私が数日休んでいた間に何が起きたの!?
「だってあんなん見せられたら惚れるに決まってんじゃん。トラウマ抱えてるのにそれ克服して颯爽と火事の中に突入して子供助けるとか、漫画のヒーローかって話っしょ」
そ、そっか。
私が炎谷くんのことを好きだって思ったのなら、あの場にいた他の子も同じことを思ってもおかしくないんだ。
でも炎谷くんは、その告白の全部を断った。
「あ、あはは……」
彼は相変わらず困ったように笑っていた。
「理由を聞いても良い?」
炎谷くんとは将来お互いに相手が居なかったら結婚をしようと約束した仲だ。あれはほぼ冗談みたいな話だったけれど、私とそういう関係になるのが嫌だとは思ってないはず。
彼のことだ。
どうせ告白を断る理由は相手を想ってのことに違いない。
それなら諦めるにはまだ早い。
「マシになったとはいえ僕はPTSDになってるから、迷惑をかけちゃう」
ほらやっぱり!
それなら私のやることは決まってる!
「結婚して」
「話聞いてる!?」
押して押して押して押しまくる!
「もちろん聞いてるよ。でもそんなの関係ない。私は炎谷くんのことが好き。好きで好きで好きでたまらないの。だから迷惑をかけて。かけてくれたらそれも嬉しいから!」
「うっ……」
「勇翔も炎谷くんのことばかり話してるし、お父さんもお母さんも炎谷くんにたっぷり感謝してるし褒めまくってるし、むしろ絶対に捕まえて来いって言われてるもん!」
「何それ!?」
手ごたえありかな?
もう一押し!
「炎谷くんは私のこと、どう思ってる? もし本気で嫌なら……諦め……たくない……けど……ううん、惚れさせるように頑張る!」
我ながら諦めが悪すぎる。
でも本気の恋って多分こういうものだよね。
「…………水越さんって恋愛すると強引になるタイプだったんだね」
「うう……もっとおしとやかな方が良い?」
押し続けたのは逆効果だったのかな。
でも勢いに任せて走らないとどうにかなっちゃいそうなんだもん。
「ううん、僕は素の水越さんが好きだよ」
「へ…………それって!」
たった二文字の魔法の言葉。
好き。
それを伝えられただけで、こんなにも幸せな気分になれるだなんて知らなかった。
こんなにも愛おしさで満ち満ちて狂乱しそうになるだなんて知らなかった。
押しきったのは作戦通りのはずなのに、成功したらどうすれば良いか分からない。
はいはい、恋愛初心者ですよーだ。
「水越さん」
「は、ひゃい!」
炎谷くんが真面目な顔で私をまっすぐ見つめて来る。
その視線を真っ向から受け止めることが気恥ずかしくて逸らしたくなるけれど、必死に耐えた。
彼が真剣に何かを言おうとしているのだから当然だ。
「僕は将来、消防士になりたいと思ってるんだ」
「素敵な夢だね」
「…………ありがとう」
PTSDを抱えながらもそれに立ち向かう炎谷くんのことを私は尊敬していた。それは彼にとってかなり苦しい夢かもしれないけれど、私は努力する炎谷くんのことを本気で応援したい。出来ればその隣で。
「危険が伴う仕事で大怪我を負うかもしれない。そもそも夢が叶わずに安定した人生を送れなくなるかもしれない」
それは炎谷くんが恋愛をしないと考えていた理由の一つ。
PTSDで相手に迷惑をかけ、苦しい夢を目指すと決めたことで相手に迷惑をかけ、夢が叶っても仕事中の事故で相手に迷惑をかけるかもしれない。
相手の事を想って自分の気持ちを封印していた。
でもそれすらも受け入れて共に在りたいと願う人がいると知り、心を開いてくれた。
「それでも、僕と一緒に居てくれるのであれば、僕と結婚してください」
「はい!」
…………あれ?
結婚?
そうだった勢いに任せて『結婚して』だなんて言ったんだった!
だから炎谷くんはプロポーズし返してくれたんだ……
ああ……早すぎるような……いや……でも……まぁいっか!
「ああ……バカップルが成立してしまった」
「あれ絶対見てる方が恥ずかしくなる感じになるよね」
「ほらほら男子達、凹んでないで流石にもう諦めなさい」
「これからは今までみたいに炎谷に絡んだら奥さんがブチ切れるぞ」
私達はまだ若い。
特に私なんて恋を知ったばかりで暴走している。
でもそれで良い。
今はこの熱い熱い気持ちに身を委ねたい。
消防士を目指す炎谷くんでさえも、この恋の炎は消せやしない。