『毒の娘』はうろたえない
息抜きの短編です。
それは輪舞曲の終わりと同時に起きた。
「きゃあああ!?」
舞踏会のホールに甲高い悲鳴が上がる。
一人の老紳士が倒れ、執事や給仕たちが駆け寄り、あたりは騒然としていた。舞踏会に参加した貴族たちは遠巻きにその様子を窺っている。
倒れたのは年老いたヴェルデ男爵だ。うんともすんとも言わない青黒い顔のヴェルデ男爵は担架に乗せられて、医師がいるホールの外へすみやかに運ばれていく。
その騒然とした空気が冷めやらぬ中、一人の青年が叫んだ。
「お前がやったんだろう! この『毒婦』め!」
青年の声に反応して、周囲の人々は指差す先にいる——私へと視線を集中させた。
私はトランティナ伯爵家長女マリー・コランティーヌ・トランティナ。
私は、生まれつき特異な体質を持っていた。そのせいで顔上半分以外の肌の露出はできず、口元にはマスク代わりのヴェール、黒髪は一つに固くまとめ、特殊な繊維を使用した服や装飾品しか身に着けられない。
その特異な体質とは、私の体からは毒が滲み出るのだ。
指先から、涙や唾液、髪の毛一本に至るまで、液状、気体、粉末、あらゆる形の毒が生まれる。しかも、一種類ではない。感情により成分が異なるらしく、また指先の毒と足先の毒を掛け合わせたりすれば未知の毒さえ生まれる。そのせいで、私の毒に侵されきった母は出産直後に力尽きて亡くなってしまった。
しかし、幸いにして私は父に愛されており、父は私の毒の制御に苦心して、研究へ多額の投資をしてまで私を普通の貴族令嬢として生きられるよう努力してくれたおかげで、こうしてちょっと変わった見た目ながら貴族令嬢らしく舞踏会に参加し、婚約者もいるのだが——。
私を『毒婦』と罵った青年こそ、私の婚約者であるバルゲリー公爵家嫡男のリシャールだ。
「リシャール、突然何を言い出すの。私がヴェルデ男爵に何をしたと?」
「はん、騙されるか! ヴェルデ男爵はさっきまで健康そのものだった、それがわずかな間であの有様だ! お前の毒のせいだろう、恐ろしい女め! お前などと結婚できるか、婚約は破棄だ!」
リシャールの物言いに、私は呆れるしかない。
「付き合いきれませんわ」
「何だと?」
「いいかしら? 私は確かに毒を生む体質、ですけれどこの手袋や靴、服、ヴェールによってほぼ完璧に防げます。何より、今日はヴェルデ男爵に近付いてもいないし、ヴェルデ男爵は過去に二度心臓発作で倒れた経験がおありよ。ご存知なかったの?」
リシャールが知るはずはない。彼は名門公爵家の跡取りという立場に胡座をかいて、よその家の人間は貴族であろうと自分よりも下の身分であると信じている。いちいち名前を覚えることもなく、必要があれば名乗らせればいいとばかりの態度だ。倒れた老紳士がヴェルデ男爵だということさえも、私が言わなければ知らなかっただろう。
リシャールは浅知恵で動くところがある、そういうところが私は嫌いだった。
往生際の悪いリシャールは、まだ私に負けていないと思っている。すでに周囲の紳士淑女は、私ではなく及び腰のリシャールのみっともない姿へ嘲笑の視線を向けていることにも気付いていない。
「そ、それでもお前が何もしていないと」
「リシャール。公爵家の跡取りたるあなたが婚約破棄を軽々しく口にする意味、お分かりかしら?」
ピシャリ、と私は絶縁を言い渡す。
「そのような殿方が私の婚約者など、恥ずかしい。リシャール、あなたとはこれでお別れ。あなたの言い出した婚約破棄ですから、きちんと処理なさってね。それでは」
私はもうリシャールに目を向けることはない。さっさと舞踏会のホールを出ていく。
ただただ私のことが嫌いでしょうがなかった彼は、きっと知らない。彼の父、バルゲリー公爵が私の毒を欲して、私と彼との婚約を決めたことを。
あとのことは私の知ったことではない。私はこれ幸いとトランティナ伯爵家の屋敷に帰った。
あの馬鹿げた舞踏会の翌日、ヴェルデ男爵は意識を取り戻し、自宅でしばらく静養することになったそうだ。
すっかり新聞沙汰になってしまったが、リシャールのことは一言も書かれていない。バルゲリー公爵家嫡男とトランティナ伯爵家令嬢の婚約が破棄された、どう考えても一面トップの醜聞だが、その記事が載っていないあたりバルゲリー公爵が手を回したのだろう。
新聞を畳み、ため息を吐く私へ、美女と見紛うほど美しい白衣を着た男性が声をかけてきた。
「どうしたんだい、マリー。憂鬱なことでも? ああ、貴族はどこでも憂鬱なことしかないか」
『毒の娘』または『毒婦』とあだ名され恐れられる私へ、そんな軽口を叩けるのはごく限られる。
錬金術師エルコレ・ストルキオ。隣国ベルクト大公国からやってきた不世出の天才錬金術師は、私のトランティナ伯爵家の屋敷に居候をして、もう何年も私の毒について研究していた。
学者の研究室とは思えないほど明るく広々とした応接間で、私はソファにくつろぎながら、注射器など道具一式を持ってやってくるストルキオへ一つ皮肉を繰り出す。
「いつもは鬱陶しいあなたの軽口、今日は気晴らしになるわ」
「そうか、それはいいことだ。採血しても?」
「ええ」
私の皮肉なんて、ストルキオはかけらも気にしない。何年もこうして研究に付き合っているのだから、気心の知れた仲だ。
私は右腕にはまる滑らかな長手袋を外し、ストルキオが広げた特殊加工をした分厚い合成布の上に腕を置く。なんの変哲もない、ごく普通の女性の白い腕なのだが——その汗の一滴で人間は痺れて動けなくなり、血液ともなれば摂取した人間は確実に死に至る。慣れているトランティナ伯爵家の人間と錬金術師ストルキオ以外、誰もが恐れる毒の体だ。
そんな腕を取り、合成布の手袋をしたストルキオはさっさと採血用の紐を結び、手慣れた様子で注射器を血管へと差し入れる。やはりごく普通の赤い血がガラス製の注射器の中に吸われていく。
私はふと、ストルキオへこう言った。
「錬金術師というのは……何でもできるのかしら?」
「何でもはできないが、おおよそのことはできるようになるだろうさ。君の毒を防ぐ繊維も、錬金術の技術の粋だ」
「そうね」
「それに、あらゆる毒はあらゆる薬になる。要はものの見方、使い方さ。君の毒は確かに人類を病という災厄から助けるための道となっているんだよ」
何度も聞いた、私を慰めるように聞こえて、その実ストルキオは錬金術師としての見解、思ったことを言っているだけというやり取り。
ストルキオは私のご機嫌伺いなどしないし、私もストルキオに遠慮などしない。ストルキオの答えは、錬金術師として誠実な、嘘偽りのないものだろう。
いつもどおり採血を終え、脱脂綿と絆創膏を貼って私はソファで大人しくしておく。血の一滴、汗の一滴が飛び散っては大変だ。合成布のストールを腕に巻き、血が止まるまで待つ。
部屋の隅にあるアンティークの大型机にはいくつもの試験管が並べられ、薬品や器具は引き出しから溢れるほどだ。その隣には顔よりも大きなフラスコがガラス管で繋がって二つ、一つはじわりと炭で熱されて、もう一つのフラスコへと無色透明な液体をゆっくりと吐き出している。樫のテーブルには合成布が張り付けられ、万一毒がこぼれても問題ないように細工されていた。
ストルキオは私の血を試験管に移し替えると、長い白真珠のような艶やかな髪を一つにまとめ、机上のノートに文字を書き記していく。あのノートにはここ数年分の私の血の状態について詳細に書かれていて、その成果は着実に私の生活をより楽にしてくれている。私の毒が外に漏れない合成布はもちろん、特製中和剤で血や汗の洗濯が可能になり、専用の浴室の掃除もメイドを入れることができるようになって楽になった。一番役に立ったのは、私の有毒の呼吸はストレスによるものと突き止め、穏やかな生活を心がけることで少なくとも誰かを傷つけてしまうことはなくなった。
本当に、感謝してもし足りない。ただ、もはや勝手知ったる仲、いちいち口にすることはない。
そのストルキオの研究室へ、私の父トランティナ伯爵がやってきた。
「失礼するよ、ストルキオ博士」
「トランティナ伯爵、どうぞ。そちらの椅子をお使いください」
「ああ、ありがとう」
白髪交じりの黒髪をかきあげ、父はソファ横の木製椅子を引き、座る。正面のソファはストルキオが機材を置いているため使えない。
父は一通の封書を私へ見せた。
「マリー、バルゲリー公爵家から手紙が来てな」
言われずとも、私はその手紙の内容を察した。
「婚約破棄でいいでしょう?」
「ああ、もちろん。やれやれ、お前を怖がる程度の男に嫁がせるわけがないだろう」
「ふふっ、お父様ったら親馬鹿なんだから」
封書を持ったまま、父はやれやれと大仰に肩をすくめる。
毒の体を持った私は、普通の家に生まれればすぐに殺されていただろう。ところが私はトランティナ伯爵家に生まれた。父は私を生かそうとあの手この手で対策を探しつづけ、資金が必要であれば新事業を立ち上げて利益を全額投資する、という親馬鹿ぶりを発揮し、トランティナ伯爵家は父の一代で我が国有数の資産家に成長した。娘を思う父親の力はときに凄まじいものとなるのだと、私は知った。
だから、私は父に望まれるとおりの、普通の貴族令嬢としてその役割を果たそうと心に誓って、気に入らないリシャールとの婚約だって受け入れた。それがご破算となっても、父は私を責めるどころか、それでいいと言ってくれるのだから有り難い。
そこへ、ストルキオが助言とばかりに話に加わる。
「それに、マリーの毒は今後の学問、特に医学の発展に大いに寄与する。毒の意味も価値も知らない人間のところに行けば、こうして研究もできなくなってしまうでしょう?」
うんうん、と父はストルキオの言葉に大きく頷いた。
「まったくもって、ストルキオ博士の言うとおり。マリー、お前は」
「体質なんか気にせず人生を謳歌しなさい、でしょう? もう耳にタコができるくらい聞きましたわ、お父様」
「何度でも言ってやるさ、可愛いマリー」
私は、抱きしめられるために入念な準備がいるような娘だ。それでも、父は愛してくれる。
ストルキオが目を細め、私と父のやり取りを微笑ましいとばかりに眺めていた。
一方そのころ、バルゲリー公爵家屋敷の玄関では雷が落ちていた。
「何をしているのだ、お前は! あの『毒の娘』がいれば、いくらでも政敵に毒を盛れるというのに、利用価値の分からぬ子供はこれだから!」
公の場では尊大に振る舞うリシャールも、父バルゲリー公爵の前では恐れ慄き、縮こまって言い訳するばかりだ。
「も、申し訳、ございません。しかし、あの『毒婦』はヴェルデ男爵を」
「証拠もなく疑うほど、婚約を破棄したくてしょうがなかったか?」
「い、いえ、そのようなことは」
リシャールは親に決められた婚約を嫌い、理由さえあればいつでも破棄したいと願うあまり、親の思惑を見抜けなかった。マリーの毒は、怪しまれこそすれ入手経路が限られて手に入りにくい毒を毎日のように得られて、しかも強力な毒物であることは周知の事実だ。権謀術数に長けた貴族たちは、喉から手が出るほど欲しがる。バルゲリー公爵もトランティナ伯爵の財産とマリーの毒を欲して、身分の差や外聞を無視してでも婚約を交わしたのだから。
禿頭のバルゲリー公爵は頭皮に血管を浮き上がらせながら、リシャールへ怒りをぶつける。
「ふん。もういい、お前は謹慎だ! しばらく顔を見せるな! この馬鹿め!」
すっかり父のご機嫌を損ねたリシャールは、すごすごと屋敷の奥へと引き下がっていった。
鼻息荒くその姿が去るまで睨みつけていたバルゲリー公爵は、玄関の扉が開いたことで意識をそちらに移す。
そこには、礼服を着た面長の男性がいた。この国において、第一王子でありながら王位継承権を未だに持ち得ていないその男性を見て、バルゲリー公爵は頭を垂れる。
「バルゲリー公爵。聞いたぞ」
「これはラルフ王子殿下、このようなところにわざわざおいでくださらずとも、こちらから出向きましたものを」
第一王子ラルフ、バルゲリー公爵の甥でもある彼は、数々の私生活の醜聞から国王であり父のマクシム王に遠ざけられていた。第二王子や第三王子が城中でその政治的手腕を発揮して王位争いに没頭する中、ラルフはこうして貴族たちと縁を結び、バルゲリー公爵の後ろ盾もあって影響力を密かに伸長している。
その手段の一つとして、リシャールを使って『毒の娘』トランティナ伯爵家令嬢マリーを手に入れようと画策していたわけだが——。
「『毒の娘』を手に入れる計画は見直しか?」
「はっ、すぐに派閥内の適齢期の男子を探し、トランティナ伯爵家へ婚約をねじ込みましょう」
「いや、もうまどろっこしいことはすまい。私が直接婚姻を結ぼう」
「殿下が!? そのようなことは」
「妃の一人にすればいい。そのためには、分かっているな?」
手段を選ばず、トランティナ伯爵家へ婚姻を呑ませるためにはどうすべきか。バルゲリー公爵は頭の中で幾筋かの手をすぐに思いつき、実行を決断する。ラルフが王位に就けば、外戚としてバルゲリー公爵は絶大な権力を得ることができる。
「では、さっそくその手筈を整えましょう。マクシム王を排除しなくては、あなたさまの治世は望めますまい」
ラルフは満足そうに頷く。
「『毒の娘』を手に入れた暁には、真っ先に父のマクシムへ毒を盛ってやろう。私を遠ざけた罰だ」
陰険な企みに、陰湿な恨みを孕む第一王子ラルフも、バルゲリー公爵も、自身が悪であるとはまったく思っていない。正当な持ち得るべき力や財を手にするため、真面目に努力を重ねていると本気で信じている。
そうした性根の腐った王侯貴族を、トランティナ伯爵はもっとも嫌うのだということも、彼らには理解できないだろう。
いち早くバルゲリー公爵の謀略を察したトランティナ伯爵は、この日のうちに行動に出た。
愛する娘を守るためなら、トランティナ伯爵は何でもするのだ。
広々としたストルキオの研究室に、私はよく入り浸っている。外に出る機会も少ないため、ストルキオが一番の話し相手だった。
「ストルキオ、私は化学式は分からないのだけれど……これは新しいの?」
壁にかけられた黒板に、白墨でびっしりと記された化学式を指差して、ソファでくつろぎながら私は首を傾げた。
ストルキオはその意図を汲み、化学式そのものではなくそれによって何ができるかを説明する。
「そうだね、分かりやすく言えば、今までになかった形を生み出すために、君の毒が大いに参考になった、というところかな。未知の毒だろうと研究して分析してしまえば、式で表せる。そこから実用まで持っていくには年単位で時間がかかるが、それでもやる価値がある」
私はこう尋ねた。
「私の毒は役に立っている?」
「それを聞くのは何度目かな。初めて会ったころから、もう憶えていないくらい聞かれた気がするよ。君は不安なのかい?」
「ええ。役に立たなくては、私はただの『毒の娘』ですもの」
世間では自身がどう呼ばれているか、私はよく知っていた。『毒の娘』、『毒婦』、そのままの表現だが、それ以上にマリーを的確に表せる言葉はないだろう。父トランティナ伯爵はその呼称を聞くたびに憤慨し、粛々と訂正させているが、人の口には戸は立てられない。貴族たちは私を密かにそう呼んでいた。
ストルキオはやれやれと肩をすくめる。
「君はきつそうな外見に反して、臆病な性格だな」
「一言余計よ」
「それは失敬。でも、君はもっと胸を張って生きるべきだ。それを伯爵も望んでいる」
「分かっているわ。お父様がそう言ってくれるから、私は貴族令嬢らしくしてきたのだから」
ぷいと私はストルキオから顔を背けた。少しでも普通の貴族令嬢に近付くよう、散々努力をしてきたのだ。合成布という特殊な繊維の開発によって外見はそれらしく繕えるようになり、中身も貴族令嬢らしい教養や趣味を多く会得してきた。毒のことを知らない人間からすれば、自分は立派な貴族令嬢だろう。しかし、『毒の娘』や『毒婦』の名は知れ渡っており、現実はなかなかそうは見てもらえない。
となれば、とストルキオはこんな提案をしてきた。
「マリー、よければ僕の研究を本格的に手伝ってみる気はないかい? 毒の提供だけで不安なら、いっそ一緒に役立てる研究をすればいい」
それは気休めでも何でもなく、前々からストルキオは私へそう言ってきていた。私の頭脳なら手伝いくらい難なくこなせるだろう、と。
その気遣いが、何とも嬉しかった。
「そうね、それもいいかもしれないわ。でも、貴族令嬢なら……いずれは家のために結婚しなくてはいけないから」
「結婚したって続けられるさ。あの伯爵がそのくらいの理解もない男と君を結婚させるわけがない」
そのときだった。「あの伯爵」こと父トランティナ伯爵が、研究室へ慌ててやってきたのだ。
「マリー! 大変だ!」
息咳切って飛び込んできた父は、スーハーと呼吸を整えてから、重々しくこう告げた。
「ラルフ王子が、お前と婚姻を結びたいと申し入れてきた」
それは、と私が言葉を継ぐ暇もなく、父はストルキオへ向き直る。
「ストルキオ博士、マリーを連れて逃げていただきたい」
「いいですよ」
「待って、どういうこと?」
あまりにも淡々と父とストルキオが話を進めているため、思わず私は間に入る。
ストルキオは、呆れた様子で答えた。
「君を悪用しようとする馬鹿はごまんといるだろうが、この国の王子もその一人だったということさ」
「そういうことだ。マクシム王と対立しているラルフ王子が、お前を手に入れたら間違いなく暗殺に利用するだろう。ふざけたことを! バルゲリー公爵は今まで態度を鮮明にしてこなかったが、どうせ自分のドラ息子ではマリーを手に入れられなかったからと王子に泣きついたに違いない! そうでなければ、これほど早く話が来るものか!」
父は、すでに調べをつけていたのだ。父が娘の安全を確保するために国内各所、王侯貴族の懐にまで情報提供のパイプを作っているとはバルゲリー公爵もラルフ王子も想像していないだろう。それによって父は状況を正確に把握し、私を逃す決断をした。決して、私を暗殺の道具にさせないために。
そして、ストルキオもそれに同意する。軽口を叩いて、少なからず動揺する私の背中を押した。
「駆け落ちの逃避行だ。貴族令嬢らしからぬ行い、いや、らしいかな? ロマンス小説のようだ、はっはっは」
「笑いごとではないわ。もう、しょうがないわね!」
私は勢いをつけて立ち上がり、父の手を手袋越しに取る。
「お父様、必ずまたお会いしますわ。それまで壮健で」
「ああ、お前も元気で。安心しなさい、ストルキオ博士にならお前を託せる」
「どうだか」
確かに私にとってストルキオは気の許せる仲だが、緊急時に頼りになるかと言われればそこまで確信は持てない。
とはいえ、ストルキオには私を助ける気があるようだ。
「まあ、他国とはいえ一応僕も貴族だから、女性一人保護するくらいはできる」
「そうだったの? 今まで話してくれなかったじゃない」
「言ったら君を警戒させるだけじゃないか。ほら、お姫様、行こう」
こうして、マリー・コランティーヌ・トランティナはトランティナ伯爵の手引きにより、準備された財産と馴染み深い側付きのメイドや使用人たちを伴い、故郷を離れ、錬金術師ストルキオとともに少し離れた国——ストルキオの故郷ベルクト大公国へと出奔した。
ベルクト大公国は、小さいながらもしたたかな国であり、古くから学術を奨励しており、錬金術師たちの一大拠点として活気を帯びていた。
その国境を越え、父トランティナ伯爵の手回しによって関所で滞在許可を得た私は、やれやれと首を振った。
「聞いていないわ」
私を先導するストルキオは、素知らぬ顔で聞き返す。
「何が?」
「あなたがベルクト大公国大公の子だってこと」
ああ、とストルキオは気のない返事をする。
つい先ほど、関所の入国管理官へ私とストルキオは身分証明書を提出したのだが、ストルキオのそれを見た入国管理官は目を剥いて驚き、恭しく「公子閣下、おかえりなさいませ!」と挨拶したのだ。それから入国の手続きはスムーズに進み、一時間とかからず私はベルクト大公国の土地を踏んだ。
関所で使用人たちが審査の済んだ荷物を運んでくるのを待っている間、ストルキオは少しずつ自らについて話しはじめた。
「異母兄が大公になるが、庶子の僕はベルクト大公家の持つ爵位の一つ、ストルキオ子爵家の爵位をもらった。それだけだよ」
関所の窓の外を、ストルキオは遠い目で眺める。関所に隣接した都市ラヴィータは大きな城塞であり、ベルクト大公国第二の都市だ。分厚い城壁と多くの尖塔を持つ赤煉瓦の街は、実はストルキオ子爵家の領地でもある。つまりはこの都市の領主はストルキオなのだ。
しかし、ストルキオはそんなことを一言も言わず、マリーもさっき関所の入国管理官から聞いて知ったばかりだ。ストルキオは世事にあまりにも無頓着で、領地経営などは執事に任せっきりらしい。
「僕の母は錬金術の権威の一人、学者でね、とある伯爵家の令嬢だったが学問の世界に入りたいからと実家と縁を切って単身この国にやってきた。父は大公として母のパトロンとなり、その後母は愛人となって僕を産んだ。別に今の大公妃と仲が悪いわけじゃないよ、ただ母は探究心と行動力がありすぎて滅多に帰ってこないだけさ」
ストルキオはため息を吐く。研究熱心なのは母親譲りだったようだ、と私は内心似たもの親子であると確信するが、口にはしない。
「とはいえ……まあ、君のおかげで本国は相当僕に注目しているようだが」
「注目?」
それはどういう意味だ、と問いかけるよりも先に、ストルキオは不意に廊下の先、目を関所の入り口へ向けた。
そこには、十人を超える記者たちが待ち構えていたのだ。最新のフィルムカメラを向けてくる彼らは、口々にストルキオへ嬉々と言葉を投げかける。
「ストルキオ博士! おめでとうございます!」
「錬金術アカデミーの推薦でベルクト大公の進める国家プロジェクトへ参加資格を得たそうですが!」
「昨今の発見と研究成果が認められたようですね! 何か一言!」
熱気に包まれるその場を通り過ぎながら、ストルキオはこともなげに答えるだけだ。
「ええまあ、そのようで。それじゃ」
「そちらの女性は?」
「助手です」
ストルキオは強引に私の手を引き、外で待機している馬車へと押し込んだ。自分もそれに続き、記者たちを扉で拒絶して、御者へ馬車を出すよう命じる。
あまりにも突然の騒ぎに、私は驚くばかりだ。しかも、ストルキオは私のことを助手と言い切った。
「とまあ、こんな感じだから、君にはサンプル提供者としてだけでなく助手としても協力してもらいたい」
「忙しそうね……」
「人体に有害なものを扱う研究だから滅多やたらと部外者を入れるわけにもいかないし、君なら毒の耐性もあるからさ。頼むよ」
そこまで請われては、やぶさかではない。新天地に来た以上、新しいことに挑戦するのも悪くなかった。
「ところで、国家プロジェクトって何?」
「ああ、再来年派遣される南方大陸奥地探検隊に必要な解毒剤や予防接種などを開発する計画さ。暑いところは伝染病や寄生虫、植物に動物の毒なんかも危険はわんさかあるからね。それらのリスクを少しでも減らすことが目的の、新天地発見に熱心なベルクト大公肝煎りのプロジェクトというわけだ。君の多種多彩な毒のおかげで色々な種類の対策が打てるから、貢献してもらえると助かる」
なるほど、と私は納得する。
自分の毒が役に立つ、それは今までどこか遠い話で実感が湧かなかったが、そんな計画に参画して協力できるなら——きっと、間違いなく誰かのために、命を奪うのではなく命を救うために役に立つのだろう。
「暗殺に使われるよりはずっと有意義ね。いいわ、協力しましょう」
「そうか、ありがとう。ああ、君の毒を悪用しないことを誓約書に書いておこうか?」
「いいわね、破ったら私の毒を呷ってもらうわ」
「ははは、冗談じゃない」
私は都市ラヴィータを拠点に活動する稀代の錬金術師エルコレ・ストルキオの助手となって——何も変わらないようで、何もかもが変わった。
何せ、私を『毒の娘』、『毒婦』と罵る人間はここにはいない。ストルキオの屋敷からほとんど出ないだけで、何一つ不自由はなく、助手として仕事をするなら何をしてもいい。もはや貴族令嬢でもなく、トランティナ伯爵家令嬢の肩書きもなく、利用されることに注意を払わなければならないこともなくなり、私は軽やかに人生を歩めるようになった。
季節が一巡して、分かったことがある。
私の血は毒蛇よりも毒性が強く、ストルキオの研究によりその系統の毒に対する最強の血清ができたこと。
私の髪の毛はとある酸に浸すと毒が分解され、それを利用して毒を吸着する素材が作られたこと。
さらには——毎日ストルキオは、私の横で大喜びで発見と開発、研究を繰り返していること。
私は毎日、呆れ半分、喜び半分でストルキオの隣で助手をしている。あるときストルキオのもとに南方に棲むという大きな毒蛇が届けられ、それは私のペットとなった。名前はジャスパーだ。すっかり私に懐いたジャスパーは、いつも私の首に巻きつき、一緒だ。
ストルキオには、より強い毒を持つ私に一目置き、ジャスパーは従っているのだ、と軽口を叩かれたが、あながち間違いでもないかもしれない。
一日の終わりに実験機材を片付けながら、私はジャスパーを寝床の箱に戻し、不思議に思った。
「未だにジャスパーの毒より強力な毒が私の爪から出るとは思えないわ」
今日の研究成果をノートにまとめるストルキオは、机に向かいながら答える。
「そうかい? それより新たな発見だ」
「今度は何?」
「君の体から出る毒というものは、一部は君の体の抵抗力が強すぎる結果、人体にきわめて有害な物質となっていることが分かった。つまり、別に君の体が積極的に毒を出しているわけではなくて、君以外の人間がひ弱すぎるだけとも思われる……そんなこともあるさ」
そう、と私は生返事をした。それを言って女性が喜ぶと思っているのか、と言いたいのを我慢する。
ストルキオは調子に乗って、さらに舌を滑らかにする。
「あと面白いことも分かった。君の血液から採取した血漿、アルコールを上回る殺菌力がある。これを応用すれば術後の感染症対策が」
私はジャスパーの寝床の箱に蓋をして、ストルキオの背後につかつかと近寄り、振り向いたストルキオの顔を両手で捕まえた。
相変わらず、美女と見紛うほどの顔立ちをしたストルキオは、私が顔を近づけようと平然としている。息がかかるほどの距離で、私はこう言った。
「もし私があなたに口づけをしたら、あなたは死んでしまうのかしら?」
ストルキオは笑う。机の一角にある試験管を指差した。
「それも対策済みだ。中和剤は用意してあるし、長くなるようなら氷嚢を顔に当てておけば万一の毒の回りも抑えられる」
「なら、大丈夫ね?」
「ちょっと待った」
ストルキオは自分の白衣の懐に手を差し入れ、小箱を取り出した。
開かれたそれの中には、白く輝く、金の指輪が二つ。ストルキオは一つを指でつまみ、私へと見せつける。
「君の毒の影響を受けない白金の指輪だ。受け取ってからにしてくれ」
それはまるで、命乞いのようで、命を託すようで、かけらも毒を怖がってなんかいないようで。
私は白金の指輪を受け取り、自分の薬指に嵌めた。
その間にストルキオは椅子ごと向き直って、私を受け止めるために両手を大きく開く。
私は、感心しつつ、おかしくて笑う。
「用意のいいこと」
「いい褒め言葉だ」
私に触れるためには、いくつもの準備が必要だ。
それでも、毒を乗り越えて私と触れたい人というのはいて、私の毒を理解しようとしてくれる人もいる。
だから、私は躊躇うことなく、ストルキオの胸の中に飛び込んで、キスをした。
いつしか故郷ではトランティナ公爵家が生まれていて、父が後見人となっている第四王子が王位を継ぐことになった、と手紙が来た。
それを読みながら、私は白真珠のような髪を持つ幼児を膝に乗せて、手袋越しに頭を撫でた。
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